2021/10/01

「特殊部落」・「差別」概念のあいまいさ

 「特殊部落」・「差別」概念のあいまいさ

日本基督教団の戦後の部落解放運動に対して指導的役割をしてきた東岡山治牧師の文章に、『部落解放とイエス』という論文があります。

この論文は、日本基督教団・農村伝道神学校の紀要『福音と社会』第17号に収録されたもので、筆者は、東岡山治牧師から直接その「抜刷」をいただきました。

この論文は、「農村伝道神学校の卒業生・・・を念頭において」執筆されたもので、農村伝道神学校の卒業後、地方の小さな教会に赴任していった牧師に、その任地で、部落差別問題に取り組んでほしい・・・、という彼の期待を込めて書かれたものかも知れません。

この論文の中に、2種類の人名リストが含まれています。ひとつは、差別性を指摘された人々のリスト。そのリストには、「賀川豊彦・賀川ハル・玉井義治・熊野義孝・隅谷三喜男・竹中正夫・岡田稔・飯坂良明・畑野忍・野本真也・海老沢有道・高橋三郎・赤岩栄・片小沢千代松・雨宮栄一・国安敬二・榊原泰夫・長島伊豆男・笹淵昭平・平出亨・宗藤尚三・伊藤平次・小杉尅次・高崎毅・泉田昭・川田殖・高田英治・高杉三四子・菊地吉弥・中川秀恭・東与三次・大津光男・衣川洋三・飯野保治・他」の名前があげられています。

もうひとつの人名リストは、「部落解放にかかわったキリスト者」の名簿です。そのリストには、ライト・本多庸一・金森通倫・山上卓樹・安枝武雄・海保熊次郎・フィンチ・森知桟・柳瀬頸介・留岡幸助・竹葉寅次郎・ミラー・ハッカビー夫妻・中尾一真・ジョーンズ・竹田兼男・西村関一・梶原伸之・泉十次・片岡慶侈彦・宗像基・松田慶一・工藤英一・岡林信康・和田献一・小笠原亮一・ルイス・今井数一・キリスト者部落対策協議会100余名・淡路教会・明石教会・西宮合同教会等が列挙されています。

東岡山治牧師が遂行しようとした、日本基督教団内部での部落解放運動の反対者と賛成者の人名リストであるといってもいいと思うのですが、東岡山治牧師は、なぜ、このような人名リストを公表することにしたのでしょうか・・・。

名も無き神学校の紀要とは言え、紀要としての性格上、この東岡山治牧師の論文は、誰の目にもとまる可能性があります。いわば、「公器」で、「差別者の名前を列挙」しているのですが、その意図は何だったのでしょう。

筆者のこの文章を読んでいる方々は、この二つの人名リストを見ても、ほとんどご存知ないのではないかと思われます。読者の方々だけでなく、日本基督教団の牧師をしている筆者にとっても、ほとんど面識のない人々ばかりです。最初の差別者リストに掲載されている名前の中で、筆者と少々かかわりがあるのは、農村伝道神学校・国安敬二校長、農村伝道神学校・笹淵昭平事務長、農村伝道神学校・雨宮栄一教授、阿佐ヶ谷東教会・高崎毅牧師、阿佐ヶ谷東教会・宗藤尚三牧師、そして、農村伝道神学校の尊敬すべき先輩・菊地礼子牧師のおとうさんの菊地吉弥牧師の6名のみです。

彼らがなぜ、東岡山治牧師によって、その差別性を指摘されたのか、筆者は、その詳細をほとんど知らないのですが、筆者は、東岡山治牧師によって、どちらの人名リストにその名前を付加されているのかと想像してみるのですが、想像は至って簡単です。国安敬二・笹淵昭平・雨宮栄一・高崎毅・宗藤尚三・菊地吉弥と同じく、差別者のリストに付け加えられていることでしょう。

なぜ、そう推測するのかといいますと、それは、戦後、日本基督教団の中で部落解放運動を指導してこられた東岡山治牧師が、基督者を、二つの人名リストにふるいわけるとき、どのような基準でもって分類したか・・・、ということによります。

東岡山治牧師が「差別者」として彼らを断定する基準は、みっつあります。

①差別用語の使用
②差別表現
③明らかな差別発言と差別文書

差別者のリストに実名をあげられた人々は、上記の①~③のいずれか、あるいはそのすべてに該当するような「発言」や「文章」を残したのでしょう。

特に、最初の「差別用語の使用」は多くの問題をはらんでいます。東岡山治牧師が、「差別用語」として指摘する言葉は、「特殊部落」という言葉です。

東岡山治牧師は、この「特殊部落」という言葉は、それが用いられた文脈では、「ある意味で差別事象ではないと弁解できる」としながらも、「この特殊という言葉を聞く部落の人には「死ね」とも響く言葉であるから、差別になる・・・」と指摘します。更に、その理由を強調します。「「特殊」という語を、差別される側のものが聞かされるのは、痛いから・・・」。

東岡山治牧師は、「特殊部落」という用語が使用される文脈がなんであれ、「特殊部落」という言葉自体が差別的な響きがあるので、被差別部落の人々に、心の痛みを与え、死ね・・・ともささやきかけてくる「特殊部落」という「差別用語」の使用は許すことはできない。「特殊部落」という言葉を使用すれば、即、被差別部落の人々に対する差別発言として糾弾する・・・、と宣言されているのです。

