2021/10/03

殺生与奪の権

殺生与奪の権

明治政府が設置した「公議所」の書記・大岡玄蔵によって、「穢多頭から裁判権を奪うべきとする議案」(三一書房『近代部落史資料集成』)が提出されます。

大岡の置かれた立場から判断すると、この議案は、大岡個人によって提出されたものではなく、その背後には、明治政府の「決断」が横たわっているように思われます。

大岡は、「殺生ハ、国家ノ大権」であると主張します。大岡の主張は、近世幕藩体制下では見られなかった主張です。近世幕藩体制下においては、「殺生与奪の権」は、当時の国家「徳川幕府」占有の権利ではなく、徳川幕府が、諸藩に「治外法権」を容認するということで、諸藩に「殺生与奪の権」を認めていた権利です。

藩士・藩民に対する「殺生与奪の権」は、幕府の手にではなく、藩主の手にあったのです。藩主は、藩士・藩民に対して「殺生与奪の権」を持っていることは、諸外国の外交官にも知れ渡っていました。幕末期においては、徳川幕府は、諸藩の「殺生与奪の権」を管理に置くことはできませんでした。諸藩の置かれた、それぞれの状況の中で、時として、この「殺生与奪の権」は行使されたのです。

幕末期の徳山藩で生じた、徳山藩の7人の侍によって、藩の要職の暗殺未遂事件がありました。その裁判の過程は、『河田佳蔵獄中日記』・『浅見安之丞獄中日記』・『有志詰問録』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺取調調書』に詳細に記されています。幕府による長州征伐を前に、幕府に恭順の意を示す徳山藩の要職と、討幕を叫ぶ徳山藩の7人の武士との間に繰り広げられた事件とその裁判の過程の中で、徳山藩の家老以下藩士階級(両刀階級)と「検断・穢多頭・穢多」(一刀階級)が登場してきます。

そのとき、誰の手に「殺生与奪の権」があったのかといいますと、当然、家老以下藩士階級にありました。討幕を叫ぶ7人の武士に死刑を宣告し執行させたのは、徳山藩の要職たちでした。徳山藩の「検断・穢多頭・穢多」は、その命令に従っただけで、大岡玄蔵が議案として提出したような「検断・穢多頭・穢多」に「殺生与奪の権」があったわけではありません。

「検断・穢多頭・穢多」は、藩の要職から、獄中にいた藩士を処刑するよう命令(毒殺)を受けたとき、その命令(毒殺)は「法に抵触する」ので、その命令には服従できないと上申しているのです。筆者は、「藩士」(与力身分以上)は、その上司(権力)の命令に忠実に動くけれども、「士雇(さむらいやとい)」(同心以下)は、「権力」ではなく「法」に忠実に職務を遂行していたと考えています。徳山藩の「検断・穢多頭・穢多」は、「法」の番人なのです。徳山藩は「穢多」に対して、「万一異変の節は、きっと御用に相立ち候様心掛け肝要たるべく候」
という覚書を布達していますが、「盗賊・忍者」の召し捕りに際しても、「穢多」は「法」に忠実に職務を遂行することを求められていました。「穢多頭」に「殺生与奪の権」があったという大岡玄蔵の説は、歴史上の事実からはほど遠い言説です。

幕府に恭順を示す藩に対して、高杉晋作は、その当時の機甲化部隊を背景にクーデターを図ります。そのとき、藩の要職達は、高杉晋作以下を「国賊」呼ばわりし、周防・長門両国の「穢多」に対して、「国賊」追討命令を出しているのです。山口県光市の教育委員会関連の論文『茶筅に関する一考察』の中で、このような解釈がなされています。

「保守派では、高杉らの挙兵を国賊と呼び、藩内全般の被差別地区住民に対し、この国賊を討果たすように代官を通じて命じている。国賊とはいえ、高度に訓練され、しかも鉄砲や大砲を持つ重装備の奇兵隊に立ち向かうなど、どれほど危険なものであったか想像できよう。これは利用できるものは、何でも利用しようとする権力者の姿勢をみることができるのである」。

光市教育委員会の解釈は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が色濃く出ているのです。「穢多」に対して、なぜ、このような命令が出されたのか、その歴史的事実を追究するために一考だにしないのです。

