2021/10/03

太政官布告の釈義 9:地租其外除蠲ノ仕来・・・

太政官布告の釈義 9:地租其外除蠲ノ仕来・・・


明治4年の太政官布告第489号にでてくる「除蠲」(じょけん)という言葉は、「のぞく」という意味です。「除」も「蠲」も、同じ意味の言葉です。近世幕藩体制下において、司法・警察である「非常民」としての「穢多非人」に対して与えられていた税法上の優遇制度を指していると思われます。

明治以降の日本の歴史学者が構築してきた『賎民史観』は、「愚民論」(旧武士階級からみて旧百姓(農・工・商)を見下す見方)に立って、近代身分制度の「最下層に位置づけられた元穢多」身分に対して、「みじめで、あわれで、気の毒な存在」というイメージで描き続けてきました。

「旧穢多」自身も、やがてその「賎民史観」を受け入れ、自らを、「みじめで、あわれで、気の毒な存在」として表現してきました。近代天皇制国家の下、明治天皇の「寵愛」を求めて、「天皇の聖旨」によって出された太政官布告にも関わらず、差別され疎外され続けている「みじめで、あわれで、気の毒な存在」として自己表出してきました。

その季節があまりにも長すぎたためでしょうか、「賤民史観」は、日本全国津々浦々のすべての人々に行き渡ってしまいました。

しかし、筆者は、日本の歴史学の主流になってしまった「賤民史観」の流れとは別に、もうひとつの流れが存在してきたと確信しています。その流れは、「賤民史観」を否定する「異端」として排除されてきたため、存在していないように見えますが、日本の歴史学の良心として、地下水脈として、今日まで枯渇することなく、流れ続けてきたのではないかと思います。筆者の『部落学序説』は、筆者の思いつきではなく、それらの流れの中に生きてきた、そしてたとえ制限された情況の中におかれたとしても、歴史の真実を追求し言葉にして残そうとした多くの人々の「思い」を収集・集積したものです。

「賤民史観」という主流に対して、傍流ともいえるその思潮は、今日の部落研究・部落問題研究・部落史研究において、「例外事項」として排除されている、無数の膨大な史料・伝承・・・の中に含まれているのです。

明治以降、近世の「穢多非人等」の身分は、「穢多村に何のよきものがあろうか」という近代の「士族」身分の偏見によって蔑視されてきましたが、その背後には、近代「士族」階級の屈折した思いがあります。

明治新政府は、近世幕藩体制下の「非常民」(軍事・警察)の解体に着手します。鎖国の方針を破棄し開国にいたらざるを得なかった大きな原因に、近世幕藩体制の「国力」の衰退があります。幕府が近代国家として通用する「国力」を持っていれば、明治維新は別な形で到来したことでありましょう。近世幕藩体制下の「国力」の低下が、幕末・明治の日本政府をして、様々な「国辱」と認識しつつ、諸外国から突きつけられる治外法権の容認等不平等条約を受け入れざるを得なかったのです。尊皇攘夷・尊皇倒幕の動きの中で、旧体制が自壊し新体制が創設されていったのです。

近世幕藩体制下の身分制度は、近代国家の身分制度に再編成され継承されていったとはいえ、旧藩士・旧士雇(中間・足軽等の準武士階級のこと)身分から、近代身分制度の中の「士族」身分への移行は、ほとんどの旧藩士・旧士雇にとって、このましくない情況に結果しました。

近代幕藩体制下の「士族」身分のほとんどは、近世幕藩体制下の身分的特権を喪失し、失意のうちに、「リストラ」に伴う零落と貧困に苛まれていったのです。

太政官官吏・木下真弘は、『維新旧幕比較論』の中で、このように報告しています。「廃藩の後は、一般に其録の幾分を削減せられ、又諸官に登用せらるるもの甚だ少し。故に、貧寠に迫ると無事を苦しむとの二つを免れず」。木下は、近代身分制度下の「士族」の惨状を、このように記録します。「士族窮迫、其婦女密かに淫を売る」。「士族窮迫、其女をして、芸娼妓たらしめんことを願出る」。「近年持兇器強盗頗る多し。大抵・・・士族窮士族なり」。当時の新聞記事からの情報収集ですが、木下は、士族の多くは、犯罪にはしることなく、「衣食の乏きを苦む」状況にあるというのです。

「上見て暮らすな、下見て暮らせ」というのは、当時の「士族」階級の自制の言葉でもあったのです。

山川菊栄著『武家の女性』によると、「旧藩時代は生活に苦しんだが、明治になって息をついた」という人の話が出てきます。山川は、「下級武士の大部分に共通の経験であった」といいます。この場合は「家来(中間・足軽等)」を抱えている「藩士」身分に該当する話で、明治になって旧身分制度が解体されたことで、旧藩時代に強制されていた「家来」の扶養義務が免除されたことによる、「リストラによる一時的好景気」の状態によって作り出されたものです。

「勝ち組」と「負け組」の二極分化が進む中、百姓一揆や不平武士の乱が多発していくのですが、明治政府は、百姓や不平武士の血を流すことで、反政府運動を鎮圧していきます。

