2021/10/02

十手と少年

十手と少年


長州藩萩城下の「穢多町」の末裔である古老の『隠語について』という文章によりますと、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」であった「穢多」と、「常・民」であった「百姓」との関係を示すことばにいくつかの系列があったようです。

① 「エタ」-「ネス」系
② 「コゥシク」-「リョウマル」系
③ 「キンマル」-「リョウマル」系

古老によりますと、②と③はほぼ同じで、③は②に吸収される傾向にありますから、「非常・民」と「常・民」の関係を示す用語の対は、①と②ということになります。

①について、「エタ」は説明するまでもなく「穢多」のことです。「ネス」は、漢字で書けば「素人」という字が割り当てられるのが普通ですが、萩の「旧穢多町」の古老は、あえて、「ネス」ということばに「素人」という漢字を用いていません。萩の古老によると「ネス」の説明は次のようになります。

【ネス】 部落外一般。ネスとは、一般あるいは一般人を指す「ネスゴロウ」という言葉があるが、この言葉は、差別を受けた部落民が敵意を強く表すときに、よく使う言葉である。

部落解放同盟新南陽支部発行『学習会資料』によると、その当時の新南陽支部の支部長をされていた方は、「エタ」といわれて差別されたとき、どのように対応したのか・・・という、一般の参加者の質問に、「ネス」と答えていたと回答しています。長州藩だけでなく、徳山藩のおいても、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての「穢多」の共通用語であった可能性があります。「穢多」の中には、「郡廻り」、また、藩全体を廻ってその職務を遂行した人々もいますので、萩の古老が語り伝えている「隠語」は、長州藩本藩だけでなく、その枝藩・支藩の「穢多」の間でも使用されていた「共通語」としての「隠語」である可能性があります。

【リョウマル】 一般の人。ネスと同義語であるが、特に、私ども部落仲間の間では、この言葉の方をよく使う。

「リョウマル」は「キンマル」(コゥシクに同じ)の対の言葉として使用されています。「ネス」という言葉から「敵意」を取り除いた言葉が「リョウマル」になります。筆者は、古老が収集したその他の言葉を斟酌しながら総合的に、司法・警察である「非常・民」の目から見て、このましい「常・民」は、御法度に抵触していない普通の「常民・」(百姓)のことを指しているのではないかと推測します。「穢多」の自称語としての「コゥシク」は、「リョウマル」と対をなします。

『部落学序説』の筆者は、「穢多」(非常・民)と「百姓」(常・民)という対の言葉は、「非常」の場合と「常」の場合では、異なる言葉が用いられたと推定するのです。「非常」の場合、「穢多」と「百姓」の関係は、「エタ」と「ネス」の関係で先鋭化されて把握されます。しかし、御法度に違反するような状況に置かれていないときは、「穢多」と「百姓」の関係は穏健で、その関係も、「非常」時の緊張感のない「コゥシク」と「リョウマル」が用いられたのではないかと思います。

「穢多」と「百姓」の関係は、ほとんどは「常」の世界にあって、お互いの信頼関係の中、御法度を守りながら生活していたと思われます。しかし、例外的に、「御法度」に違背するような、放火・強盗・殺人・窃盗・一揆などが発しますと、「穢多」と「百姓」の関係は、「非常・民」と「常・民」の関係に先鋭化され、「穢多」と「百姓」は、「取り調べる側」と「取り調べを受ける側」に分かれることになったと思われます。

萩の古老の話では、「あの子は、被差別部落出身か?」というときに、「あの子はキンマルか?」とか、「あの子はキンマルでないのか?」と仲間内で話すそうです。かなり年輩になりますと、「キンマル」ではなく「コゥシク」という言葉を使って同じ会話をするそうです。「あの子はコゥシクか?」とか、「あの子はコゥシクでないのか?」とか・・・。

「被差別部落」の中で、語り伝えられてきた「隠語」・「伝承」・「史料」は、保存されているというよりは、忘却の流れに身を任せている・・・というのが現実のようです。

筆者の部落史の、たったひとりの師である、山口県立文書館の研究員をされていた北川健先生は、「被差別部落」の人々に、「本当に、先祖が語り伝えてきた地名、伝承、歴史を捨てていいのか、「被差別部落」の人々にとって、マイナスだけでなくプラスの面も含んでいると詰め寄ったという話をときどき耳にしますが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に身を漬けている「被差別部落」の若い世代は、「被差別部落」の先祖が伝えてきた地名、伝承、歴史を捨てて省みないようです。「大切なのは、昔のことではなくて、今の部落をどう変えて行くかだ」と、同和対策事業の復活と継続を望むひとが多いようです。

『部落学序説』の筆者は、「被差別部落」の今を変えるためには、「被差別部落」の昔を変えなければならないと考えます。

旧部落解放同盟新南陽支部の主催する「部落史研究会」の座長をされている福岡秀章氏は、その生涯を、部落解放のためにささげた、そして、いまなおささげているひとですが、山口県の被差別部落を尋ねて集めた伝承や史料は、貴重なものを数多く含んでいます。「部落史研究会」は、やがて、筆者の『部落学序説』を越える、あるいは包含する理論と証拠を携えて登場してくるでありましょう。『部落学序説』の筆者は、その露払いみたいなものですが、今回、自己規制を破って、山口県固有の被差別部落の伝承資料をもとに論述しました。

萩の古老は、「被差別部落」の若い人々に、「サンショウもズカンのか」とよく語りかえけるといいますが、筆者は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が、その伝承を次の世代に語り継いでいるように、長州藩の「旧穢多町」・「旧穢多村」の末裔によって、どこかで語り継がれていっている、そして、時がきたとき、それが明るみに持ち出されて、部落差別の完全解消に貢献する・・・、と確信しています。

筆者は、小学生のころ、一番背がひくく、やせて、病弱であったためか、よく、いじめの対象になっていました。私はよく、泣かされていましたが、同じようにいじめられて、決してなかない同級生もいました。彼が、いじめられて悔しい思いをしたとき、よく言っていたのが、「十手を持ってきてぶってやる!」という言葉でした。悪ガキたちは、「そんなものあるわけねえ。あるんなら、ここへもってけえ。」と、彼をからかっていました。そんなある日、彼は、ほんとうに、十手をもってきて、悪ガキたちを威嚇しました。そこへ、彼の父親が入ってきて、「十手を持ち出してはだめだと何回もいったやろ。この馬鹿たれが!」と、彼の手から十手をとりあげて、彼のあたまをボカスカ殴っている光景を目にしたことがあります。60近い年になると、同級生の名前はほとんど忘れてしまっているのに、彼の名前は今も覚えています。十手を持った少年の姿が、筆者の目に焼きついているからです。山口の地にきて、渋染一揆をしらべていたとき、彼の在所は、「被差別部落」(同和地区)のひとつであると知りました。彼の在所は、筆者の家から、小学校を通りすぎて反対の方角にありました。そんな彼も今は60才。子どもいるし、孫もいることでしょう。あの十手と、十手にまつわる、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての物語・歴史を子や孫にどのように語り継いでいるのだろうか・・・、筆者は想像をたくましくします。今も、十手は、「家宝」として、磨きをかけられ、彼のレーゾン・デートル(存在理由)になっているのではないかと思います。

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