2021/10/02

賤民史観と「解放令」 その6 「解放令」をめぐる南梅吉の論理

賤民史観と「解放令」 その6 「解放令」をめぐる南梅吉の論理
 

雑誌『水平』(第1巻第1号)に最初に掲載された文章は、水平社中央執行委員長・南梅吉の《改善事業より解放運動》と題される文章です。

その文章は、次の言葉ではじまります。

「明治4年太政官布令により穢多の称を廃せられ、形式上所謂平民に列せられた・・・」

南梅吉は、明治4年8月26日の太政官布告第488号と第489号を「明治4年太政官布令」と呼んでいます。なぜ、南梅吉は、雑誌『水平』の次の文章、佐野学著《特殊部落民解放論》に使用されている「明治4年の解放令」という表現を採用しなかったのでしょうか。

南梅吉の文章によりますと、南梅吉は、「明治4年太政官布令により穢多の称を廃せられ」たけれども、それは、「形式」の上だけで、「実質」は、「穢多」の称は、「新平民」・「少数同胞」・「後進部落」・「特種部落」という名前を変えて継続させられた・・・と認識しているようです。

「旧穢多」が、「明治4年太政官布令」以降も、「久しきに亘る迫害と侮蔑」に曝されているという現実を認識するとき、南梅吉は、「明治4年太政官布令」を、佐野学のいう「明治4年の解放令」という言葉で表現することにためらいがあったのでしょう。

「明治4年の解放令」という言葉は、「吾々の社会群の在らざるかの如く・・・」、間違った教説を流布せしめるに至ったといいます。「解放令がだされたのだから、もう、近世幕藩体制下の穢多身分はいない・・・」という「眩惑」を「旧穢多」の末裔に与えるようになったと批判します。「謬論」を展開したのは、「凡俗なる為政者」と「誤れる宗教家と同情家」であるといいます。

南梅吉の目から見た彼らは、「旧穢多」の末裔に接するに、「茶菓を共に食膳を列する」方法をとったといいます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」役についていた人々は、その職務上、必要以上に、取締りの対象である「武士」・「百姓」に個人的に親密になることは禁止されていました。汚職・収賄の罪に陥り、その職務から逸脱することへの回避策であったと思いますが、今日の警察官の置かれた状況と比べてもあまり差はないと思われます。

近世幕藩体制下にあって、「武士」・「百姓」が「穢多」と飲食を共にしたという理由で裁かれた事例が多々見られます。多くの場合は、ただ単に飲食を共にした・・・という理由で裁かれたのではなく、そうすることで、「穢多」が、捜査情報を「武士」・「百姓」にもらしたとか、「武士」・「百姓」が、「穢多」に飲食をふるまうことで犯罪摘発をのがれようとしたとか、・・・そういう類の法的逸脱行為(「穢れ」)があったからではないかと思います。

近世幕藩体制下300年間に渡って植えつけられてきた「取り締まる側」(「旧穢多」)と「取り締まられる側」(「旧武士」・「旧百姓」)との関係のありようは、明治以降においても、ほとんど変わりがなかったものと思われます。

「旧百姓」の目から見ますと、「明治4年太政官布令」がだされたとはいえ、その一部は、近代中央集権国家の「警察」に再雇傭され、「旧穢多」時代と同様の職務についています。しかも、「旧穢多」が「私服刑事」として犯罪捜査・治安活動に関与していることが明らかになっていきますと、誰が、「警察官」であるのかないのか、判別できなくなってしまいます。「旧百姓」は、当然、「旧穢多」全体に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」に対して抱いていた警戒心を継続して持たざるを得なくなります。

『部落学序説』の筆者のいう「半解半縛」状態に置かれるようになります。しかし、明治30年代後半、明治政府は、世論に押されて、「警察の手下」を、近代中央集権国家の警察から名実共に排除しようとします。「警察の手下」は、明治13年発行の司法省の『全国民事慣例類集』には、「穢多非人」の職務として登場してくるものです。

