2021/10/03

明治新政府による穢多排除の背景

明治新政府による穢多排除の背景


『部落学序説』の後半・近世に入って以来、多くの言葉を費やしてきました。「明治4年太政官布告第61号」に直接言及すればよさそうでなものですが、「明治4年太政官布告第61号」の本質を把握するためには、この作業は避けて通ることができませんでした。

明治新政府によって出された「明治4年太政官布告第61号」は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に立脚した学者・教育者が説く「身分解放令」・「部落解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・・・等の名称が意味するところのものとは異なり、逆に、明治新政府による穢多排除の布告、しかも、「半解半縛」(筆者の造語)という中途半端な排除の布告であったということを証明するために、必要不可欠な検証の過程でした。

王政復古の名の下に、その存在を評価され、明治新政府の体制に組み込まれたと思ったのも束の間、明治新政府による、諸外国との「交際」上の懸案であり、明治新政府にとって「国辱」とみなされる不平等条約の早期改正に向けての動きの中で、近世幕藩体制下の司法・警察である「同心・目明し・穢多・非人・村役人・・・」の非常民制度は解体を余儀なくされるのです。

「明治4年太政官布告第61号」を含む、明治新政府による諸改革は、その主旨が明快なものばかりではありません。むしろ、国民の目から見れば、近世幕藩体制下の「百姓」の目から見れば、その内容の不明確・不透明に思われるものが少なくありません。まして、諸外国の外交官からみると、明治新政府の矢継ぎ早に出される諸改革は、理解しがたいものを相当数含んでいました。

『戊辰戦争から西南戦争へ』(中公新書)の著者・小島慶三は、「版籍奉還や廃藩治権は、西洋の学者に言わせると、明治の改革の中で一番理解しにくいという。なぜ権力者が自分の権力を放り出して、あるいは権力の基盤まで解体してしまったかということである。西洋の改革には、権力者が自分からそういうことをするということはなかった。」といいます。今もなお、「西洋人には明治維新の改革は理解しにくい」といいます。

西洋人だけではないでしょう。明治初期の史料を自分で紐解き、検証作業をするものは、誰でも同じ印象を持たざるを得ないでしょう。歴史は、「国家権力が定めた歴史だけが本当の歴史である」と、文部省や文科省の定めた指導要領に乗っかって、歴史研究や歴史教育に従事するなら別ですが・・・。明治新政府の諸政策は、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針で実施されているため、明治初期の国民は、半知半解のまま、国家の指導による教育内容をそのまま盲信してきたのです。

イギリスの外交官は、「外国公使団」として、明治新政府との間で、「毎日のように、そして毎週のように、我々はうんざりするほど議論を繰り返した」といいます。「万機公論に決すべし」との御誓文に従って、明治2年2月、旧藩から選出された公議人によって構成された「公議所」は、明治2年7月、成立後半年も立たないうちに、明治新政府の重鎮・大久保利通によって、「無用の論」と批判され、「廃止」されてしまいます。形式的には「集議院」として継承されますが、その権限は大幅に縮小されてしまいます。

しかし、筆者は、とりとめもない「無用な議論」に終始し、明治新政府にとって利益なしとして廃絶された「広議所」で交わされた議論の中に、近代の部落差別の謎を解明する大きな手がかりが存在しているように思われるのです。しかし、代々の歴史学者・歴史教育者、政治家や運動家によって、その謎が十分に解明されてきたとは思われないのです。むしろ、彼らは、それらの「無用な議論」を「無用な議論」として、過少評価してきたのではないかと思われます。

『部落学序説』において、繰り返しとりあげてきた主題に、近世幕藩体制下の「村のシステム」があります。この「村」と、明治新政府によって、近代中央集権国家の基本的共同体として位置づけられた「部落」との間には、そのシステムの性質において大きな違いがあります。

