2021/10/02

賤民史観と「解放令」 7 続・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」

賤民史観と「解放令」 その7 続・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」 

前回、筆者が所有している国旗・国歌についての基本的な「感情」について言及しました。

筆者が所属している日本基督教団の中にあっては、このような表現は、保守的・体制的と批難されるのが普通ですが、『部落学序説』は、「序説」(プロレゴメナ)ですから、そこで使用される基本的な概念についてはできる限り、コメントがなされてしかるべきであると思います。

それは、『部落学序説』執筆に際して、筆者の「隠れた意図」を排除するためです。筆者の国旗・国歌についての言及は、それ以上でもそれ以下でもありません。

「皇国史観」とはなにか・・・。

それを考察するにあたって筆者が採用した文献は、尾藤正英著『江戸時代とはなにか』(岩波現代文庫)です。この本には、「日本史上の近世と近代」という副題がついていますが、この副題は、近世史研究家としての尾藤が、「通史」として「近世」・「近代」を連続的に洞察しようとした姿勢をあらわしたものです。

尾藤正英著『江戸時代とはなにか』は、近世・近代を連続的に研究しようとするひとびとにとっては、非常に刺激的な内容の書です。紹介したい点は多々ありますが、今回は、その書から、「皇国史観」とはなにか・・・という問いに対する答えを抽出していきたいと思います。

「皇国史観」を、とりあえず定義していると思われることばに、「国家によって公認された歴史観」というのがあります。

ここでいう「国家」は、尾藤によると、「近代天皇制国家」のことで、明治維新によって「成立」し、明治22(1889)年に発布された大日本帝国憲法によって「制度化」され、昭和20(1945)年の敗戦によって、その体制が「実行力を失った」、1968年から1945年までの近・現代の日本「国家」のことです。

「皇国史観」は、明治維新から敗戦までの「国家によって公認された歴史観」であるということになります。

『広辞苑』によると、「皇国」とは、「(天皇が統治する国の意)わが国の旧称。すめらみくに。」とあります。「天皇が統治する国の意」に括弧がつけられているのは、「皇国」ということばが「難解」であるが故に、『広辞苑』の著者・新村出によってつけられた「注釈」を意味します。

「皇国史観」というのは、文字通り解釈しますと、「天皇が統治する国」の「歴史観」ということになりますが、「皇国史観」の視点・視角・視座からしますと、中世・近世において、「自然発生的に形成された」(尾藤)、700年間に及ぶ「武家政治」は「変則的な政治形態」とみなされます。

「皇国史観」は、中世・近世における「武家政治」を「武士による政治権力の私的な占取」とみなし、「天皇を君主とする日本の国家のありかた(国体)に反する」ものとみなします。

「皇国史観」は、明治維新を、「天皇」による、国家と人民に対する「変則的な政治形態」である「武家政治」からの解放・奪回のいとなみとみなします。

そういう意味では、「皇国史観」は、「武家政治」、とくに、明治維新の直前の政治体制・近世幕藩体制については、徹底的に闇・夜・暗黒の時代として描きます。明治元(1868)年の『御諭書』には、明治維新は、「夜ノ明ル」時として認識され、『京都府下人民告諭大意』では、近世幕藩体制下300年間に渡っては、「御政道相立ズ、天子様ハアレドモ無ガ如ク、下民御愛憐ノ叡慮モ中途ニ滞リ、賄賂盛ンニ行ハレ、善人モ罪ニ陥リ、悪人却テ幸ヲ得ル体ニ成行ケレバ、大ニ宸襟ヲ悩シ給ヒ、御寝食モ安カラズ、仮令如何ナル御艱難ニ逢セラレ給フテモ、下民ノ苦シミ見ルニ忍ズトの御事ニテ遂ニ此度王政復古」に踏み切ったと伝えています。

明治維新において、天皇は、近世幕藩体制下の苦しみからの人民(士・農工商)からの解放者として表現されています。

尾藤正英は、「皇国史観」は、「明治維新の後に成立した国家体制を正当化しようとする立場から唱えられた、一種の政治的な主張であって、歴史の客観的な認識に反するものであることは、改めていうまでもない。」といいます。

尾藤は、戦前、「このような歴史観が、とくに学校教育の場などで、ある種の強制力をもって通用していた」といいます。

この「皇国史観」に対しては、国民は、「天皇制国家」による教育を通して受容することのみを強制され、「皇国史観」について批判・研究することは許されなかった・・・といわれます。尾藤は、「不敬罪などによって制約されていた戦前の時代に、この問題についての研究の自由がなかったことは改めていうまでもない」といいますが、すぐ続けて、「そのタブーが解けた戦後になってからも」、同じ状況が続いたことを示唆します。

戦前の「皇国史観」の枠組みから離脱できなかった学者・研究者・教育者によって、「皇国史観」は、巧妙に、戦後の国民に注入され続けてきたのでしょうか・・・。

尾藤は、「皇国史観」は、「国民国家の形成期出会った明治時代の頃には、国民統合のために有意義な役割を担っていたとしても、昭和前期の戦時体制下では、それは国民に対し国家への奉仕を一方的に強制するための、非合理なイデオロギーに転化していた。そのいまわし想い出・・・」が「抵抗感」を抱かせる原因になっていたといいます。

「皇国史観」に対する過度のタブー視が、「皇国史観」の歴史学的批判検証をさまたげ、そのような日本の歴史学の体質は、「昭和天皇」の戦争責任を自覚させることはなかった・・・と批判します。尾藤正英は、長崎市長であった本島等に共感し、「昭和天皇は一言も国民に対する自己の責任について語ることがなかった・・・」といいます。「大正年間に生まれた私たちの世代の者が、学歴の有無を問わず、戦争の想い出にふれる時、天皇に責任のあるのは当然のこととして、お互いに間で無条件に了解されるのが普通である・・・。」といいます。

「国際法を無視した侵略戦争」によて、国内外の多数の人々がその戦争の犠牲になった、その戦争の天皇の責任を免罪し、「※命令よって動員された兵士らの大多数や、また無差別爆撃や原爆によって被害を受けた市民たちにまで、その責任を分担させようとするのは、あまりにも冷酷というほかはない。何のための死であったのか、それが戦争によって家族や友人を失った人々の心に深く沈殿した想い」であるといいます。

昭和天皇の戦争責任の告白につなげることができなかった、戦後の日本の歴史学は、「天皇ないし天皇制についての、思想上の混迷ともいうべき状況が現在の日本には生じているのではあるまいか・・・」と尾藤は危惧を表明して、『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』を結んでいます。

尾藤正英著『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』に教えられて、「皇国史観」とはなにか・・・、その問いに対するなんらかの解答を得たうえで、「皇国史観」から見た、「明治4年の太政官布告」の姿を、現代の部落史研究者の論文を分析することで批判検証していきましょう。


※筆者が所属している日本基督教団は、「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白 」(1967年 3月26日)を公にしました。「士族」出身の基督者によってその基礎と体質が築かれたといわれる日本の基督教界における戦争責任の告白が、このような形をとらざるを得なかったことをみとめつつも、直接の戦争責任に関しては、「動員」された側ではなく「動員」した側、天皇・軍隊・政治家・学者・研究者・教育者にあるのであって、その責任を一般国民まで押しつけることは前々から問題を感じていました。

参考に「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白 」を掲載します。

わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。

まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて白覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。

わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。

明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。

わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。

「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すぺきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。

まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。

終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

1967年 3月26日復活主日 日本基督教団総会議長・鈴木正久

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