2021/10/03

「新古平民騒動」の発端

「新古平民騒動」の発端


明治5年1月に発生した深津県における穢多襲撃・殺害事件・・・。

人見彰彦・大森久雄(『部落の歴史 西日本編』(部落問題研究所))によると、その事件で、「旧穢多」3人が殺害され、中田村の「旧穢多村」24軒が焼き討ちにあって焼失しました。人見・大森は、この事件を、「阿賀・上房郡騒動」と呼んでいます。この「騒動」に参加した「旧百姓」は約1000人に上ります。

人見・大森は、明治5年の深津県における穢多襲撃・殺害事件を「阿賀・上房郡騒動」と呼びますが、明治6年の深津県における穢多襲撃・殺害事件については、「血税一揆」と呼びます。人見・大森によると、この事件によって、「旧穢多」18名が殺害され、11名が負傷させられました。51軒を破壊、263軒を放火焼失させました。

人見・大森は、なぜ、明治5年の深津県における穢多襲撃・殺害事件を「騒動」と呼び、北条県における穢多襲撃・殺害事件を「一揆」と呼ぶのでしょうか。

「騒動」と「一揆」の言葉の違いを、『広辞苑』で確認してみましょう。

【騒動】①多人数が乱れさわぐこと。②非常の事態。事変。③もめごと。あらそい。
【一揆】①道・方法を同じくすること。②心を同じくしてまとまること。一致団結。③中世、血縁または地縁の武士が団結して行動すること。④支配者への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起。中世の土一揆、近世の百姓一揆の類。

明治5年1月に発生した深津県における穢多襲撃・殺害事件が、「騒動」なのか、「一揆」なのか、関連史料を詳細に分析して、その問いに一定の結論に達した人に、《「新古平民騒動」の研究》の著者・明山修がいます。

明山は、『部落「解放令」の研究』の著者・小林茂の説を批判してこのように記しています。

「この「騒動」について小林茂氏は、「騒動」に参加した一般農民は村の「豪富農層」に主導されて「新政府の近代化政策に不安をもち、現実の窮乏生活を訴える一つの途して(一揆)に加わった」と論じている。果たして小林氏が言うように津高郡「騒動」は「豪富農層」に主導された対新政闘争型の「『解放令』反対騒擾」であったと言えるであろうか。・・・疑問を解明するため」、伝承と史料を「検討」するというのです。

途中の論証を省略して、明山の結論を紹介しますと、次のようになります。

「建部郷村々「騒動」は地域社会における新古平民間の身分対立であり、多分に古平民の新平民(あるいは彼らの行為)に対する不安からくる衝撃的・付和雷同的先制攻撃(襲撃)といえるものであった。村の「豪富農層」に主導された対新政闘争型の「『解放令』反対騒擾」ではない」。

明山は、明治5年の深津県における穢多襲撃・殺害事件を「一揆」ではなく「騒動」であると断定するのです。明山は、明治5年の深津県における穢多襲撃・殺害事件、「新古平民騒動」は、「平民」と「権力」(明治新政府)に対する政治闘争ではなく、「平民」間同士の、「古平民」と「新平民」の間でおきた非政治的闘争であるというのです。

そのような、明山の結論に対して、『部落学序説』の筆者は、「部落学」の立場から、当然、批判検証を加えることになります。

明山が導入している概念、「古平民」と「新平民」の両概念は、明治5年の深津県における穢多襲撃・殺害事件の史的解明のための適切な概念であるのかどうかといいますと、筆者は、「適切である」といいきれないほどに疑問を感じてしまいます。

既に、論述したように、「平民」概念は、明治新政府による、近代中央集権国家の身分制度確立の動きの中で浮上してきた言葉です。明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告によって、「旧穢多」は「平民」同様の扱いが宣言されますが、「平民」となった「旧穢多」に対して「新平民」という概念が用いられます。「新平民」という概念の登場によって、それまでの「平民」は「古平民」と呼ばれるのですが、「古平民」と「新平民」との時間的な差は数年でしかない、両者をそれぞれの概念で仕切るにはそれ相応の時間が経過していない・・・、というのが、『部落学序説』の主張でした。

近世幕藩体制下の「百姓」対「穢多」の図式は、明治に入ると、「旧百姓」対「旧穢多」の図示に変更されます。その場合、次の等式が成立します。

「百姓」=「旧百姓」(常・民)
「穢多」=「旧穢多」(非常・民)

