2021/10/03

明治初期の司法制度とキリシタン弾圧

明治初期の司法制度とキリシタン弾圧

明治新政府が悲願としていた、日本の国辱としての「治外法権」の早期撤廃の足枷になった要因に、①拷問制度、②キリシタン弾圧があります。

そのことは、『部落学序説』の既述において、繰り返し言及してきたところですが、明治新政府は、日本の諸制度の欧米化を指向します。しかし、「欧米化」することに躊躇いを持った分野も少なくありません。そのひとつに、明治政府の司法・警察制度の典拠となる「刑法」については、執拗に、欧米ではなく、アジア(特に中国の法典と法制度)の「刑法」を踏襲しようとします。

明治新政府によって、明治元年2月には、「仮刑律」が制定されます。しかし、この「仮刑律」は、「国民一般に公布された法典ではない」といいます(岩波近代思想大系『法と秩序』、以下『法と秩序』と略称)。近世幕藩体制下の「刑法」に関する体質を継承し、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針で編纂されたもので、「官吏が罪人を処断する際の執務準則であり、いうなれば、刑事担当の役人の手引きに過ぎない」といいます。

「仮刑律」は、「地方の掲示裁判の共通準則として、府藩県の役人に頒布されるとともに、地方から中央への刑法館に擬律などに関して伺いでられた時に、刑法官が指令を行うための手引書として機能した。」といいます。

明治新政府は、明治3年「新律綱領」を「内外有司」に頒布します。「新律綱領」は、他の諸制度と共に、欧米化が図られたのではなく、逆に、中国「清律の影響を受けたもの」であるといいます。また、明治6年には、「新律綱領」の補充・修正として「改定律例」が出されます。

明治新政府が出した「仮刑律」・「新律綱領」・「改定律例」は、近代国家の「刑法」ではなく、極めて封建的な「刑法」であったと言われます。その理由は、①近代天皇制国家の身分制度を前提にしていて刑罰に身分上の違いがある、②拷問をはじめとする前近代的な刑罰を認めている・・・等の点があげられます。明治新政府の採択した「刑法」は、極めて前近代的な要素、アジア法的要素を持っていたということです。治外法権撤廃の要件として「拷問」の排除を主張する欧米諸国と、「拷問」制度を残したまま治外法権撤廃を達成しようとする明治政府との間に長期間に渡る葛藤状態は、明治新政府の悲願であった「国辱」を払拭する大きな障碍になっていくのです。

明治新政府が「拷問」を破棄しなかったのは、「拷問」を破棄することで、国民の犯罪に対する抑止効果が失われ、司法政策上混乱が生ずると予想されたからです。古代・中世・近世の長きに渡って、「拷問」を容認してきた国民性を考えるとき、明治新政府は、「拷問」制度の破棄は、国政上悪しき選択でしかないと判断したのです。

明治政府は、「旧刑法」(明治13年)、「現行刑法」(明治40)へと改訂していきますが、「新律綱領」・「改定刑律」という「法典は、死せる過去ではなく、現在を生きている過去」(水林彪<新律綱領・改定律例の世界>『法と秩序』)であるといいます。日本の刑法の中には、日本古来の「刑罰体系」が不可分に組み込まれているのでしょう。

水林は、明治初期の司法制度は、「語の今日的意味での裁判官と警察官・検察官との分離が存在しなかった」といいます。「警察官」による被疑者の拷問だけでなく、「裁判官」による審問に際しても拷問が採用されたといいます。明治初期の司法制度に見られる「糾問主義は、拷問と結びついていた」といいます。「罪責追究者は、その職務に真摯たろうとすればするほど、職務に誤りなきように、事件の真相を知ろうとするわけであるが、真理を一番よく知っているのは、罪人と目されるその人であるから、罪責追究者の真摯さは、そのまま被罪責追究者から自白を得るための努力に転嫁する。しかし、罪人は、容易に罪を自認するとは思われない。容易に罪を認める人は、そもそも罪などは犯さぬ可能性が強い。こうして、自白を獲得しようとする努力は、罪人に暴力を行使してまで真実を語らせようとすることに結果するのである。」といいます。水林は、「暴力によって強制された言説に容易に信をおきがたいことは誰でも感ずるところであるが、糾問主義は、それにもかかわらず、ぜがひでも真理は知られねばならぬというシステムの要請から、自白獲得のため拷問をどうしても許容してしまう傾向に陥る・・・」といいます。

明治政府下で成立した刑法典と法制度は、この「糾問主義」に彩られているのでしょうか。

明治近代国家の司法・警察制度の下で、この「糾問主義」に根ざす「拷問」に曝された人々に、長崎・浦上のキリシタンがいます。いわゆる、「浦上四番崩れ」と言われた、キリスト教徒のことです。幕末期、カトリック教会が長崎・大浦に天主堂を建築したのを見て、浦上の潜伏キリシタンが教会を訪れ、その信仰を告白することで、日本と諸外国の間にキリシタン弾圧問題が発生します。

明治新政府は、「1868年(明治元)7月、参議木戸孝允が下向、主要信徒114名を3藩に流罪申し渡し、ついで大村の復活キリシタン迫害を行ない、1870年には浦上村の全員三千数百名を西日本21藩に流罪預けとした。」(海老沢有道・大内三郎著『日本キリスト教史』日本基督教団出版局)といいます。

「主要信徒」114名は、「一斉検挙」され、「これを長州藩(66人)・津和野藩(28人)及び福山藩(20人)の3藩に分けて投獄」されます。「その獄中の取扱いは苛酷をきわめ、また未検挙の長崎や五島列島の信徒にたいする迫害もきびしかったので、パークスを先頭とする各国公使の抗議はたえずくり返された。パークスなどは、切支丹の処置が改まらないかぎり、日本との国交も断絶するかもしれないと威嚇したが、政府はそれもはねつけた」(井上清著『明治維新』中公文庫)。井上清は、「乳呑子を母親からひきはなして飢えに泣きつづけるのを母に聞かせて、棄教を迫ることもあった」といいます。「投獄は明治6年までつづく」のです。

井上清は、英国公使・パークスは、「切支丹の処置が改まらないかぎり、日本との国交も断絶するかもしれないと威嚇したが、政府はそれもはねつけた・・・」といいますが、問題はそれほど単純ではなさそうです。《浦上キリシタン弾圧に関する対話書》(岩波近代思想体系『宗教と国家』)の解説によると、「日本側が記録として残した対話書は、外国側の記録と比較すると、相当程度相違や省略があり、宗教史上の史料としては、外国側の記録を的確に踏まえなければならない」とあります。

日本の国辱である治外法権の早期撤廃の障碍となったキリシタン弾圧問題は、国内問題ではなく外交問題でもあるが故に、その解明に当たっては、明治政府の史料だけでなく、諸外国の外交文書等も検証する必要があります。その検証作業に入る前に、もう少し、「浦上四番崩れ」について、海老沢有道・大内三郎著『日本キリスト教史』の記述を手がかりにことの子細を考察してみましょう。(疲れたので中断します・・・)

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