2021/10/01

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界 4

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その4)

朝治武氏は、その著書『水平社の原像』の冒頭で、「水平社運動」という概念を破棄して「水平運動」という概念を採用することを明言しています。

「水平運動」とは何か・・・。

朝治武氏は、「水平運動」とは、「水平」という概念に「運動」という言葉を付加したものであるといいます。

朝治武氏は、「水平運動」は、「水平を実現する運動」である・・・、という見解に賛同しておられるようですが、それでは、「水平」概念は何を意味しているのかといいますと、「差別のない平等な社会を実現する」という意味であるといいます。つまり、朝治武氏は、「水平運動」を、<差別のない平等な社会を実現する運動>として定義している・・・、ように思われます。

朝治武氏が、「水平社運動」という概念を退け、「水平運動」という概念を採用するのは、「水平運動」を、特定の運動団体の運動に集約させず、より、一般的・普遍的な広範な意味でとらえようとした意図を反映したものではないかと思われます。

朝治武氏は、それに反して、「水平社運動」という概念を、さまざまな史料を分析して、「水平社運動」という概念は、「水平社のみの運動」を意味し、「否定的な意味が込め」られているといいます。部落史の史料をひもとくと、「水平社運動」という概念が、「部落のみの利害を追究した排外主義的で否定すべき運動」として全国水平社自身によって使用されたこともある・・・、といいます。

朝治武氏は、関連史料を分析して、全国水平社自身、その運動の展開にあわせて、「水平運動」(1922~1931年)・「水平社運動」(1932~1933年)・「全国水平社運動」(1934~1942年全国水平社が消滅するまで)という概念が創出された・・・、といいます。

「水平運動」という概念は、「官憲」(たとえば「内務省警保局」)や「融和団体」(たとえば「中央融和事業協会」)によって「統一」的に使用されていた・・・、といいます。その反面、浅田善之助・北原泰作などは、「水平運動」ではなく「水平社運動」という概念を採用していた・・・、といいます。

しかし、朝治武氏は、歴史上の「水平運動」・「水平社運動」の使用歴をあきらかにしつつ、朝治武氏の研究論文においては、「水平社運動」という概念を退け、「水平運動」という概念を採用する・・・、といいます。

朝治武氏は、浅田善之助・北原泰作などの「部落解放運動」の先駆者たちが使用した「水平社運動」という概念を意図的に排除し、国家権力が採用した「水平運動」という概念を意図的に、その研究論文の中に採用した・・・、と宣言しているように見えるのですが、そういうことがあるのかどうか・・・、否、あるかもしれない・・・、と筆者には思わさせられます。

朝治武氏の「立ちどころ」はどこなのか・・・。

「権力」の側か、それとも、「権力」によって差別され排除されている「部落大衆」の側か・・・。

朝治武氏は、「部落史」上、あるいは、「水平運動史」上、「水平運動」という概念と「水平社運動」という概念の歴史的な諸相を明らかにしつつ、それでもなお、朝治武氏は、自己の「水平運動史研究」の基本的概念として、あえて、「水平運動」・・・、という概念を使用するというのです。

その理由は、「全国水平社創立とその精神を生かした運動を重視するがゆえ・・・」であるといいます。

「全国水平社創立とその精神」・・・、それを明らかにするためには、浅田善之助・北原泰作などの部落解放運動家の概念ではなく、国家権力の使用した概念を採用する必要がある・・・、ということなのでしょうか・・・?

朝治武氏の、「水平社運動」概念を否定し、「水平運動」概念を採用した背景には、今日的状況でのある種の政治的決断が含まれているのでしょうか・・・?

朝治武氏の概念定義の説明を読んでいますと、「歴史学者」のそれでもなく、「博物館学芸員」のそれでもなく、「部落解放運動家」のそれが見え隠れしているように思われます。

朝治武氏が、その「水平運動史研究」の基礎概念として採用した「水平運動」という概念は、極めてイデオロギー的な価値概念であるといえます。朝治武氏が、『水平社の原像』に収録された論文について、「はたして描かれた歴史は実像なのか、それとも言説で構築されたものなのか・・・」と自問自答する背景には、「水平運動」という概念をあえて採用する朝治武氏のこころのなかに、なんらかのためらいが存在するためではないか、と想像せざるを得ません。

朝治武氏は、「あとがき」でこのように綴ります。

「翻ってみれば、部落に生まれ育ち自分なりに部落差別に向き合ってきた私も、部落民として自らを形成するためにいつも揺れ動いてきた。その私の揺れ動きは、水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動きと重なり合い、また組織としての水平社の揺れ動きとも相通じるものがあると感じている。すなわち私にとっての水平運動史研究をはじめとした部落史研究は、私が単に部落に生まれ育ったという事実から、今を生きる歴史的存在としての部落民へと主体形成していくために、きわめて重要な役割をはたしているのである」。

朝治武氏の『水平社の原像』は、朝治武氏の思想遍歴・運動遍歴・研究遍歴の「揺れ動き」の中、ある時点での振り子が一方向に振り切れたときの著作かもしれません。

『部落学序説』の筆者である私には、被差別部落出身の歴史学者である朝治武氏が感じているようなこころの「揺れ動き」はありません。「第三者」として、入手できた史料をもとにして、純理的に追究していくのみです。

ちなみに、極めて常識的な、『部落学序説』の筆者としては、「水平運動」という概念より、「水平社運動」概念を採用します。

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