しかし、明治に入ると、維新政府は、近世幕藩体制下の身分制度を廃止し、近代中央集権国家である天皇制国家の身分制度をあらたに構築していきます。そこで登場してくるのが、「平民」概念ですが、この「平民」概念は、「百姓」・「旧百姓」概念と等価ではありません。なぜなら、深津県における穢多襲撃・殺害事件、「美作血税一揆」にみられるように、「平民」概念には、「百姓」・「旧百姓」概念がもっていない内包として、「非常民化」という属性が含まれているからです。そこで次のような不等式が成立します。

「旧百姓」(常・民)≠「平民」(非常・民)

明治5年北条県における穢多襲撃・殺害事件を検証するときに抑えておかなければならないのは、「旧百姓」対「旧穢多」の図式と「古平民」対「新平民」の図式を明確に区別しなければならないということです。

そうしないと、「百姓」・「旧百姓」・「古平民」・「平民」という概念と、「穢多」・「旧穢多」・「新平民」・「平民」という概念を恣意的に使用する途を開き、両者の関係が史実から遠ざかってしまう可能性があります。

『部落学序説』の筆者の目からみると、明山修の《「新古平民騒動」の研究》の論述は、近世幕藩体制下の身分概念と近代中央集権国家の身分概念を、学問的に区別することなく恣意的に使用していると指摘せざるを得ないのです。

しかし、明山修の論文、《「新古平民騒動」の研究》は、可能な限りの「伝聞」・「史料」を駆使して解明しているという点で、「部落学」にとって貴重な論文であるといえます。

明治5年深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件の「発端」について、明山の論文から抜粋してみましょう。

「元伊勢亀山県下中津井村の新平民は、村共同体に対して「かわた」役の拒否を宣言した。これに対して古平民は、「かわた」役の拒否により「眼前差支ニ相成」るとして「人気弥沸騰」し、「村掟」をつくり新平民に経済的制裁をもって「かわた」役の継続を強制した。・・・しかし、・・・下中津井村の新平民禎蔵ら2人が、中津井の酒屋室源に酒を買いに訪れたが、店の手代は「村方申談有之」として、酒売りを拒否したため、禎蔵らは店に居合わせた有漢中村の新平民とともに、手代に抗議し両者は口論となった。下中津井村の古平民は、新平民が村掟に公然と抵抗したことに「人気立」ち、竹槍・小銃を携え蜂起した。これが「騒動」の発端であった」。

明山の解釈の背景にある史料の検証はのちほど触れるとして、《「新古平民騒動」の研究》の評価に値する内容をいくつか紹介しましょう。

明山は、明治5年深津県における穢多襲撃・殺害事件の「発端」を明らかにするために、事件の「時間」的推移だけでなく、「空間」的要因を考察の対象にして、「「騒動」が発生した地域の地理的考察」を遂行します。「水系」・「交通路」・「日常生活圏」別に考察を展開します。

明山は、「騒動」が発生した3地域は、それぞれ異なる「水系」に属するといいます。それらの地域は、4ケ村、6ケ村、3ケ村からなり、「これらの地域は、それぞれ谷間に位置しており3地域相互の往来は高い峠を越さねばならない。」というのです。「交通路」(街道)・「日常生活圏」(町村別)においても、3地域はそれぞれ独立した状況に置かれていたといいます。

そこで、明山は、近世幕藩体制下の「百姓一揆」の一揆の特質、「一般的には一揆は川筋・街道筋をたどって拡大した」を想起しながら、明治5年深津県における穢多襲撃・殺害事件の「騒動」拡大は、一揆の常識を外れていると指摘するのです。明山は、明治5年深津県における穢多襲撃・殺害事件は、3地域の地理的隔絶を超えて、「旧藩領内だけに限り拡大している。」というのです。

明山の説は、「部落学」の立場からすると、眼を見開かせるに足る魅力に富んだ説です。

ただ残念なことに、明山は、「このことは「騒動」の閉鎖性を表している」と結ぶのです。『部落学序説』の筆者は、谷・川・山で隔絶された3地域への「騒動」の「開放的」な伝播を、「閉鎖性」という言葉で表現していいのかどうか疑問に思います。

筆者は、明治5年深津県における穢多襲撃・殺害事件の背景には、明山の指摘する「空間」的要因(旧亀山藩・元亀山県)がさらに深く影響していると思われるのです。 

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