2021/10/03

深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件 序

深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件 序


筆者の棲息する建物(礼拝堂+牧師館)は、かなり老朽化しています。どちらかいうと、田舎の古い公民館のような感じがします。

この地に赴任してから20数年、毎年5月の連休の時には、この建物から大量のはねありが旅立っていきました。しかし、ここ数年、駆除が効果を発揮しはじめたのか、それとも、はねありが食べることができる部分は食べ尽くして不要になったために住処を移動したのか、定かではありませんが、飛び立つはねありの数が激減しています。

教会の役員会に何とか対策をとるように何度も訴えたのですが、唯一とった対策が、はねありがでてくる隙間に1メートルくらいのガムテープを貼ることでした。出口をふさがれたはねありは、いろいろな隙間から出るようになり、はねありによる建物被害は、一挙に建物全体に及んでしまいました。

そのとき、押し入れにしまってあった、深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件に関する資料、みかん箱2箱分が、はねありの幼虫に食いつぶされてしまいました。

深津県も北条県も、現在は、岡山県に含まれていますが、廃藩置県直後は、深津県・北条県は、岡山県とは別の県を構成していました。

深津県における穢多襲撃・殺害事件というのは、明治5年に、深津県内で起こった「新古平民騒動」(明山修著・「「新古平民騒動」の研究」)のことです。北条県における穢多襲撃・殺害事件というのは、明治6年に、北条県内で起こった「明治6年美作一揆」(好並隆司著「明治6年美作一揆とその影響」)のことです。

なぜ、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」という部落史上の既成概念を使用しないのかといいますと、それらの名称は、部落史上の定説ではなく、その事件の呼称としていろいろな呼び方が存在するからです。筆者は、手元にある資料の中から、とりあえず、深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件を表す言葉として、暫定的に、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」という言葉を採用しているに過ぎません。

せっかく集めた、この2つの「解放令反対一揆」に関する資料を、筆者は、はねあり被害で失ってしまったのです。

明山修著・「「新古平民騒動」の研究」は、3回に渡って、『ひょうご部落解放』に掲載された論文ですが、「上」・「下」は、はねありに食べられてしまいました。幸い、「中」だけが、他の記事「特集・部落の歴史を掘り起こそう」という論文が必要になって、別な場所に保存していましたので、難を免れました。

そのみかん箱の中には、部落解放同盟・池田支部の書記をされていた方から譲り受けた資料も含まれていましたが、ほとんどはねありによってゴミと化してしまいました。残ったのは、みなみあめん坊著『月夜のムラで星を見た 解放同盟末端書記長の生活ノート』(情報センター)のみです。

筆者の書斎は、わずか一坪ですが、台風のとき、その上の屋根瓦畳み2枚分が飛んで、ひどい雨漏りみみまわれました。そのとき、パソコン2台を護るのが精一杯で(1台は破損)、書斎にあった、部落史関係資料が相当数みずびたしになって失ってしまいました。その中には、兵庫県の被差別部落に関する資料もかなり含まれていたのですが・・・。

災害で失われた資料は、もともと、筆者と縁がなかった資料・・・、とあきらめているのですが、明山修著・「「新古平民騒動」の研究(上)」と明山修著・「「新古平民騒動」の研究(下)」は、なにとなくこころ残りがします。

1カ月間、『部落学序説』の既存の文書の「章・節・項」を明確にする作業と、それぞれの文書の筆者の地の文と、史料や論文の引用個所を文字色で区別する作業をしていましたので、『部落学序説』の本文の執筆は中断したままになっていました。

『部落学序説』の本文の執筆を再開しやすいテーマが、北条県・深津県における穢多襲撃・殺害事件だったので、その前で中断して、上記の編集・校正作業に入ったのです。

なぜなら、深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」は、学者・研究者・教育者による諸説が入り乱れていて、いまだに定説が確立していないからです。「渋染一揆」同様、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」も、史料や論文を見直すことで、『部落学序説』の研究方法を適用することで、従来の諸説を整理・批判することで、新しい解釈を提示することができる可能性が大であるからです。

筆者は、岡山県倉敷市児島琴浦町生まれです。大阪市内の中学校に勤めていた1年をのぞけば、29歳まで岡山で生活していました。琴浦町から児島市、倉敷市へと合併が繰り返され、倉敷市出身ということになりました。しかし、筆者の父は香川県、母は徳島県、「讃岐おとこに阿波おんな」の言葉の通りんの組み合わせですが、要するに、岡山県は、筆者にとっては、父母の寄留の地です。岡山県の地元の人からみると、「余所者」でしょうか・・・。

そのためか、筆者は、岡山県の被差別部落については、ほとんど知りません。

角岡伸彦著『はじめての部落問題』(文春新書)の中で、「自分の生まれたと部落であることを知ったのは、小学3年生の時だった。わが部落の子供だけが学校の体育館に集められ、教師から説明があった。・・・」と記していますが、そういうことは、全国的に行われていたのでしょうか。

筆者が小学生のときも、校内放送があって、「部落出身の生徒は、○○教室に集まりなさい。その他の生徒ははやく下校しなさい。」というアナウンスが流されていた記憶があります。なぜ、覚えているのかといいますと、それまで一緒に下校していたクラスメートの○○君と一緒に下校することがなくなったからです。筆者は、校門の近くで、○○君が出てくるのを待っていましたが、彼はとうとうでてきませんでした。もしかして、一足先に帰ったのかもとあとを追いかけましたが、その姿を見つけることはできませんでした。次の日、○○君は、筆者にこのようにいいました。「もう、君と一緒に帰ることができない・・・」といって去っていきました。

あるとき、新聞に彼の写真と記事が掲載されていました。解放奨学金で大学進学をして、将来を見つめて歩いている姿がそこにありました(筆者は単なる貧乏人であるが故に解放奨学金とは無縁。もし関係があったら間違いなく解放奨学金を受けて大学に進学していたでしょう・・・)。

筆者が知っている被差別部落は、旧児島市内のいくつかの被差別部落だけです。

岡山県の被差別部落について調べはじめたのは、山口で棲息するようになった以降のことです。山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話が歴史的に真実であることを確認しようとして、徳山市立図書館の郷土史料室に通うようになった以降のことです。多くのひとから、「長州藩の例外事項・・・」と一蹴される中にあって、調査範囲を、周防国・長門国を越えて毛利8ケ国に調査範囲を増やしたときです。

当然、岡山県の被差別部落も視野に入ってきました。

北条県・深津県における穢多襲撃・殺害事件は、日本の歴史学の差別思想である賎民史観によって、かなり、歪曲されて解釈され、歴史の真実からほど遠いところへ追いやられていると感じるようになりました。「渋染一揆」については、すでに言及してきましたが、「新古平民騒動」・「明治6年美作一揆」も、「渋染一揆」同様、筆者の頭の中でずっとあたためてきた主題です。

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