徳川幕府が採用した、近世幕藩体制下の「法システム」は、キリシタン弾圧に関する法令による処罰以外は、各藩に法的処罰の権限を認めていました。キリシタン禁制という「天下の大罪」については、幕府は、各藩に対して、直接指揮権を発動してその解決に対処していました。しかし、それ以外の犯罪、殺人・強盗・一揆等の違法行為については、幕府は、ほとんどの場合、各藩の処遇を問題にせず、各藩の意志にゆだねていました。つまり、近世幕藩体制下の「法システム」というのは、幕府によって、各藩に「治外法権」が容認された制度だったのです。

幕府は、開国に際して、諸外国と条約を締結する際、この「治外法権」という概念が持っている意味を「錯誤」していたと思われます。当時の国際外交上の常識として通用していた「治外法権」ではなく、幕府が、近世幕藩体制下で容認していた「治外法権」の意味で、この言葉を理解していた可能性があります。幕府は、諸外国の居留地に諸藩に付与したのと同じ「治外法権」を認めるのです。幕府は、諸外国に国際外交上の「治外法権」を容認することの重大性を認識していなかったと思われるのです。

昨今の日米軍事同盟化の動きを見ていると、現代の日本の政治家も、外国の軍隊の日本駐留を継続し、外国の軍隊の司令部と日本の軍隊(自衛隊)の司令部を密接に連関させる動きが、日本の将来に何をもたらすか、ほとんど何も考察していないのではないかと思わされますが、幕府は、諸外国が、幕府が使用する「治外法権」という法概念がどのように受け止めることになるのか、ほとんど考慮することなく、自分の理解の範囲内でその概念を使用したように思われます。

国際外交上「治外法権」容認が何を意味するか、その本質を知った「草莽」たちは、激しく幕府に抗議・批判していったのです。

近世幕藩体制下の「治外法権」について少しく検証してみましょう。幕末期において、「草莽」によって、外国人要人や兵士が襲撃され、惨殺される事件が置きます。それに対して、諸外国は、幕府に、犯人逮捕と処罰を要求します。そして、同種の事件を未然に防ぐ対策の実施を要求します。

しかし、問題解決に当たって、幕府が各藩に認めていた「治外法権」がその障碍になるのです。幕府が命令を出しても、各藩は、この幕府によって長年認められてきた「治外法権」を楯に、幕府の命に従わないで、幕府とは異なる施策・決断を実行するのです。近世幕藩体制下の日本は、幕府によって、「藩」という単位で「分断統治」されていました。各藩は、更に「村」という単位で「分断統治」を実施していました。「村のシステム」レベルで考察するとき、「村」という単位でなされる「分断統治」の末端の権力装置は、「穢多・村方役人」という制度でした。幕府は、日本全国の「村」に対してお触れを出すとき、幕府が認めた「治外法権」の担い手である諸藩を経由する以外に方法はありませんでした。つまり、幕末期の幕府の国家としての命令も、各藩と、その藩士・藩民に徹底されるという保証はどこにもなかったのです。

諸外国は、明治新政府に、近世幕藩体制下の「法システム」を改善して、中央集権国家の体裁に相応しい警察制度の実施を要求してきました。明治新政府によって、中央から発せられた命令が、日本全国津々浦々に行き届くような、日本全体に治安を徹底させる制度を・・・。しかし、諸外国が明治新政府に要求したのは、近世幕藩体制下の司法・警察制度のハード的な廃止・解体ではなく、その制度はそのままにして、「機能」のソフト的な改革を図ることで、警察機能の中央集権化を図ることでした。

諸外国にとっては、日本国内における統一した法の施行が実施されることで、外交上・貿易上の障碍が取り除かれ、明治新政府の中央集権によって治安が維持され安定した関係が構築されることが悲願だったのです。ある藩では、許可されても、ある藩では許可されない。ある藩では、犯罪とされてもある藩では犯罪とされない・・・。近世幕藩体制下の「法システム」になじまない諸外国の外交官は、明治新政府に、早急な、「法システム」の近代化、旧藩の枠組みに制限されない統一化と均一化を求めたのです。

