2021/10/03

部落史研究者のみた「解放令反対一揆」

部落史研究者のみた「解放令反対一揆」


『部落学序説』の筆者である私は、一般的にいわれる「解放令反対一揆」は、「旧百姓」の「非常民」化政策に対する「新政府反対一揆」として認識してきました。

明治新政府は、近世幕藩体制下の施策を限りなく悪しき圧政として描き、近代中央集権国家のそれを、人民をその圧政から解放する「解放者」として描いてきました。明治新政府だけでなく、当時の士族を中心とする知識階級は、近世を民衆にとって「夜」と位置づけ、近世のあとに続く近代を「朝」と位置づけてきたのです。そして、「夜」と「朝」の間の時代を「夜明け前」と解釈してきました。

明治新政府は、民衆が、「夜」から「朝」へ、「闇」から「光」へ、「古き時代」から「新しき時代」」へ・・・、それ以外の方法で歴史を解釈することを禁じました。そして、それに違背する民衆の側の動きをことごとく弾圧・排除してきました。

明治新政府は、「今ノ一揆ハ昔日ノ一揆ニ非シテ所謂流賊ナリ」と解釈しました。まるで、「新政府反対一揆」を疫病が伝染するかのごとくに忌み嫌ったのです。明治新政府は疫病を根絶するために、民衆に対して容赦のない糾弾・弾圧を繰り返したのです。

明治4年の太政官布告第488号と第489号を、近世の「被差別民」(穢多・非人等)を、「賎民」の桎梏から解放し「平民同様」の取扱いをする恩恵を与えられた・・・、と解釈する歴史家は、この明治新政府の方針を忠実に追従しているといえます。その傾向は、戦後にいたるも部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者の間で継承されて今日に至っているのです。

戦前の歴史学者として、『国史上の社会問題』の著者・三浦周行をとりあげてみましょう。

その解説を書いた朝尾直弘氏は、三浦の研究によって、「民衆の歴史解明への幕が開かれ」たといいます。それまでの、「政治的に縦断」する歴史研究から、「社会的に横断」する歴史研究の移行、「社会史と看做す」ことができる研究段階に入ったといいます。そして、三浦の『国史上の社会問題』を「日本社会史として構成された最初の書物」であると評価します。

その『国史上の社会問題』で、一般的に「解放令反対一揆」がどのように認識されているか確認してみましょう。

【社会上の大改革】

「明治の維新は政治上の改革であったと同時に、また社会上の改革であった。明治の初めに徴兵令が発布されて全国皆兵の制度が布かれたが、明治3年には平民にも名字を許され、4年には穢多・非人の称を廃して平民の籍に編入することとなった。何んたる大改革であったであろう。明治4年には穢多の称の廃止に不平を抱いて起った播州の百姓一揆があり、同じく6年から7年にかけては徴兵令の血税なる文字の誤解から惹起された讃岐および東北地方の一揆が起こった。これらはいずれも今日から見れば滑稽に聞こえるけれども、当時の民衆としては無理もない事であって・・・以上を以て国史の各時代にわたったおもなる社会問題を説き終わった」。

『国史上の社会問題』の著者・三浦周行は、大正9年(1920)の時代から、「解放令反対一揆」の時代を振り返って考察するとき、「これらはいずれも今日から見れば滑稽に聞こえるけれども・・・」と評します。筆者には、「滑稽」という評価は、日本の社会史の祖としては、ふさわしからぬ言葉であると思われます。「滑稽」という言葉で聴衆の耳目を集めるのは、三浦が置かれていた当時の時代状況からやむを得ぬ表現であったのかも知れません。

しかし、「社会問題」についての論考にいて、「解放令反対一揆」で筆をおろす三浦は、歴史学者の良心をその行間に託しているように思われます。

(「解放令反対一揆」の本質を理解しょうと思えば)「いたずらに事情を異にした西洋の直訳や純理に走るよりも、これらの歴史的事実を顧慮し、参酌して、機宜に適する処置を取った方が、その実効を挙ぐる上に一層望ましいことであろうと思われる。」

しかし、戦後の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者には、三浦が示すような含みはみられません。戦後の学者・研究者・教育者は、何の迷いもなく、日本の歴史学が時をかけて培養してきた差別思想である「賎民史観」に乗っかって、「解放令反対一揆」を、明治天皇の「聖旨」や明治新政府の政治理念を理解できない「愚民」の所業とみなします。

戦後のふたりの歴史学者を比較検証してみましょう。

『部落の歴史と解放理論』(1869年)の著者・井上清と、『いま、部落史がおもしろい』(1996)の著者・渡辺俊雄のふたりです。

井上清は、近世の「被差別部落民」と近代の「被差別部落民」の間に歴史的・時間的「連続」を認識しますが、渡辺俊雄は両者の間に「連続」を認めず「不連続」を認識します。

井上は、「解放令反対一揆」について、「もし本当に農民が解放され部落民が解放され、土地が農民に与えられ、天皇制国家自身がではなくて民主国家がつくられたら、けっしてこんなことはおこりえなかったであろう。えたを差別する、それは自分自身が差別されていることの悲劇でもあった。」といいます。

