2021/10/02

賤民史観と「解放令」 その7 続々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」

賤民史観と「解放令」 その7 続々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」 

『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』の著者・尾藤正英は、「皇国史観」について、「「万世一系」の天皇を君主とする日本の「国体」が、古代以来不変であった」とする歴史観であるとしています。

尾藤は、「当時の国家権力の側での用語」としての「国体」を、反権力の側は「天皇制」という用語で呼んだといいます。

尾藤は、この「国体」と「天皇制」という異なる政治的立場からの用語は、「意味内容においてほぼ一致していたとみることができる」といいます。次の等式が成立していたと考えられます。

「国体」≒「天皇制」

尾藤正英は、「「天皇制」というのは、必ずしも明確な概念ではない。この語が最初に用いられたのは、1932年に発表されたコミンテルンの日本革命に関する綱領(32テーゼ)の日本訳においてであったとされているが、その際の意味内容は、まさに右に定義された近代天皇制と一致しており、それがこの語の本来の意味であった。ただし、それは学問上の概念というよりは、打倒されるべき対象としての現実の日本の国家制度、とくにその中核をなすと考えられた君主制を指す、左翼的な政治運動の立場での用語」であるといいます。

「左翼用語」としての「天皇制」概念が、当時のひとびとに簡単に受け入れられていったとは考えられません。尾藤は、「戦前・戦中の時代にあっては、それを使用するだけでも治安維持法などにふれかねない危険な語であった。」といいます。

「天皇制の恐怖」(上横手雅敬著《日本の歴史思想》)を経験してきたひとびとにとっては、「天皇制」という用語は、使用をためらわざるを得ないことばだったのでしょう。

しかし、この「天皇制」ということばは、戦後、「政治用語」・「左翼用語」から「学術用語」として位置づけられるようになります。「敗戦後・・・、とくに憲法改正をめぐる論議の中・・・この語が法学者たちによって使用されるのが普通となった。」からです。

「天皇制」ということばが一端「学術用語」として採用されるようになりますと、この用語は、日本史の通史の叙述において使用されるようになります。本来、「「明治維新」から「日本国憲法施行」までの近代日本の国家体制」を指して使用される「天皇制」は、「近代天皇制」という時代的制約を越えて、古代・中世・近世、そして現代へと普遍化されて使用されるようになります。

尾藤は、「狭義の「天皇制」」と「広義の「天皇制」」概念が生じたとしますが、「「広義の「天皇制」概念がかなり一般化している現在では、((「狭義の「天皇制」」)の立場をとる場合)、「これを「近代天皇制」と表現するのが普通になっている」といいます。

戦後、「皇国史観」に関する研究は、「皇国史観」を否定する元「左翼用語」を用いて遂行されるようになります。「天皇制」という用語が、たんなる<記号>として使用されたのならともかく、なんらかの<意味>あることばとして使用されるようになると、「皇国史観」に関する言及・研究が、元「左翼用語」で染色されるようになります。

「国体」=「天皇制」

学術的にこの等式が成立するようになりますと、「国体」・「天皇制」の両概念の属性が相互に交差するようになります。「国体」≒「天皇制」ではあるが、両概念はまったく異質な概念であると認識されていた時代では考えられないような混同が生じるようになります。

「天皇制」問題が、筆者に、「分かりにくい」という印象を抱かせるのは、「天皇制」という概念が、「国体」=「天皇制」を指す「学術用語」として普遍化されたことによる<複雑化>が原因しているのではないかと思われます。

戦後、「天皇制」という用語に限らず、「歴史観」においても、「皇国史観」と「唯物史観」の<混合>・<融合>・<複雑化>をもたらしたのではないかと思われます。「戦前の皇国史観に回帰することを警戒する配慮」(尾藤)が働いていたとしても、無意識下での「皇国史観」と「唯物史観」の<混合>・<融合>・<複雑化>が遂行された・・・のではないかと思われます。

「部落研究」・「部落問題研究」・「部落史研究」に際して、その研究結果だけでなく、研究者の体質にも大きく影を落としてきたように思われます。

筆者が、『部落学序説』執筆の構想をもちはじめたころ、その内容をよく、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者・教育者に話していましたが、そのとき、彼らの多くは、「非常民の学としての部落学」構築の可能性のないことを力説してきました。

そのときの根拠としてあげられた研究者のひとりに、部落解放研究所研究員の渡辺俊雄がいます。彼は、『いま、部落史がおもしろい』(解放出版社)の著者として有名ですが、渡辺俊雄のようなひとでさへ、「部落史の体系をもっている」ことを否定しているのに、学歴も資格も持ち合わせていないただのひとが、「非常民の学としての部落学」構築を提案するなど、もってのほかだ。わらわれるのがおちだから、やめておいた方がいい・・・」という助言でした。

筆者に対する批判の典拠として、「渡辺俊雄はこのようにいう・・・」と度々提示されましたので、渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』を買い求め精読することになりました。

渡辺俊雄はこのように記していました。

「ある時期に歴史上のある出来事を評価したとします。その評価はその時期としては知られている歴史的な事実を踏まえたすぐれた研究、歴史の見方であっても、その時期の研究水準、問題意識にどうしでも制約されているということです。ですから時が移りかわり、新しい歴史的事実が知られるようになり、歴史の見方そのものが変わっていけば、同じ歴史的事実に対する評価が変わってくるのは致し方ないことです。だから歴史の研究、歴史の見方は、時代とともに豊かになる可能性を秘めているとも言えます。・・・とくにこの10年ほど、社会主義体制が崩壊し、いわゆる「55年体制」と呼ばれる政治の枠組みが崩れるなど、社会はいちじるしく変化してきました。こうした時代に、歴史の見方が変化しないはずがありません。部落史も、もちろんです。だから、「10年前に、部落史をこう習ったから」といって、今日でもそのまま通用するなどと考えないでください」。

既存の歴史に対する見直しの必要性を訴える渡辺俊雄のことばはよくわかりますが、彼は、『いま、部落史がおもしろい』の冒頭において、「部落史の研究が進み、これまで知られていなかった新しい事実や部落史の新しい見方が生まれてきた・・・」と指摘し、その具体例として、鈴木二郎著『現代都市の社会学』・上杉聡著『明治維新と賤民廃止令』をとりあげ、明治4年8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告を、「第○○号」と呼ぶのは誤りで、「解放令」(「賤民制度を廃止」)と呼ぶべきであると主張されていました。

渡辺俊雄は、『部落学序説』の筆者が指摘する、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を部落史研究の新しい成果として認識していたのです。

そして、筆者に少なからず衝撃を与えたのが、部落解放研究所の研究員である渡辺俊雄という研究者の思想の中に存在する、「唯物史観」と「皇国史観」の<混合>・<融合>・<複雑化>でした。渡辺は、「唯物史観」と「皇国史観」を、研究者としての彼の人格の中で統合・一体化してその論を立てていたのです。

渡辺は、「近代の天皇制はたんに政治制度としてだけではなく、社会や思想の面など、私たちの生活の隅ずみにまで浸透しているのであり、そうした問題として考えなければ天皇制と部落問題の関係は見えてこない・・・。」といいます。彼の「そうした問題として考えなければ・・・」ということばは、渡辺俊雄が、「唯物史観」と「皇国史観」の<混合>・<融合>・<複雑化>を、部落史研究者として、主体的に採用したことを示しています。

渡辺俊雄の「唯物史観」と「皇国史観」の融合形態は、彼の、明治4年の「解放令」に言及する論説に端的にあらわれています。

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