諸外国は、明治新政府に対して、「法システム」の、近代中央集権国家に相応しい整備を求めたに過ぎないのですが、明治新政府は、近世幕藩体制下の旧「法システム」解体に向けて動きはじめます。その議論が、大久保利通の云う「無用な議論」の中で行われるのです。

『部落学序説』で既述してきたように、近世幕藩体制下の「治外法権」の末端の機関は、「穢多」と「村方役人」でした。彼らは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての権能を持っていました。彼らによって、それぞれの村は、管理され、治安維持が実施されていたのです。村の入口と出口には、番所が設置され、彼らは、それぞれの在所からその番所に勤務して、不信人物や犯罪者の検問に当たっていたのです。この番所は、「非常時」だけでなく「常時」においてもその機能を発揮していました。その村を通る旅人・通行人は、村に入る都度、穢多・村方役人等の番人による検問に直面しなければなりませんでした。

明治4年に日本を旅した外交官も、村に入るごとに「役人」の出迎えを受け、村去るごとに「役人」の見送りを繰り返し受けたといいます。明治4年にしてこのような状況でしたから、幕末期において、幕府によって許可された居留地を離れて日本を旅する外国人にとっては、この近世幕藩体制下の「治外法権」による、村単位の分断支配に基づく、近世幕藩体制下の司法・警察である「番人」(穢多・村方役人)の存在は、好ましいものとは思われなかったのでしょう。

諸外国の外交官は、「番人」によってしばしばその行く手を阻まれ、街道の通行を拒否されます。「番人」は、不親切で、外国人と見るなり夷狄扱いをして、冷遇します。「番人」による取締りは、村ごとに単独で行われるので、その旅は、目的地に着くまで、検問のため延々と無駄な時間を費やすことを余儀なくされます。諸外国は、明治新政府に対して、「近代中央集権国家」に相応しく、日本のすべての街道で、「番人」による検閲無くして、安全に旅をすることができるように、早急に対策をとることを要求してきたのです。

筆者は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人・村方役人」という「法システム」を解体しなくても、諸外国の外交官及び外国人に対して、明治新政府による「通行許可書」を配布し、それが有効になるように通達を徹底するだけでよかったのではないかと思うのです。

しかし、明治新政府は、近世幕藩体制下の司法・警察制度を運用でもって改定する、解釈でもって立法に変えるのではなく、近世幕藩体制下の司法・警察制度そのものをハード的に解体・破棄してしまうのです。小島慶三に「西洋人には明治維新の改革は理解しにくい」と云しめる明治新政府の施策がここにあります。

なぜ、明治新政府は、世界の歴史上前例のない、権力自ら、そのよって立つ権力の基盤、司法・警察制度を廃棄しようとするのか・・・。小島慶三はこのように、その理由を述べます。「条約改正の必要が急を要する問題であり、そのため欧米並の近代化が急がれたということがある。要するに、欧米なみにならなければ対等のつきあいにはならない。不平等条約も改正できないということで、とにかく先進国に指摘される以前に、旧弊をなおそうという」姿勢があった・・・といいます。この小島の言葉は明治4年以降の明治新政府の施策に対する言及ですが、明治新政府の当初からの一貫した姿勢であったと思われます。

国際外交上の日本の置かれた状況に対して正確な分析をなし得ず、日本の政治家・外交官固有の独善的・閉鎖的な見解の下に狂信的に実施される諸政策が、明治という新しい時代に暗い影を落とすことになっていったのではないかと思われます。

