2021/10/01

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界 7

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その7)

『水平社の原像』(解放出版社)の著者・朝治武氏は、「水平社創立宣言の・・・思想的核心」として、「人間主義と部落民意識」をとりあげます。

その取り上げ方に、『部落学序説』の筆者である私は、少しく違和感を感じます。

朝治武氏の論法には、吉田智也氏(『忘れさられた西光万吉』)・宮橋國臣氏(『水平社創立宣言』の源流にふれる)同様、<護教的>要素が多分にみられるからです。

最初から、西光万吉を肯定的に評価する、という前提のもとに、西光万吉に対する賛否両論をとりあげ、<賛>のみをとりあげ、<否>を排除することで、西光万吉の戦前・戦後の取り組みを最大限評価する、という論法を共有している・・・、と筆者の目には映るからです。

朝治武氏は、「人間主義と部落民意識」を、「水平社創立宣言の・・・思想的核心」としてだけとりあげるわけではありません。

朝治武氏は、「人間主義と部落民意識は、いずれも部落問題および部落解放運動にとって必要不可欠かつ重要な要素であった・・・」といいます。

「人間主義と部落民意識」は、戦前の水平社運動(朝治武氏は、この表現を意図的に避け、水平運動という概念を採用・・・)だけでなく、戦後の部落解放運動にとっても、「必要不可欠かつ重要な要素」であるというのです。

朝治武氏の論法の背景には、現在の部落解放運動を守るためには、「水平運動」を守らなければならない。「水平運動」を守るためには、「水平社創立宣言」を守らなければならない。「水平社創立宣言」を守るためには、その執筆者である西光万吉を守らなければならない・・・、という論理が隠されているように思われます。

朝治武氏にとって、歴史学者として、<水平社の原像>を探究する目的は、まさに、現在の部落解放運動を「護教的」にまもることを目的としています。

しかし、「水平社創立宣言」の中には、「西光の思想からは考えられない文章」が含まれている・・・、といいいます。その不純物(朝治武氏がいう、平野小剣の部落民意識)を取り除き、西光万吉の純粋な歴史像(朝治武氏がいう、西光万吉の人間主義)を描き出すこと・・・、それが、朝治武氏の『水平社の原像』の執筆意図であると思われます。

朝治武氏にとって、戦前の「水平運動」、戦後の「部落解放運動」に通底する「思想的核心」としての、西光万吉の「人間主義」とは何なのでしょうか・・・。

無学歴・無資格の筆者は、ここでも、やはり『広辞苑』をひもといて、「人間主義」という言葉の一般的・通説的意味を確認することになります。

ところが、筆者が使用している『広辞苑』第三版には、「人間主義」という言葉はみあたりません。『水平社の原像』のことばをてがかりに、「ヒューマニズム」という言葉を検索してみたのですが、その説明の中にも、「人間主義」という言葉は使用されていません。

つまり、「人間主義」という言葉は、一般的な言葉ではない・・・、ということでしょう。

もしそうなら、朝治武氏は、『水平社の原像』で自論を展開していくとき、そのことを明言し、「人間主義」という概念について、詳しく定義する必要があると思われます。しかし、朝治武氏は、使用されている「人間主義」について、明示的に定義されることはありません。

『水平社の原像』の読者は、その本文をひもときながら、朝治武氏が、「人間主義」についてどのように定義して使用しているのか、推察することを余儀なくされます。

朝治武氏は、西光万吉に関する史料をひもときながら、「西光万吉の人間主義は・・・高潔かつ香り高いもの」と絶賛します。

朝治武氏にとっては、西光万吉の「人間主義は、現実世界に生きている生身の具体的人間というよりは、宗教的・抽象的・理想主義的な人間を多分に感じさせるもの」であるといいます。

「水平社創立宣言」の「思想的核心」である西光万吉の「人間主義」は、その本質において<現実>的表明というより<理念>的表明であったが故に、戦前・戦後を通じて、部落解放運動の精神的支柱足り得たと評価しておられるように見えます。

朝治武氏は、「水平社創立宣言」において、西光万吉の純粋な思想の表出である「人間主義」を綴ったことばの背景には、「ヒューマニズム」と「宗教的思想」がある・・・、といいます。

朝治武氏がいう「人間主義」とは、次のように定義することができるのでしょうか・・・?