太政官官吏・木下真弘は、近代警察を、「行政司法の中間に在て、民安を護し国乱を鎮するを警察の官とする」といいます。木下は、「奸兇の陰謀を探偵し、之を未然に鎮圧する如きは、世に功ある幾許なるを知らず。」といいます。木下は、地方の雛村にあっても、近代警察官は、「厳然たる一顕官の如く、人民之を視る旧時の監官獄吏に異ならず」といいます(新聞報道を参考資料としてとりあげて)。

明治の「士族」対「新平民」は、近世の「浪人」対「穢多非人」の図式で受け止められていた可能性があります。近世幕藩体制下の身分を持ち出して、それに依拠して、自分より低い身分の者を見下げて揶揄するというのは、「元百姓」(農・工・商)より、「元武士」身分の方に多かったのではないかと考えられます。

「旧士族」の末裔である、現代の知識階級(学者・研究者・教育者・政治家・運動家等)であればあるほど、近世・近代初頭の司法・警察であった「非常民」である「穢多非人」・「旧穢多」に対して、差別的な言辞と行動を繰り返す傾向があります。

論文《御仕置帳にみる足軽・中間・陪臣の実像》の著者・西島勘治によると、「長州藩における足軽以下の階級は、藩の職階制上からみれば、その末端に位置づけられており、藩の扶持に与っている最下級の役人であるから、当然藩士階級(武士階級の意)に属しているということができるであろう。」といいます。長州藩の「穢多非人」も藩の「役人」として給付(除蠲)を受けていますから、当然、「当然藩士階級(武士階級の意)」になります。徳山藩では、「非常民」として同じ役務についていたのですから・・・。 

西島は、しかし、中間・足軽以下は、「藩士の格を持っていない」(「穢多」についても同じ)ことを踏まえて、「果たして藩士あるいは武士の階層にあるかどうか、甚だ疑わしい・・・」といいます。中間・足軽は、近世幕藩体制下にあっては、「一般庶民なみ・・・むしろ庶民層にあると結論づけられる」といいます。

西島は、彼等は、「任務の遂行に当っては、「其の節を尽す」ことが厳しく求められ・・・「法度に違背するような行為」は一切しなかった」といいます。中間足軽等下級武士と、「穢多非人」の間の身分上の格差は、ほとんどありえなかったか、あったとしてもその差は考慮する必要のないものであったと思われます。

逆に、近世幕藩体制下においては、経済的には、「穢多非人」の方が、中間・足軽より生活水準が高い場合が見られます。「穢多非人」は、近世幕藩体制下にあっては、司法・警察である非常民の「役務」をになう見返りとして、広範な職業の自由を保証されていたからです。「村廻り穢多」はともかく、「郡廻り穢多」は、村境を超えて、家業で作った「商品」を販売することが許されていたようです。それは、竹細工・藁細工・革細工、薬や反物の商いまで及びました。

徳山藩の「穢多」は、幟を立てて、「穢多」仲間の慰安旅行として温泉巡りをしたり、旅芸人の催し物がるときは、上座に「穢多」の家族の席を用意させたり、飢饉で百姓が飢えているときに米を供出し、徳山藩から槍の携行を許可」されたり、皮革の運搬用の廻船を保有していたり・・・、中には、「屋敷」(門塀で取り囲まれている屋敷)という地目で1反5畝を所有している「穢多」・「善五郎」がいたりします(徳山藩野上村元和御打渡帳)。土地を所有している「穢多」は、少なくありません。山口県の部落史研究家の多くは、このような資料は「例外」として過小評価するか、今日の部落史研究の要請に反するとして否定する傾向があります。

近世幕藩体制下の司法・警察として、その職務がからんだ賄賂・収奪(その結果としての生活の華美・土地の収奪)は禁止されていましたが、島原のキリシタン弾圧前後から強化された近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」組織に属する人々は、最初から土地を所有していた人も多いのです。徳山藩の「穢多」は、明治維新前に、その身分を解放され、その財産を持って、転身を図ったものも多かったのではないかと思います。地元有力企業の社長の中にも、その末裔がいるようです。

明治以降、没落していく「旧武士階級」は、近代天皇制国家の下で、冷や飯を食わされていく悲哀を、「自分たちより最と低い身分のものがいる・・・」と、旧藩時代の身分制度の貴賤を取り出しては、自分に言い聞かせて、自分の身の上に降りかかった悲哀を慰め和らげていたのではないでしょうか。一般市民より、知識階級による部落差別がより深刻なのは、このような背景があるのではないかと想定されます。

「旧穢多」身分は、近世幕藩体制下の税制上の特権・「除蠲ノ仕来」を喪失していきますが、明治4年の太政官布告第489号がだされたあと、「旧穢多」がどのように生きていったのか、それぞれの地域の史料・伝承を再検証することで、より史実に近い解釈を獲得していく必要があります。

太政官布告第489号が「旧穢多」身分にもたらした「変化」は、いまだに十分に解明されているとは言えないのです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」というフィルター、色眼鏡を取り外して、白昼の下で史料・伝承を検証しないと、その「変化」を十分に認識することはできないのです。

日本の社会から部落差別がなくなるためには、「知識階級」の意識改革が必須です。「知識階級」が、「賤民史観」と「愚民論」を放棄しないかぎり、日本社会にあって、部落差別は永遠に拡大再生産されていくことになります。 

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