明治34年の『防長新聞』には、「刑事巡査の手先の害毒」という一文が掲載されています。山口県警察が、「手先」を使い続けることを批判した文章です。警察の正規業務に「民間協力者」を採用することの問題点を指摘したものです。「警察の手先」・「民間協力者」は、「公々然と警察風を吹かして毫も憚る所なく、罪犯の検否は一に自己等の手中にある如く不正の利を貪る者あるに至っては、其の害も亦極まれりと云ふべし。」と記されています。

明治政府は、国政・外交問題によって、明治38年以降、近代警察(「旧穢多」を含む)と、当時の「旧穢多」の末裔としてのひとびととの間を完全に切り離す政策をとります。その結果、切り捨てられた「旧穢多」の末裔に対して、近代警察は、「特殊部落民」という言葉でもってラベリングします。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」であった「旧穢多」は、この時点ではじめて名実ともに「旧穢多」の職務から解放されるのです。筆者のいう「半解半縛」の終焉を迎えたのです。

当時の知識階級・中産階級に属する学者・研究者・教育者・運動家・政治家などは、ことの子細を充分しっていたのでしょう。南梅吉の目からすると、「売名的名士」として、「特殊部落」に出入りするようになります。南梅吉は、その動機はきわめて「不純」であったといいます。

南梅吉は、「売名的名士」は、「(「特殊部落」のひとびとと)茶菓を共にし食膳を列することによりて、差別の撤廃を成れるを思」うというのです。「特殊部落」の人々と、共に食事をすること、また杯を交わすことをもって、「特殊部落」のひとびとに差別心なきがごとく自負するというのです。南梅吉は、それは、「差別的同情」でしかないと厳しく糾弾します。

「売名的名士」は、戦後の部落解放運動や同和対策事業のいろいろな場面で存在していたように思われます。「被差別部落のひとびとと食事を共にすることができるか。被差別部落に入って、だされた食事を食べることができるかどうか。」、それを社会同和教育の場で参加者に問いかけ、自分は食べることができるから差別者ではない・・・、と吹聴する講師の姿を何度も目にしました。

しかし、南梅吉は、「被差別部落の人々と食事を共にしたからといって差別性がないというのはおかしい」と指摘しているのです。「共食」は、差別性をもっていないということのしるし足りえないと言っているのです。

南梅吉は、彼らは、「吾々の同胞に無自覚を強制し、自覚に対して催眠作用を施した。」と激しく批判するのです。現代的な用語を使いますと、彼らは、「旧穢多」の末裔に対して、「集団催眠」をかけ、「旧穢多」一人一人に、「賤民」であることの、その歴史は「弱者の哀史」でしかないと、「賤民史観」をその心奥と脳裏に埋め込むマインドコントロールを仕掛けた・・・というのです。

当時の知識階級・中産階級である学者・研究者・教育者・運動家・政治家は、「旧穢多」の「教育程度の低きを云々する」が、それは、彼らの「時代盲」が「露出」したものであるといいます。「旧穢多」から「学問研究の機会と自由とを奪へる」ものは、「物質の欠乏」(経済的貧困)ではなく、「精神的苦痛」(差別感の齎す・・・迫害と虐げの痛苦)にあるというのです。

「賤民史観」に基づく「差別」は、「旧穢多」の末裔が、「迫害と虐げ」を契機として自らの「知識欲」をかきたてることにつながらないで、多くは、「迫害と虐げの痛苦」によって、「吾々の学問研究」(「賤民史観」を見直し、「旧穢多」が自らの歴史を自ら尋ねる所作)を妨げられる結果に陥っているというのです。

「賤民史観」を、さも、「旧穢多」の歴史であるかのごとく吹聴する「凡俗なる為政者、行政官吏又は職業的或は遊戯的改善家にすべてを委し置くことは、現在の境遇より吾々を解放するの不可能なるを思ふ。」と厳しく自戒し、「旧穢多」の末裔に対する差別は、「吾々自らの力によりてのみ、それを解決し得ることを知った。」と、南梅吉は、雑誌『水平』の中で宣言します。

