2021/10/01

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界 6

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その6)

朝治武氏は、『水平社の原像』において、「水平社運動」という概念を捨て、「水平運動」という概念を採用します。

「水平運動」という概念は、『水平社の原像』において、朝治武氏が定義する唯一の言葉です。

確かに、朝治武氏は、その著書において、「水平運動史を理解することは「部落・差別・解放・運動・組織・人間」という部落問題に向き合うに際して避けて通ることのできない基礎概念を再検討し、その意味を具体的かつ深く豊かに理解すること・・・」であると、「基礎概念」の定義の検証あるいは再定義の必要性を説いておられますが、『水平社の現像』を一読してみるとすぐにわかることですが、「部落」・「差別」・「解放」・「運動」・「組織」・「人間」という概念については、ほとんどそのこころみを提示することはありません。

朝治武氏は、「水平運動」にとって「必要不可欠かつ重要な要素」として、「人間主義」と「部落民意識」を抽出していますが、この両概念についても、ほとんど定義らしい定義をしていません。

『水平社の原像』の読者の恣意的な解釈にゆだねているようです。

「人間」とはなにか・・・。「人間主義」とはなにか・・・。「部落」とはなにか・・・。「部落民」とはなにか・・・。「部落民意識」とは何か・・・。

それだけではありません。

その他の「基礎概念」、「差別」・「解放」・「運動」・「組織」についても、ほとんど定義らしい定義をしていないのです。

朝治武氏は、「避けて通ることのできない基礎概念を再検討し、その意味を具体的かつ深く豊かに理解すること・・・」の必要性を説きながら、実際には、それらの「基礎概念」を批判検証し、再定義するという営みを実践していないのです。

筆者は、このことを確認しながら、このことをどう受け止めればいいのか・・・、思案してしまいます。

<無定義の定義>・・・

<無定義>は<定義>ではないので、<無定義の定義>というのは、矛盾概念です。しかし、この表現をもってしか、朝治武氏の言説を理解することは困難です。

<無定義の定義>、それは、<一般説・通説・俗説において、その概念の内包・外延が確定されているので、それを踏襲することにし、あらためて定義しなおすことをしない>と、定義過程を省略する方法・・・、という意味合いで使用することにしましょう。

『部落学序説』第5章・第2節・第1項の主題は、「朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界」と題しましたが、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、「部落史個別研究の限界」というのは、この<無定義の定義>に起因すると思われます。

朝治武氏をはじめとする、部落史個別研究は、その論文の中心的な基礎概念については定義をこころみますが、その中心的な基礎概念にとって周辺的な基礎概念については、一般説・通説・俗説において流用されている意味を無批判的に採用する・・・、その結果、中心的な基礎概念の導入において、一般説・通説・俗説を凌駕しているように見える説も、結局は、ふたたび、一般説・通説・俗説のうちに吸収されてしまう・・・。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が、恣意的に手軽に<無定義の定義>を実践しますと、どのような、部落史の個別研究も、一般説・通説・俗説の追認と確証に奉仕することに結果すると思われます。

朝治武氏は、《徹底的糾弾の再検討》という論文の中で、「歴史認識の形成を担う研究や叙述は対象を問うているようにみえて、実は研究や叙述をおこなう主体のあり方も問われている・・・」と言明しています。

朝治武氏が指摘する研究者の「主体のあり方」を批判的に検証すること・・・、それこそが、『部落学序説』が「序説」(プロレゴメナ)として銘打つゆえんです。

筆者は、『部落学序説』において、その研究方法を何度か説明してきました。

無学歴・無資格である筆者の基本的な研究方法は、既存の論文の比較研究です。ひとつのテーマに、Aという学者の説と相反するBという学者の説を比較検証することで、どちらか一方を『部落学序説』に基本的な資料に組み込んでいく・・・、という方法です。

今回の、朝治武氏の著作『水平社の原像』については、『部落学序説』の読者の中に、朝治武氏の論理・論法について擁護することを準備されておられる方がいますので、Aという学者(朝治武氏)の説はとりあげましたが、比較検証する、もう一方の、相反するBという学者の説は、反論用に伏せておきました。

Bという学者は、朝治武氏が、巻末で列挙されている250名にのぼる学者・研究者・教育者・指導者・運動家の名簿の中のひとりです。

次回、朝治武氏の指摘する「人間主義」と「部落民意識」の問題点についてとりあげます。

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