「人間主義は、ヒューマニズムと宗教的思想の混交物である」。

朝治武氏が指摘する「ヒューマニズム」とは、「ロマン・ロラン、ゴーリキー、ウイリアム・モリスなどのヒューマニズム」を意味します。つまり、欧米のキリスト教的ヒューマニズムのことです。

また、「宗教的思想」は、「キリスト教、親鸞の宗教的思想」を意味します。

西光万吉の「思想的核心」は、「親鸞の宗教的思想」をのぞけば、すべて外来のキリスト教的「ヒューマニズム」と「宗教的思想」ということになります。

江戸時代300年間に渡って、幕府権力と一体化して、キリシタン弾圧に直接関わり、幕末・明治に入ってからも、キリスト教排斥の先鋒を担っていた浄土真宗の僧侶の家系をひく西光万吉が、その歴史と文化を忘れてしまったかのように、キリスト教的「ヒューマニズム」と「宗教的思想」を標榜するには、どのような精神的葛藤・思想的葛藤があったのでしょう?

浄土真宗の歴史と教理をひもといても、その反キリスト教的思想と姿勢をぬぐい去ることはできません。

しかし、西光万吉の「人間主義」は、朝治武氏の解析では、浄土真宗門徒、あるいは、僧侶の末裔として、その反キリスト教的要因をどこかへ忘れ去り、何もなかったかのごとくに、安易に、キリスト教的「ヒューマニズム」と「宗教的思想」に立脚しているように見えます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、西光万吉の「人間主義」は、思想的・宗教的には、非常に屈折した点が多々みられます。

西光万吉の「人間主義」は、西光万吉の中にある<complex>の表出を含んでいるのではないかと思われます。

誤解を避けるために申し添えますが、<complex>は、「劣等感」の意味で使用しているのではありません。『広辞苑』の説明の①の意味で使用しています。

コンプレックス【complex】【心】①心の中のしこり。「感情をになった表象の複合」と定義されているが、一般には、抑圧されて無意識のうちにあるものをいい、病的行動の原因となることおがある。精神分析の用語。②特に、インフェリオリティ・コンプレックス。

西光万吉の研究は、まだまだ、西光万吉の精神的葛藤や思想的葛藤を明らかにできないでいるのでしょう・・・。

朝治武氏は、このようにも綴っています。

「人間としての平等を希求する思いが人間主義という普遍性を呼び起こさせ」た・・・。

朝治武氏の言葉をかりれば、西光万吉の「思想的核心」である「人間主義」の背景には、『広辞苑』に収録されている<平等主義>が存在しているように思われます。

【平等主義】一般に差別を認めない立場。

朝治武氏が、西光万吉の「思想的核心」として、<平等主義>を退け、「人間主義」を標榜する理由は何なのでしょうか・・・?

朝治武氏の言及は、「全国水平社宣言」・「水平運動」の<神話化>だけでなく、その「思想的核心」の創始者であった「西光万吉」の<神話化>にまで及びます。

「全国水平社創立宣言の人間主義と、唯一の執筆者とされた西光万吉の高潔ともいえる精神主義的な人格が結びつけられ、また部落解放運動の対立と分裂が激しくなるにつれて継承すべき部落解放運動の原点が全国水平社創立宣言に求められ、それらが相俟って今日にいたる重要な歴史的記憶となっている・・・」。

朝治武氏は、西光万吉を<神話化>し、部落解放運動という<宗教>の<教祖>にまつりあげようとしているかのようです。

朝治武氏がいう、「差別されるがゆえの部落民から誇りをも感じる肯定的存在としての部落民へという価値観の転換を意味する」「水平運動」は、そのような<神格化>の中で、本当の部落差別完全解消に繋がる道程を築いていくことができるのでしょうか・・・。「全国水平社宣言」・「水平運動」・「西光万吉」の<神話化>は、今日の部落解放運動が直面している現実の厳しさを直視することからそらせ、全国の津々浦々に、今なお差別と闘いながら生きている被差別部落民・被差別大衆をして、あらぬ方向へ導くことにはならないのでしょうか・・・?

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