「被差別部落」の人々が真に部落差別から解放されるために必要なのは、「改善事業」ではなく「解放運動」であると・・・。

南梅吉は、「被差別部落」の人々が、集団「催眠」にかけられ、その出自が「賤民」であり、その歴史が「賤民史観」であることを受容することで、その代償として提供される「改善事業」(融和事業・同和事業)を拒否し(南梅吉は正当な事業まで否定していない)、なによりもまず、「被差別部落」の人々の、とりわけ青少年たちの差別による「精神的苦痛」をとりのぞく「解放運動」の継続を訴えたのです。

南梅吉は、「被差別部落」のひとびとが自らの歴史をひもとき、みずからの歴史を構築することは、「正(義)と善の実行である」と宣言し、それを遂行するために、「被差別部落」の側に必要なのは、「より真剣に、そしてより純真なる気持ち」であるといいます。

そしてこのようにしめくくります。

「団結は力である。吾々は吾々の力を信ずるが故に、この運動を起こした。
やがて吾々は解放される。」

南梅吉がいう、「団結は力である」の「力」は、『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一がいう、「部落が解放されるために」必要とされる三つの力、「体力」・「精神力」・「知力」のうちの「知力」のことです。

水平社運動の根本精神の継承者・中山英一はこのように語ります。

「いま、「学歴社会」といわれています。学歴社会の頂点に立つのが、国立の「東京大学」であるといわれています。この東京大学の学生はどういう家庭の出身かというと、多くは金持ちの子です。金持ちの子は生まれつき頭が良いのかというと、そうではありません。能力においてはほぼ同じなのですが、どれだけ自分の能力を開発されたかどうかなのです。部落が解放されるためには、私たち自身が力を持たなければなりません。そういう「力」は何かというと、三つあります。

一つは、「体力」です。
二つは、「精神力」です。
三つは、「知力」です。

差別をする勢力は巨大です。とても一人ひとりの弱い力では太刀打ちできません。こういう巨大な差別を克服するには、差別される私たちの側に力がなくてはだめです。差別と闘う力です。どうしたら差別をなくすことができるかというと「差別されている人間が中心となって団結して差別と闘う」。これ以外にはありません。

この差別と闘う「力」をつけるのが「学習」なのです。

それを望月町では「解放学校」といっています。「解放学校」とは、差別されている部落の人自身が差別と闘う力を蓄積する。そのための学習の場なのです」。

南梅吉の人と思想は、現在の部落史研究者の研究対象にはなりません。しかし、水平社運動のもうひとつの流れは、東日本にあっては、長野県の望月町の「解放学校」に、西日本にあっては、山口県の川崎町の「解放学級」に、受け継がれ継承されていっているのです。

ブログ『すばらしき新世界』の著者は、その文章「吉田向学「部落学序説」を読む 3」の中で『部落学序説』を評してこのように語ります。

「「部落学序説」は著者自身が認めているように、先行する被差別部落に関する多くの研究書など二次資料を比較検討した研究論説である。その研究対象となった地域も西日本の一部であり、部落問題に関する普遍的研究とは言いがたいことは事実である。多くの研究者によって一次資料に基づく科学的検証がなされることを期待してやまない」。

『部落学序説』の筆者としては、ブログ『すばらしき新世界』の著者の批評の言葉に全面的に賛同することはできません。筆者は、「多くの研究者によって一次資料に基づく科学的検証がなされることを期待」するのではなく、「多くの当事者(部落民)によって一次資料に基づく科学的検証がなされることを期待」すると言い換えざるを得ません。「賤民史観」は、真に「被差別部落」のひとびとを解放するものでない以上、「被差別部落」の人々は、特に、「旧穢多」の歴史の継承者として、全国津々浦々に生きる「被差別部落」のひとびとは、「賤民史観」を克服し、それに変わる「史観」をみずからの手で構築していくべきです。

『部落学序説』は、「差別(真)」の側から発する、「解放学校」・「解放学級」で「被差別部落」の真実の歴史を追究するひとびとへの、ささやかな支援と連帯の言葉です。

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