井上によると、明治天皇や明治新政府の語る言葉と違って、「解放令反対一揆」の当事者である「農民」と「部落民」は、ともに、明治天皇や明治新政府によって、差別され抑圧された存在として認識されているということです。井上は、明治新政府は、「農民を本当に理解しなかったので、差別が残された」といいます。井上は、「解放令反対一揆」は、「人民が長い間の差別政策にどんなに深刻にわざわいされていたかを物語る。」といいます。

井上清が「未解放部落」という言葉を使用するときは、「旧穢多」の在所だけでなく、「旧百姓」の在所をも含んでいたのです。井上にとって、「未解放部落」という概念は、決して、「旧穢多」の在所だけではなく、一般の農民の在所をも含んでいたのです。

井上清の《「未解放」部落と「被差別」部落》という「随筆」によると、井上清は、戦後まもない1949年にこの「未解放部落」という表現を作り出したそうですが、1年後には、この「未解放部落」という言葉は「適当ではないと思うようになった」といいます。井上は、「日本のすべての労働者・農民も未解放である。それだのに、「未解放部落」の解放運動といえば、封建制からの解放運動になってしまう。これはいけないではないか・・・ 」と考えるようになったといいます。そして、「未解放部落」という表現を追いかけるように表出されていった概念が「被差別部落」であるというのです。井上清の否定にもかかわらず、「未解放」・「未解放部落」という言葉は、井上清の手をはなれて一人歩きしてしまいます。

筆者のところにときどき尋ねてこられる某新聞記者は、最初から最後まで、この「未解放」・「未解放部落」という言葉を連発します。「未解放」という言葉には、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」的ニュアンスが色濃く残っています。

現在においても、ある運動団体・研究機関においては、この「未解放」・「未解放部落」という概念が使用されていますが、その概念には、「旧穢多」の末裔だけでなく、「旧百姓」の末裔も含まれているのでしょうか・・・。もしそうだとしたら、その運動団体・研究機関において、「同和対策事業」は、「旧穢多」の末裔だけでなく、「旧百姓」の末裔をも包含せざるを得なくなるでしょう。もしかしたら、「同和対策事業」の「一般事業」化の流れは、このあたりに端を発しているのでしょうか・・・。

一方、『いま、部落史がおもしろい』の著者・渡辺俊雄は、井上が主張するような近世と近代の「連続性」を真っ向から否定します。

渡辺は、明治4年の「解放令」は、「明らかに歴史の前進」であると高く評価します。そして、「同じ差別であっても、同じ物差しでは測れない」といいます。

渡辺は、近世は「封建的な身分差別」の社会、「解放令」以降の近代は、「差別はない社会」であるといいます。「「臣民」として差別なく生きていく可能性が生まれたことは、大きな前進」であったと評価します。渡辺は、「にもかかわらず、現実には社会的差別がある・・・今日、私たちが問題にしているのは、そうした部落差別であり、部落問題なのです。そうしたあり方は近世からではなく、近代から、「解放令」をきっかけに始まった新しい差別」であるというのです。

まるで、「解放令」は、明治天皇の「聖断」であって、そのこと自体は歴史の前進として評価しなければならない、今日まで存在している部落差別は、その問題から切り離して考えなければならない・・・とでもいいたそうです。

『いま、部落史がおもしろい』の著者・渡辺俊雄にとっては、『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清と違って、近世の「部落差別」と近代の「部落差別」は、「連続」ではなく「不連続」であるというのです。そして、近代の「被差別部落」が経済的に低位におかれるようになったのは、「解放令」ではなく、「1880年代の松方デフレによってそれまでの伝統的な産業が崩壊」に起因するというのです。

渡辺の理論は、国家権力や天皇制の問題に距離を置きはじめた部落解放運動、部落史研究の時代的な思潮を反映しているのかもしれません。

「たいへんお世話になった」と、渡辺俊雄に謝辞を贈る『地域史のなかの部落 近代三重の場合』の著者・黒川みどりが、近代部落史を、近世幕藩体制下の諸問題を切り捨てて、明治4年の太政官布告第488号、通称「解放令」からはじめるのも、渡辺俊雄等の強い影響があるのかもしれません。

しかし、『部落の歴史と解放理論』・『いま、部落史がおもしろい』の両書において取り上げられていないテーマがあります。それが、近世から近代へ、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として時代の激流を生き抜いていった「旧穢多」の姿です。「夜」から「朝」にむけての「夜明け前」の時代、明治政府の外交問題を絡めた「行政改革」で、「官」から「民」へ、「非常民」から「常民」へと、リストラされ、旧体制を象徴するスケープゴートとして在野に追いやられ、辛酸をなめさせられた、伝統的な日本社会の治安のため全国津々浦々に配置されていた「司法・警察」官の姿です。

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