2021/10/02

警察と遊女と部落と はじめに

警察と遊女と部落と はじめに


第9節の主題を考えていましたが、結局、一番短いことばで「警察と売春」としました。

筆者が書くことができるのは、「警察と遊女」であって、「遊女と警察」ではありません。「警察」が先か、「遊女」が先か、その順序にこだわる必要がないのかもしれませんが、筆者は、『部落学序説』において、穢多と遊女について言及するときに、「穢多と遊女」としてきました。その際、「穢多と遊女」であって、「遊女と穢多」ではありませんでした。

この『部落学序説』は、「非常民の学としての部落学」ですから、とりあげる主題は、「常・民」より「非常・民」を優先させることになります。

第9節を書きはじめるにあたって、『部落学序説』の関連箇所を読み直してみましたが、「随分、大変なことをはじめてしまった・・・」という気持ちが沸いてきました。明治4年の太政官布告第448号・第449号は、多くの場合、「明治天皇による有り難いお言葉・・・」として受け止められ、「批判」の対象というより、「信奉」の対象として認識されてきたように思われます。

2つの太政官布告は、近代以降の「部落史」をひもとくときの、批判すべからざる「前提」として機能してきました。被差別部落の内外を問わず、通称「部落解放令」は、明治憲法と同じように「不磨の大典」のように扱われてきました。今日の部落史研究者や教育者は、ことばに意識するとしないとにかかわらず、「部落解放令」の意義は信じて疑うことはないのではないでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者は、通称「部落解放令」を単なる歴史学上の解釈に過ぎないとして、2つの太政官布告を、「批判の対象」として取り扱ってきました。2つの太政官布告の背景には、「天皇の聖旨」のようなものは存在せず、あるのは、明治政府の内政と外交に関する施策だけ・・・と考えてきました。

その「批判」行為は、大軍を相手にたったひとりで戦う戦い・・・のような側面があります。ほんとうに最後まで、ひとりで戦い続けるのか・・・、自問自答してみましたが、ひとりで戦い続けるしか、『部落学序説』を完成させる方法はない・・・と、あきらめの思いを持たざるを得ません。ひとりではじめた戦い・・・。最後までひとりで戦い続けよう・・・、そう決心しながら、新しい「節」に着手することにしました。

主題は、「警察と遊女」・・・。

もっとましな主題はないのか・・・。自問自答してみるのですが、なぜか、今回、頭の中が空回りします。「警察」も「遊女」も、筆者には、直接関係のない世界の話です。「警察官」に聞き取り調査をしたわけでも、「遊女」に聞き取り調査をしたわけでもありません。そのうえ、筆者の手元には、「警察」と「遊女」に関する、史料や伝承、研究論文はほとんどないのです。

ごくわずかな史料を用いて、大胆な結論を出すことに、なにとなくためらいがあります。

『部落学序説』の筆者にとって、「警察」も「遊女」も、「非日常」と「非常」の世界のことがらです。ほとんど毎日、「日常」と「常」の世界に身を置いている筆者には、どちらかいうと無縁の世界です。

しかし、「警察と遊女」という主題を取り上げることなく、『部落学序説』を先にすすめることはできそうにありませんので、微力を省みず、この主題に挑戦してみることにしました。論理のきれが悪くなる場合もあろうかと思いますが、筆者の精神世界の狭さであると、読み過ごしていただければさいわいです。

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