「公議所」の議論でとりあげられた「里数改正」問題も、村単位の「分断支配」と同じ文脈の中で見直す必要があります。

過去の部落研究・部落問題研究・部落史研究において、この「里数改正」問題は、十分な研究がなされてきたとは言えない状況にあります。

『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、この「里数改正」問題について次のように記述しています。「「里数改正」の意見が丹波福知山藩の中野斉から出された。江戸時代には、えた村は、道路の里数の中には計算しないので、10里といっても、その中にえた村が1里あれば実際は11里である、というありさまであったが、それは日本全国の統一的な交通路をととのえてゆくことと矛盾する。そこでえた村も里数に入れるべきである、との意見である。これがきっかけで、公議所で、えたの名そのものを廃止して平人なみにあつかえという議論がまきおこった」。井上清は、唯物史観の歴史学者であるにもかかわらず、明治初年代の「里数改正」問題について、それ以上の掘り下げはしないのです。「里数改正」問題の背後にある形而下的要因、経済的要因については、何ら言及しないのです。

近世幕藩体制下の支配の基礎単位は「村」です。街道に沿って存在する村々は、「助郷」という「重税」を課せられていました。筆者は、「助郷」についての史料をまだ収集していませんので、平凡社の『世界大百科事典』を引用します。「助郷」は、「江戸時代、宿駅の人馬の不足を補うために定められた村、またはその制度」をいいます。「公用旅行者の増加につれて、宿人馬の不足は恒常的となり、それを補う制度」として「助郷」が制定されたといいます。その「賦役」は苛酷なものがあったようで、「助郷村」の中には、「疲弊などの理由で休役を願いでる」ものも出てきます。その場合、その村の分まで他の「助郷村」が肩代わりしなければならなくなります。「余荷勤め」(よないつとめ)といって、例えば、公称1里で住むところが、実際は2里の賦課となる場合も少なくなかったのです。その「賦役」は、「加助郷」・「増助郷」・「当分助郷」と次第に、その「賦役」の範囲が拡大されていったのです。「特別の大通行」のときに「賦役」された「当分助郷」は、村高の10分の1に達する経済的損失につながることもまれでなかったというのです。その距離は宿と宿との間で、「十数里からそれ以上にも及んだ」といいます。「助郷村の負担ははなはだしく、疲弊のあまり休役や免除を願い出ることもあり、ときには一揆を起して反対することもあった」といいます。

百姓の「賦役」は、本来の「村」の入口から「村」の出口、「番所」から「番所」までの距離・「里数」そのままに、「余荷勤め」による距離・「里数」の実質的な延長が極普通に行われていたのです。

百姓に対する「賦役」は、それだけに留まりません。街道沿いには、一般の「村」だけでなく、「距離の算定に当たって、社寺の所有地、穢多地は、従来政府から諸役免除されていたので、算定に入っていなかった」(『英国外交官の見た明治維新』講談社学術文庫)のです。百姓にとって、街道に「社寺の所有地、穢多地」があるときは、「余荷勤め」の対象になります。公称された「距離」に、「社寺の所有地、穢多地」の「距離」が公称の「里数」に加算されずに追加されるのです。

これは、「公用」の場合に適用される「里数」で、「公用」でない「私用」の場合には、当然、適用されません。例えば、ある「村」に公称1里の「賦役」があった場合、その隣村が疲弊のためその「賦役」を果たすことができないことが認められた場合、その村が更に1里「余荷勤め」として「賦役」されます。そして、その村と隣村の間に、「社寺の所有地、穢多地」が含まれていたとしたら、それも「余荷勤め」の類として「賦役」されます。つまり、公称4キロが実質10キロあった・・・ということが存在するわけです。

ところが、同じ距離を「私用」で、「人夫」や「馬」を雇う場合は、公称4キロではなく、実質10キロでその労賃が算定されるのです。

つまり、「里数問題」というのは、街道を使った運送において、二重料金が設定されていたということです。「官」が使用する場合の料金と「民間」が使用する場合の料金に大幅な差があったということです。

