2021/10/01

差別語「特殊部落」

差別語「特殊部落」

「全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ」。

水平社宣言は、上記の言葉ではじまっています。その文章の中で、「特殊部落」・「特殊部落民」という用語が使用されています。

これらの言葉は、部落問題・部落差別問題においては、「差別語」であると認識されて久しくなります。

戦前・戦後の部落解放運動において、「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉を使用した表現・表記・文書は、「差別表現」・「差別表記」・「差別文書」として厳しく「糾弾」されてきました。

その結果、差別者・被差別者を問わず、「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉を使用することを自制するようになりました。今日、自分の身をさらしながら、「差別語」としての「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉を使用する人はほとんど皆無であるといってもよいでしょう。

『部落学序説』の筆者としても、「差別語」としての「特殊部落」・「特殊部落民」を使用することはできる限り避けたいと思っています。

しかし、「部落史」・「部落解放史」の中に出てくる歴史用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉を使用しないで、「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉の持っている「差別性」を明らかにすることができるかどうか、考えますと、こころもとないものがあります。

20数年前、筆者が棲息している下松市の社会同和教育研修資料『みんなで解決するために』(下松市同和教育推進委員会・下松市教育委員会発行)というパンフレットを読んだことがあります。

その一節に、このような言葉が記されていました。「差別意識や偏見をとりのぞいていくためには・・・史実に基づいて、科学的な正しい理解と認識を深めることが必要です」。

その「科学的な正しい理解と認識」に基づいて、「被差別部落」の人々がどのように表現されているのかといいますと、古代から中世までは無表記、近世幕藩体制下の身分制の確立から明治4年の「解放令」までを「部落の人々」と表記、「解放令」から、そのパンフレットが執筆された現在までを「同和地区の人々」と表記するというのです。

そのパンフレットでは、「全国水平社の創立」について、このように記されています。「1922年(大正11)3月3日、京都市の岡崎公会堂に全国の同和地区の代表二千人が集まって、全国水平社の創立大会が開かれました。長い差別の歴史の中で苦しんできた同和地区の人々が、自らの力によって団結し、人間の権利と自由を奪い返すことを宣言した日です」。

そして、水平社宣言の一部がこのように紹介されているのです。

「全国に散在するわが部落民よ、団結せよ」。

下松市の社会同和教育研修資料『みんなで解決するために』というパンフレットは、「差別意識や偏見をとりのぞいていくために・・・史実に基づいて、科学的な正しい理解と認識を深める」ために執筆されたと宣言されていますが、筆者だけでなく、少しく、部落問題・部落差別問題について学んだことがある人なら、このパンフレットに記されていることは、「史実に基づいて」なされたものではなく、<史実を操作>してなされたものであり、「科学的な正しい理解と認識」からほど遠い、<非科学的な誤解と偏見>から執筆されているということにすぐお気づきになることでしょう。

なぜ、社会同和教育において、<史実を操作>・<非科学的な誤解と偏見>が行われているのかと考えますと、近世幕藩体制下の「穢多」・「非人」、明治初期の「旧穢多」・「新平民」、明治30年代後半以降の「特殊部落民」という歴史用語を「差別語」として忌避し、「差別語」を使用した・・・、ということで運動団体からの糾弾を避ける意図があったためでしょう。

下松市の過去の学校同和教育・社会同和教育は、<史実を操作>して、市民を、差別・被差別の立場を問わず、歴史の真実から遠ざけ、下松市の学者・研究者・教育者が定めた<非科学的な誤解と偏見>を市民に押しつけるものであったといえるでしょう。

そのパンフレットが内包しているさまざまな問題点は後日触れることにして、『部落学序説』の筆者が、その第5章・水平社宣言批判を展開していく上で直面することになるさまざまな問題についてあらかじめ言及しておきたいと思います。

それは、部落史の一般説・通説・俗説において、「差別語」として認識され、忌避されている「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉をどのように取り扱っていくか・・・、という問題です。

日本近代思想大系『差別の諸相』(岩波書店)の解説者・ひろたまさき氏は、その凡例において、このように記しています。

一、本書は、差別の歴史を批判的に究明することを目的とし、日本近代社会成立期における差別の諸相に関する史料を、七章にわけて編成し、章ごとに年代順に配列した。・・・

一、各史料においては差別的用語あるいは表現が頻出する。これらは、現代社会においてなお、偏見と差別を助長拡大するものであるから、当然に使用されるべきではない。しかし、本書は、差別をなくすための努力の一環として過去の差別の実態を明らかにしようとして編まれたものであり、したがって解説・注においても、当時の用語を限定しつつ使用した。本書の性格に鑑み、読者の理解を得たい。

ひろたまさき氏の見解では、近代部落差別の典型的な差別語である「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉は、「現代社会においてなお、偏見と差別を助長拡大するものであるから、当然に使用されるべきではない」ということになります。しかし、「差別をなくすための努力の一環として」遂行される学者・研究者・教育者の使用は容認されてしかるべきである・・・、という主張のように聞こえます。

そうすると、『部落学序説』の筆者のように、無学歴・無資格、しかも、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者ではない、一般の「ただのひと」による、「特殊部落」・「特殊部落民」という差別語の使用はどのように評価されることになるのでしょうか・・・。

部落解放運動史における過去の差別発言・差別表記・差別文書事件をひもといてみますと、「特殊部落」・「特殊部落民」という言葉を使用しただけで、運動団体から糾弾を受けた事例を少なからず確認することができます。

しかし、『部落学序説』第5章・水平社宣言批判の執筆を再開するにあたって、今後、「特殊部落」・「特殊部落民」という差別語を留保付きで(「」付きで)多用することになります。歴史学的研究だけでなく、歴史学・社会学・民俗学・法学・政治学・宗教学・人類学・比較文化学などの学際的研究としての「部落学」にとっても、歴史概念としての「穢多」・「非人」、「旧穢多」・「新平民」、「特殊部落民」・・・という概念の使用を避けて通ることはできません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を払拭するためにも、「特殊部落」・「特殊部落民」という差別語の生成過程とその言葉の果たした差別的機能を明らかにしなければなりません。最初から、表層的な、「特殊部落」・「特殊部落民」という差別語に対する忌避感情に押し切られて、「特殊部落」・「特殊部落民」の背後にある国家的・社会的差別構造を不問に付し避けて通るのでは、『部落学序説』も、既存の差別的な部落研究・部落問題研究・部落史研究と同類のものになってしまいます。

『部落学序説』の筆者の立場を明確にするためにも、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学的前提、前理解を批判・検証することを旨とする「序説」(プロレゴメナ)を徹底するためにも、「特殊部落」・「特殊部落民」・「差別」・「差別語」等の基本的な用語について、筆者の「前理解」を明らかにすることにしましょう。

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