2021/10/01

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界 5

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その5)

「私の揺れ動きは、水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動きと重なり合い、また組織としての水平社の揺れ動きとも相通じるものがあると感じている」。

前回紹介した、『水平社の原像』の著者・朝治武氏の言葉です。

朝治武氏は、彼の「揺れ動き」は、「水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動き」と、重なりあっているといいます。また、「組織としての水平社の揺れ動き」とも相通じるものがあるといいます。

その「揺れ動き」は、朝治武氏がその著・『水平社の原像』で、多くの史料・論文を駆使して証明しているように、「権力」と「反権力」の間の「揺れ動き」を意味しています。

「権力」(国家権力)の施策に追従していくか、それとも、共産主義の思想と運動に加担して「反権力」としてその運動を展開していくかどうか・・・。

水平社運動は、その創立時点から、「権力」の側に身をおくか、「反権力」の側に身を置くか・・・、葛藤状態に置かれていたのであり、その葛藤状態は、戦前の国家総動員の流れに身を棹させ、それまでの、「権力」・「反権力」の立場が融合され、国策としての戦争遂行に主体的に協力させられていく中で、1942年2月「消滅」させられていきます。

戦前の水平社運動、そして、その継承としての戦後の部落解放運動・・・。

常に、「権力」と「反権力」の間の「揺れ動き」が存在してきたように思われます。

朝治武氏は、元来正直なお方なのでしょう。

自らの、「歴史的存在としての部落民」としての主体形成の中で、「水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動き」、「組織としての水平社の揺れ動き」と同じ「揺れ動き」・・・、「権力」と「反権力」のいずれの側に自分の身を置くか、その葛藤状態にあったことをあからさまに文章化されているのですから・・・。

朝治武氏は、「水平運動」という概念の見直しと再定義という作業を通して、朝治武氏自ら、「反権力」側ではなく、「権力」側に身を置いて、「水平運動史研究」を行う、と宣言されているのですから・・・。

朝治武氏は、1955年生まれ。そして、同和対策審議会答申が出されたのは、1955年・・・。朝治武氏、10歳のときです。その中で、同和教育を受け、部落解放運動にかかわって来られた・・・、ということは、朝治武氏は、「同対審答申」世代に属しているということになります。

「同対審答申」がいわば、同和教育や部落解放運動の前提となり、その論調が、空気のように、被差別部落の人々に浸透していった時代の申し子として成長し、やがて、「水平運動史研究」の論客、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の列に加わるようになっていったと思われます。

『部落学序説』の筆者としては、既に論述したことのある事柄ですが、「同対審答申」は、基本的には、政治起源説を否定しています。政治起源説というのは、広義の場合、「国家権力によって部落差別がつくられた・・・」という意味を含みます。

「同対審答申」にかかわった委員の中に、磯村英一氏がいますが、磯村英一氏は、部落差別が封建遺制の問題ではなく、近代中央集権国家・明治天皇制下において創設されたものであることを示唆しています。

「同対審答申」が出されるとき、<統一見解>だけでなく、その審議過程の中で明らかになった少数意見も参考として併記されるべきであったと思っていますが、「同対審答申」以降は、部落差別の権力起源に関する論述はかげひそめ、部落差別を、<政治的結果>としてではなく、<社会的事象>として認識されていきます。

「同対審答申」以降の部落解放運動は、朝治武氏が指摘する「揺れ動き」の中で、「反権力」から「権力」の側へ身をすり寄せていくことになります。

33年間・15兆円の同和対策事業・同和教育事業を展開した「国」・「権力」に対して、近代部落差別を政治的につくってきたその責任を明らかにすることを避け、あるいは放棄・断念して、「国」・「権力」と歩調をあわせて最大限の「利権」を追究していくことになるのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者は、それに加担し、被差別大衆、一般国民の目を、部落差別の本当の原因・起源から逸らしていくのです。

朝治武著『水平社の原像』は、そのような流れの中に身を置いた、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者の影響下での著作といえます。『水平社の原像』は、朝治武氏の<個人的労作>に終わらず、この論文を成立させた、学者・研究者・教育者の研究や思想が反映されたものであるといえるでしょう。

それにしても、朝治武氏は、『水平社の原像』発刊にいたるまでに、「出会い」・「仕事」・「語らい」・「人格からの刺激や影響」・「協力」・「励まし」を受けたとして、250名にのぼる人々の名前を列挙されています。

「わずかの出会いであるのに名前が挙がっていることを不思議に思われる方々もおられるかと思われる・・・」と記していますが、250名以上の個人名だけでなく、「著作や論文で学ばせていただいた方々」、「お世話になっていながら名前を記すのを忘れた方々」が多数いることを記しています。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者には、まったく縁のない人々ばかりですが、朝治武氏が列挙している名前をひとつひとつたどっていて思うのですが、それらの人々は、いわゆる、日本の<中産階級>・<知識階級>に属している方々です。組織として部落解放運動に参加しておられる方々も、ほとんどの人は、一般の同盟員ではなく、指導的役割を果たしている方々です。

筆者は、朝治武氏が、『水平社の原像』の執筆・発刊のため影響を受けた人々の名前を列挙すればするほど、その人名録の意味があらわになってくると思われます。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者は、朝治武氏の『水平社の原像』を前に思うのです。

『水平社の原像』の執筆・発刊に際して、<中産階級>・<知識階級>の影響を受けたという朝治武氏の言葉はわかりますが、朝治武氏にとって、名も無き民である<部落大衆>、<被差別民衆>はどのような意味があったのか・・・、と。

朝治武氏は、名も無き<部落大衆>、<被差別民衆>については、ひとことも言及されていないのです。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、朝治武氏の「水平運動史研究」、『水平社の原像』は、民衆史的視点が著しく欠如しているように思われます。民衆史的視点より、権力史的視点に立脚して論述を展開しているように思われます。

さらに言葉を加えれば、朝治武氏は、<部落大衆>、<被差別民衆>を軽視しておられるのではないかと・・・。

多くの<部落大衆>、<被差別民衆>は、朝治武氏がいうところの、「生まれつき部落民」であり、「部落に生まれ育った者」です。

しかし、朝治武氏は、「部落に生まれ育ったというだけでは歴史的存在としての部落民ではない」と言い切られます。「部落に生まれ育った者が誰しも、また必ずしも部落民なのではない」と。

『部落学序説』の筆者が、20数年前、山口の小さな教会に赴任してきて、はじめて接するようになった、山口県の被差別部落の人々、多くは、「部落に生まれ育ったというだけで・・・」差別されている人々であったし、「部落に生まれ育った者」が、被差別部落に住むようになった歴史と経緯に一切触れられることなく差別されている人々でした。

戦後の部落解放運動に直面した被差別部落は、山口県の全部落の何分の一にも満たないでしょう。

『部落学序説』の筆者は、まったくの門外漢ですが、日本の社会から、部落差別をなくすために、部落差別完全解消を実現するために、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究が無視するか、看過してきた<部落大衆>・<被差別民衆>にもっと耳を傾けなければならなかった、のではないでしょうか・・・。

被差別部落出身の学者・研究者・教育者が、<民衆史的視点>を失う・・・。悲しむべき「部落解放運動」の現実であると思われます。

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