徳山藩の上記の文章群には、その内容を示す記事があります。「代官」は、「穢多」に対して、「鉄砲や大砲を持つ重装備の奇兵隊」に対して、6尺某や十手を持って「立ち向かう」ことを要求しているのではないのです。奇兵隊「襲来之節ハ奇隊ヲ防クニ不及、入牢之者ヲ突殺セトノ由」であるといいます。「奇兵隊が、浅見安之丞をはじめとする同志を救出するために、徳山藩の浜崎牢屋を襲撃してくるかもしれない。そのときは、牢内の同志を殺害しその場を離れよ。奇兵隊に立ち向かう必要はない・・・。」と言っているのです。徳山藩の浜崎牢屋を警護していたのは「穢多」身分でした。徳山藩は、「被差別地区住民」を鉄砲や大砲の弾除けにしたのではなく、近世幕藩体制下の司法・警察としての職務の遂行を布達していただけなのです。「賤民史観」に立脚する歴史学者や教育者の手にかかると、すべての史料は、「穢多」身分の悲惨さを示す資料として曲解されてしまいます。

筆者は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、常時においても非常時においても、「法」を遵守して職務を執行する存在であったと思っています。

配下の「穢多」を、その御用のために、誰をどのように配置するかは、「穢多頭」の裁量でしたが、誰を処刑するかは、「穢多頭」の決めることができる類のものではありませんでした。「殺生与奪の権」は、本質的に、「検断・穢多頭・穢多」に与えられることはありませんでした。

明治維新に大きな影響を与えた「草莽」は、藩主に仕官していないとはいえ、「両刀階級」であったため、民衆に対して「殺生与奪の権」を持っていました。幕末期には、「草莽」は、それを根拠に、日本ないし諸外国の要人に対して暗殺・襲撃をしかけました。「同心・目明し・穢多・非人」と言われた人々は、「殺生与奪の権」をふりかざす「草莽」を取り締まる側に立っていたのです。このことは、幕末期のいろいろな史料の中に確認することができます。

それなのに、大岡玄蔵は、なぜ、「穢多」の手の中にある「殺生与奪の権」は国家の手に取り戻さなければならないと、現実からほど遠い議案を提出したのでしょうか・・・。

筆者は、その背後に、「草莽」と「同心・目明し・穢多・非人」のすり替えが行われたのではないかと思うのです。大久保利通は、明治2年、国内の政治状態が安定しないことから、「天下殺生与奪之権草莽ノ手ニ帰シ候様成行」に警戒の思いを持っています。近世から近代へ、幕府から明治新政府へ、その政治的な変革を引き起こす大きな力になった「草莽」に対する、ある種の恐れが明治新政府を支配していたように思われます。

「公議所」の議論の中で、「殺生与奪の権、政府に帰著するまでは兵隊を本国へ帰還することなりがたき」との主張が諸外国から出されているとの記述があります。「殺生与奪の権、政府に」あらしめんための方策が話し合われています。徳川幕府のとき、幕府にこの「殺生与奪の権」が留保されていなかったために、幕府が倒れ、明治新政府が樹立したことを考えると、明治新政府は、「今やその覆轍を踏むの憂を防御するの道」を議論せざるを得ないというのです。明治新政府がその政権を安定させるためには、「藩士」や「草莽」から「殺生与奪の権」を奪い国家に集中せざるを得ないというのです。

明治新政府の重鎮・大久保利通は、王政復古以後に顕著となる「古代王朝的因習」を「胸わるき」と表現します。藤田省三著『天皇制国家の支配原理』)。そして、「草莽といへども御登傭」の道を用意するのです。明治新政府は、「古代王朝的因習」に拘る「華族」より、「草莽」に大きな期待を寄せるのです。そして「草莽」に救済的措置をとります。つまり、近世幕藩体制下における「草莽」としての行動を不問に付す・・・というのです。「草莽」に対して免罪が謀られるのとは逆に、「穢多・非人」に対して、本来「草莽」が担うべき罪責が課せられるようになるのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、「殺生与奪の権」(民を生かしたり殺したりする権利)を持つことはありませんでした。大岡玄蔵の「穢多頭から裁判権を奪うべきとする議案」は、『部落学序説』の立場からみると、明治政府による「捏造」に過ぎないと断定せざるを得ません。

しかし、明治政府の策略は、 すでにほころび始めていました。キリシタン弾圧問題で、明治新政府は、「殺生与奪の権」を保有する中央集権国家として全責任を持って、諸外国に対峙しなければならなかったのです。藩士によるキリシタン殺害事件およびキリシタンの監禁中での獄死事件の全ての責任を、明治政府は諸外国から問われだしたのです。「殺生与奪の権」を明治新政府が保有することに期待していた諸外国は、「殺生与奪の権」が諸外国の意図しない使われ方、キリスト教の信者を、その信仰のゆえに迫害する弾圧政策に拡大解釈されてしまいます。イギリスをはじめとする諸外国は、キリシタンに対する明治新政府の「殺生与奪の権」の執行のゆえに、日本との間で交わされた治外法権の撤廃は時期早尚と判断されるのです。明治新政府は、「国辱」と考えられていた治外法権の撤廃より、キリシタン弾圧の道を選択して行きます。次回、明治新政府と諸外国との交渉(密約外交)の一端を検証します。

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