2021/10/02

日本の通史に見られる「警察」と「遊女」

 日本の通史に見られる「警察」と「遊女」

「警察」と「遊女」・・・

両者に関する史料は、日本の歴史全体に渡って存在します。しかし、「警察」と「遊女」の両者の関係が正当に認識されてきたとは、必ずしも断言できない側面があります。

網野善彦は、『中世の非人と遊女』(講談社学術文庫)の表題にもみられるように、「非人と遊女」というテーマで多方面に渡って考察しています。「非人と遊女」なのか、「遊女と非人」なのか、網野善彦の用法は極めてあいまいで恣意的です。

網野は、中世の人民を「平民」と「職人」に分類します(『部落学序説』第4章7節7項で既述)。網野は、「非人」と「遊女」を、「平民」ではなく、「職人」に分類します。その当時の権力によって、「平民」には付与されていない、「さまざまの」特権を与えられていたというのが、その理由のようですが、網野によると、「非人」は、「キヨメを職能とする民」であり、「遊女」は、「セックスを職能とする民」であるといいます。

網野は、近世においては、「非人」と「遊女」は、「江戸幕府の差別的な支配の下」で、「これらの被差別民を特定の場所に強制的に集住させる処置」がとられたといいます。「他の諸民族に余り例を見ない被差別部落、遊廓が形成されていった。」といいます。

つまり、網野は、「非人」と「遊女」は、当時の権力によって付与された特権を所有する「職能民」であるという共通項(内包・属性)を持っているがゆえに、「非人」と「遊女」は同等の存在とみなされるのです。網野にとって、「非人と遊女」なのか、「遊女と非人」なのか、という問いは、ほとんど意味を持たないのです。

網野は、網野が自ら創設した「平民」・「職人」という図式を、「非人」と「遊女」の問題に対しても強引に適用します。

『部落学序説』の筆者も、「常・民」・「非常・民」という図式を、「非人」と「遊女」の問題に対しても、同じく強引に適用しようとしますが、網野は、無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者が提唱する「常・民」・「非常・民」という図式ほどには成功していないと思われるのです。

網野は論理的に過ちを犯しています。

網野は、「検非違使」は「武力」を持っているがゆえに、「軍事力」であるといいます。網野は、まず、「検非違使」を、「軍事力」として誤認しています。「検非違使」は、嵯峨天皇のときに創設された制度(古代律令制度にない制度という意味で「令外の制」といわれる)ですが、この制度は、それまでの天皇制国家が軍事力のみであったのに比して、犯罪(国家転覆罪を含む)を未然に防止するために制定された「警察制度」であることはいうまでもありません。

「検非違使」は、京都にあって、そのような治安維持にあたりますが、「洛外」、つまり、地方の治安維持のために「警察制度」に組み込まれた人々は誰であったのか・・・、ということについて、網野は、「非人」を想定します。

京都にあっては、「検非違使」が、その治安維持のため、京都に通じる街道の警備と、関所を通過するひとびとの監視にあたります。「検非違使」の警察職務遂行の報酬として、網野は「公事徴収権」が確立していたといいます。「検非違使」は、「遊女・・・の洛中への定着」に起因して税を徴収したといいます。

京都で「検非違使」がしたのとまったく同じふるまいを、京都を遠く離れた地方でしていたのが「非人」・「河原者」であったといいます。しかも、彼らは、その職務上、「西日本の交通路」においても、「関所料等の交通税免除、自由な通行権」が保障されていたといいます。

網野は、「検非違使」を「軍事力」と断定することで、「検非違使」の本質を見失い、それと同時に、地方にあって、「検非違使」と同じ職務に従事していた「非人」・「河原者」の本質を見失ってしまいます。

「検非違使」と「遊女」の関係が、「検非違使」の「風俗警察」として「取り締まる」側、「遊女」の「風俗警察」の対象としての「取り締まられる」側という相反する関係にあることを見逃してしまうのです。

「非人」と「遊女」の悪しき同一視は中世・近世においては網野善彦によって、近世・近代においては上杉聡によって、それぞれ主張されてきました。その影響は決して少なくありませんが、しかし、無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者は、その良心にかけて、網野善彦と上杉聡の見解は、事実誤認であると断定せざるを得ません。

近代における「警察」と「遊女」・・・

両者の関係については、「取り締まる」側と「取り締まられる」側に区分されることはいうまでもありませんが、両者の関係を複雑にしているのは、網野が指摘する「公事徴収権」の近代・現代版の存在です。このことについては、歴史学上通説が存在しているようです。

総合女性史研究会『日本女性の歴史』(角川選書)に次のような主張があります。

大正13年(1924)、「娼妓数は全国で約52,000人を数え(遊客数は推定31,400,000人)、これに売春をともなう芸妓・酌婦の数を加えると、合計で176,000人にのぼっている。」といわれます。

日本に近代中央政府と地方行政は、この売春について次のような行動をとったというのです。

「娼妓・・・には賦金とよばれた税金が課せられた。これは地方税として県財政をうるおした。神奈川県では1888年に県予算の20%以上を占め、しかもその一部は警察探偵費にあてられた。遊廓と警察との癒着を許す下地がここに釀成されていたのである。虐使された娼妓がようやくの思いで遊廓からのがれてきても、身を守ってもらうべき警察で逆に非をさとされ、泣く泣く戻っていく例は多かった」。

「娼妓」は、「からだを酷使して健康をそこね、結核や性病をわずらっても十分な治療は施されず、身も心もぼろぼろとなって待つのは死ぬばかりであった。公娼制度とは国家による女性の性的収奪にほかならなかったのである」。

「警察と遊女」というときの「警察」は、「国家による女性の性的収奪」の補助機関であったというのです。明治初年、地方の「警察」は、「遊女」について、どのように関わっていったのか、警察側が作成した資料『山口県警察史』から、「警察と遊女」の一側面を考察していきたいと思います。

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