「特殊部落」という言葉は、「一般とは違う部落とされ、汚れた血の流れている人々、集団をなして孤立する群れのことを指して」いるといいます。(東岡山治牧師は、「汚れた血の流れている人々」に対して、コメントをつけないことで、差別観念をふりまいている・・・、筆者の批判)。

東岡山治牧師は、「被差別部落に生れた筆者は、この言葉を聞かされるたびに、身のちぢまる思いであったし、その場から身を隠したい「くちおしさ」を体験した・・・」といいます。そして、「今日でもなおこの差別語を平気で使う人が多い。」と怒りをあらわにします。

東岡山治牧師にとって、「特殊部落」だけでなく、「穢多・非人」、「新平民」も同等の意味合いをもっていますから、それらが使用されている文脈がどうであれ、「穢多・非人」・「新平民」・「特殊部落」という「差別用語」を単純に使用するだけでも「差別」になる・・・、と主張されているようです。

『部落学序説』の筆者が、日本基督教団の部落解放運動の指導者である東岡山治牧師によって、「差別者」の人名リストに、筆者の名前が付け加えられていると推測するのは、『部落学序説』において、筆者が、「穢多・非人」・「新平民」・「特殊部落」という言葉を直接的にとりあげ、批判・検証の対象にし、「部落学」的解明をこころみようとしているからです。文脈に関係なく、「穢多・非人」・「新平民」・「特殊部落」という「差別用語」を使用することをもって「差別」と断定する東岡山治牧師にとっては、筆者の『部落学序説』は「差別用語」の坩堝ということになります。

東岡山治牧師は、その論文の中で、「特殊部落」あるいは「差別」という概念について、定義をすることはありませんでした。「特殊部落」という言葉も、「差別」という言葉も、差別者・被差別者両方にとって、説明も定義も必要がないほで自明の概念である・・・、と確信しているようです。東岡山治牧師は、部落問題・部落差別問題の一般説・通説・俗説上の「差別用語」理解に立って、その論を展開しているのです。

東岡山治牧師にとって、「特殊部落」という概念も、「差別」という概念も、極めてあいまいなまま使用されているようです。

そのような、あいまいな概念を使用しての、キリスト者を、「差別者」と、そうでない、「部落解放運動にかかわった」人とに二分する、東岡山治牧師の判断は、ほんとうに的を射たものと言えるでしょうか・・・。

《現代部落差別の構造-差別意識を中心に》の著者・三橋修は、その友人のひとりが部落差別について糾弾を受けたとき、糾弾している側からこのように語りかけられたといいます。

「俺がここで糾弾している、その俺がここにいるということが部落差別の結果なのだ」。

三橋修氏は、「彼は何かの定義を与えるのでもなく、何かの尺度をもち出すこともなく、俺のいかりの中に部落差別をみよ、といったのだと思う。差別される者にとって、部落差別は確実に存在する。そしてその結果として自殺に追い込まれた者も後を断たない・・・」といいます。

何が差別であるのかないのか・・・。それを決めるのは、被差別者自身である・・・。

そんな主張が見え隠れします。

東岡山治牧師が、「特殊部落」あるいは「差別」という用語を定義することなく、部落問題・部落差別問題の一般説・通説・俗説に立って恣意的に使用し、キリスト者を、「差別者」と「解放運動にかかわった」人のリストに二分する、背景には、三橋修氏が紹介されている糾弾者と同じ状況と認識があるのかも知れません。

東岡山治牧師は、第三者に対して、『部落学序説』の筆者である私を、「このひとは悪いやっちゃ!」といって紹介されるのも、「穢多・非人」・「新平民」・「特殊部落」という「差別用語」の認識と取り扱い方において、東岡山治牧師と筆者との間に大きな認識上のずれがあるからに違いがありません。

この認識上の違い、両者の側から克服するにいたらず、被差別者の東岡山治牧師と、差別者の筆者との間の亀裂と溝は深くなる一方です。

『部落学序説』第5章・水平社宣言批判において、筆者は、東岡山治牧師が、「解放運動にかかわった」人として評価される「柳瀬頸介・留岡幸助・竹葉寅次郎」の中に、近代部落差別をつくる側に身を置き、被差別部落のひとびとを差別の絶望へと追いやったキリスト者の姿をとりあげることになるでしょう。東岡山治牧師が評価する「柳瀬頸介・留岡幸助・竹葉寅次郎」の中に、差別者の典型的な姿を認識する筆者は、ますます、東岡山治牧師の部落解放運動から遠ざかっていくことになりそうです。

街道が十字路で交差するように、あるとき双方から近寄り、そして一点で遭遇、そのあとは、再びそれぞれ別な方向へと離れて再び交差することがないように・・・。

学歴・資格をもっておられる被差別部落出身の東岡山治牧師と違って、無学歴・無資格の「ただのひと」でしかない筆者は、「無学歴・無資格」であるがゆえに、一般説・通説・俗説を批判・検証し、「特殊部落」概念、「差別」概念を定義し、「特殊部落」と「差別」の本質に迫っていきたいと思います。東岡山治牧師のように、被差別者としての「情念」で語ることのできない、単なる差別者でしかない筆者は、「情念」で語ることができない分、分析と総合によって、客観的・論理的に追究していくことになります。

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