徳川幕府の治世、日本が開国して以来、幕府は、諸外国の外交官をはじめとする要人に対して「官」待遇をしていました。彼らが旅をするときの宿場から宿場までの距離を「公称」の「里数」で算定していたのです。しかし、外国人による国内の旅が緩和されることによって、外国人が「官」待遇から離れて「民間」人として旅をする場合がでてきます。そのとき、彼らは、はじめて、「公称」の「里数」とは違う「里数」に接するのです。人夫や百姓にとっても、幕府や藩の「お上」に対しては「賦役」はやむを得ないとしても、縁もゆかりもない外国人に対して、「公称」の「里数」で奉仕する所以はつゆも存在しません。当然、「公称」の「里数」ではなく、実際の「里数」を算定基準にしてその賃金を要求します。日本人にとっては、当たり前の制度であったとしても、外国人にとっては非常に分かりやすい制度、しかも、「掠め取られた」というイメージを受けたのではないかと思います。諸外国は、日本との貿易が拡大し、経済交流が増加していく中、運送に関する距離・費用について、明治政府に統一化を要求するのです。

明治政府によって、明治元年、「諸道駅逓助役地の制を改む。宮堂上官人等駅逓人馬を私用するを禁ず。」という布告がされます。明治3年には、「駅逓を改正し、官吏用役の制を定め、華士族、私役は和雇せしむ。諸道駅夫、賃銭十二倍を増加す。」と布告されます。「和雇(あいたいやとい)」の法というのは、明治3年2月に出された太政官布告で、「向後私用旅行、定賃銭を以て人足遣の儀、都て廃止候事」という布告のことです。近世幕藩体制下の特権的身分を根拠に、低い「公用」料金での使用ができなくなります。ついで、同年11月の太政官布告で、「官」は、「公用」料金である「御定賃銭」を一挙に「12倍」に設定します。明治4年には、明治新政府によって「富国」政策の一貫として、明治4年7月27日に「陸運会社の開業を許す」という大蔵省布達が出されます(木下真弘著『維新旧幕比較論』岩波文庫)。

近世幕藩体制下の遺制である「助郷」制度が、明治新政府によって完全に廃止されるのは、明治5年1月に出された太政官布告によります。

つまり、「里数の算定」問題は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」とは、直接的にはほとんど何の関係もない問題です。百姓が「助郷」の「賦役」に従事しているとき、「穢多」は、街道の警備を担当していたのですから・・・。

民・百姓の「助郷」制度の仕組みを知らない、士族階級の「公議所」の会議で出てくる、大久保利通いうところの「無用の論」の中には、「穢多モ同シク人類ナリ」とか、「穢多ヲ平民ニ復シテ・・・」とか、「穢多ノ称ヲ廃シ、凡民ニ列スヘシ」という言葉が散乱します。しかし、それらの言葉の中に、明治新政府の「穢多」に対する差別政策を読み込むのは難があります。これらの議論を精読すれば分ります。

近世幕藩体制下の「村」は、徳川幕府の「分断政策」、藩で分断し、藩を更に郡や宰判で分断し、郡や宰判を更に村で分断する「分断政策」の落とし子です。徳川幕府は、街道を徹底的に管理することで、近世幕藩体制を維持しようとしました。そして、特に、日本の国家を亡ぼしかねないと禁教に走ったキリシタンの蔓延を防ぐ方策として、その経路になった街道を徹底的に管理下に置いたのです。幾重にも張りめぐらされた監視の網は、開国と共に、諸外国から改善を求められるようになったのです。諸外国は、明治新政府によって、治安(警察)と経済(運輸)が安定し、諸外国が日本と平和裡のうちに外交・貿易を推進できるように求めたのです。

明治政府は、近世幕藩体制下の行政の要である「村システム」に対して解体の道を選択していくのです。それは、近世幕藩体制下の「分断支配」の象徴である「村」と「村」の境、つまり、「村境」を取り除くことを決定するのです。それはとりもなおさず、「村境」を「村境」足らしめる「番所」を取り除くことでした。その結果、「番所」に勤めている「役人」である「穢多・非人」は、その職を失う可能性が出てきたのです。

「公議所」の「無用の論」の中にあって、明治政府の要職は、この「公議所」の議論の流れを、意図的にコントロールしていきます。そして、「公議所」書記・大岡玄蔵によって、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」制度の解体に向けた議案が提出されるのです。大岡は、このように提案します。「抑、殺生ハ、国家ノ大権ニテ、公卿諸侯ト雖モ、敢テ専ニスルヲ得サル者ハ、人命ノ尊キヲ以テナリ。然ルニ、謂ユル穢多団頭ハ、賤辱ノ身トシテ、却テ独リコノ大権ヲ握リ、団衆数千ノ人命、公裁ヲ経スシテ殺戮ヲ専ニスルヲ得タリ。是、朝廷自ラ大権ヲ軽視スルノミナラス、并テ人命ヲ軽視スルナリ、甚タ此理ナシ」。

筆者は、この「公議所」書記・大岡玄蔵の言葉は、近世幕藩体制化の藩士身分であった「草莽」を限りなく救済し、「草莽」が幕末期になした、諸外国あるいは国内の要人に対する、襲撃、暗殺・殺戮の罪を、「草莽」の所業とはまったく縁もゆかりもない、近世幕藩体制下の司法・警察に従事してきた「非常民」のひとつである「穢多」にその責任を転嫁する、明治新政府の政策の走りだったのではないかと思います。「草莽」の「国辱」につながる所業は、すべて「穢多」に転嫁されていきます。明治政府は、「穢多」制度の解体によって、「草莽」問題に決着を謀ろうとするのです。差し迫る条約改正を前に、命じ新政府は、信じられない早さで、強引に改革を断行していくのです。そして、日本の歴史上、前代未聞であった、「司法・警察」本体が明治新政府によって解体されていくのです。この『部落学序説』の視点からみると、明治4年の太政官布告は、「旧警察」のリストラ以外のなにものでもないのです。

明治4年の太政官布告を「身分解放令」・「穢多解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」と解釈するのは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のなせるわざです。明治の「旧穢多」は、リストラされた近世幕藩体制下の警察官のことです。リストラされた警察官がどのような運命をたどるのか・・・、日本の近代は、大きな実験をしたのです。同心・目明し・穢多・非人・・・、彼らは、江戸時代300年間その職務の象徴である十手をとりあげられて、身分を剥奪され、「平民」に数えられるようになったのです。「非常民」が「常民」になる、それは簡単なことではありませんでした。明治期の「元穢多」の生きざまの中に、その苦しみや痛みが刻印されていきます。

この『部落学序説』の読者の中に、先祖の歴史が「穢多」につながる人がおられるなら、その人は、もう一度自分の歴史、ルーツをたどってみるべきです。そこには、「みじめで、あわれで、気の毒な」差別された「賤民」としての姿はありません。そこにあるのは、近世幕藩体制下の司法・警察官として、その職務に自覚と責任を持って生き抜いた先祖の姿です。筆者のいうことがうそか本当か、一度試してみるべきです。筆者のいうことが「虚偽」であったとしたら、あなたは、自分の歴史を尋ねることで何も失うことはないでしょう。しかし、「真実」であったとしたら、あなたは、自分の歴史についてとても大切なことを見失ってしまうことになります。「穢多」につながる可能性がない場合もありますが、その場合は、あなたの先祖は、「穢多」ではなく、「武士」や「百姓」である可能性があります。その場合、あなたは、あなたの先祖の歴史を調べることで「旧穢多」ではないということを証明し、「部落民」ではないことを確認することができるでしょう。歴史の真実は、時として残酷な事実を伝えますが、歴史の真実は、それ以上に、人間としての真実を取り戻させてくれます。

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