2021/10/02

「賤民史観」と遊女5 「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級

「賤民史観」と遊女5 「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級

明治5年に出された太政官布告第395号と司法省布達第22号は、一般的に「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」と呼ばれていますが、筆者は、『明治六年政変』の著者・毛利敏彦に啓発されて、その布告・布達を「日本歴史上最初の人権宣言」と評価してきました。

しかし、諸外国からも高く評価されていた、その「人権宣言」を、明治政府は、なぜ撤回することになったのか・・・。「遊女」(娼妓・芸妓)を、近代身分制度の天皇・皇族・華族・士族・平民という身分制度の「外」・「最下層」に押しやり、「人非人」(「人外の人」という意味)とラベリングしていった人々を具体的にとりあげることにしましょう。

と、いっても、今回の主題は、筆者にとって、非常に書きづらい主題です。

というのは、筆者が、所属している日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員をしていたとき、ある人物の全集を読んで、その差別性を指摘したことがあります。

1988年度の西中国教区の部落解放セミナーで原稿なしで発題、その内容をあとで、自分で文章化したのですが、その文章は、3年後、『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』に収録されることになりました。

その文章は、筆者が、西中国教区・部落差別問題特別委員会の委員をしていたときに書いた、最初で最後の短い論文ですが、この論文で書いた内容をめぐって、筆者は、西中国教区、特に、山口東分区の教職・信徒の方々から激しい抗議と「批難」を受けることになります。

当時、山口東分区の分区長をしていた、徳山教会・加藤満牧師の筆者に対する「批難」は代表的なものです。

加藤満牧師は、筆者をこのように「批難」するのです。

人間は、歴史的な存在だ。
日本基督教団の戦前・戦後を通じての偉大な指導者である賀川豊彦は、その歴史の中で日本の福音宣教のために大きな働きをした。
しかし、おまえは、現代的な視点から、賀川豊彦を批判する。傲慢の極みだ。
そういうことができるのは、おまえの人間性がおかしいからだ。
賀川豊彦を批判することは、教団・教区だけでなく、キリスト教界を批判することになる。
学者でもないのに学者ぶった話をするな、即刻、賀川豊彦批判をやめろ。

筆者は、『賀川豊彦全集』(全24巻)を通読して、賀川豊彦のことばを要約してみせただけなのですが、分区長・加藤満牧師の「激怒」は、筆者にとっては異常と思えるものでした。過去の人物の全集を読んでまとめる作業をしただけの筆者に、どうして、そんなに異常反応を起こすのか・・・、筆者はそのとき解せないでいました。

それ以前にも、西中国教区部落差別問題特別委員会の宗像基委員長に、「具体的に部落差別問題に取り組め」といわれて、ある出会いをきっかけに、部落解放同盟新南陽支部の学習会や対市交渉、糾弾会に陪席させてもらうようになったときも、分区長・加藤満牧師は、「激怒」して、筆者を徹底的に「批難」してきました。「人の嫌がる差別問題に首を突っ込むのは、おまえの人格に欠陥がある証拠だ」、「おまえの発想は解同と同じだ。人が避けて通る問題に、あえてかかわろうとするのは、おまえの人格に欠陥がある証拠だ」と、牧師会で罵声を浴びせられたこともあります。

あるとき彼は筆者にこのように語りました。「分区として、おまえに部落差別問題特別委員会の委員に推薦したのは、おまえに委員をまかせておけば、何もしないし、何もできないだろうと思ったからだ。それなのに、なぜ、解同と一緒に行動しているのだ」。

あるとき、隠退教師が教会をたずねてきてこのようにいいました。「あなたのふるさと(岡山)へ行ってあなたの身元を確かめてきました」(筆者の先祖のふるさとは、父方は香川、母方は徳島なので、身元を確かめるには岡山を尋ねても意味がないのですが・・・)。

分区長・加藤満の筆者に対する「批難」は、ことばだけの「批難」にとどまらず、いろいろな場面で筆者を徹底的に排除することへとエスカレートしていきました。「おまえは牧師ではない」と断定し、筆者の教会の信徒が逝去されたときは、「おまえに葬儀をまかすことができない」といって、筆者だけでなく、教会の役員会も無視して、何のあいさつもなく葬儀を「勝手に」執行してしまいました。

こういうのを「牧会ルールに反する」というのですが、分区長・加藤満牧師は、部落解放運動に関与している若い牧師に対する指導としては、この程度は許される範囲だと思っていたようですが、筆者は、やがて、分区長・加藤満牧師に対して「殺意」を覚えるようになっていきました。

うまれてからそのときまで、人に対して「殺意」を抱いたことなど一度もありませんでした。そのとき筆者は考えたのです。どうして、牧師になって、しかも、「国民的課題」といわれている部落差別の解消のために、西中国教区総会の議場で部落差別問題特別委員会の委員として選任されてとりくんでいるのに、分区長・加藤満牧師からこんな仕打ちを受けなければならないのか・・・。

筆者は、そのとき、山口東分区の牧師会(分区長・加藤満と、彼に同調するすべての牧師たち)から離脱することを決めたのです。彼らの「いじめ」・「いやがらせ」・「排除」を事実として受け止め、その「場」に身を置くことをやめてしまったのです。

筆者は、分区長・加藤満牧師やその他の山口東分区の牧師たちのように「聖人君子」ではありません。新約聖書に出てくる「無学でただのひと」でしかありませんから、「殺意」が「殺意」でなくなるときがあるかもしれません。分区長・加藤満牧師と、筆者の前任者である、自害したとされる牧師となぐりあいのケンカをしたことがある・・・と赴任してそうそう聞かされていたので、「君子の危うき」に近寄らず・・・決断して、分区の牧師・信徒から遠ざかることにしたのです。筆者が牧師をしている教会は、分裂の危機にさらされましたが、教会の存続を願う教会の役員たちは、筆者が赴任してからの経過をすべて知っていましたので、筆者が「牧師会」と「分区」から離れることをむしろ賛成してくれました。

西中国教区部落差別問題特別委員会の委員を辞任したのを契機に分区から徐々に離れていきましたが、そのころ、筆者は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老と出会い、その話(伝承)を耳にしたのです。山口東分区からの疎外を受け入れる・・・、その代償として入手した時間を使って、山口県の被差別部落、その寺院をたずねて調査したり、徳山市立図書館の郷土資料室の史料や論文・蔵書を漁ったりするようになったのです。

なぜ、分区長・加藤満をはじめ、山口東分区の牧師・信徒(筆者を敵視するのはほんの一部だけですが・・・)は筆者をなぜ「批難」するのか・・・、精神的苦痛と重圧のなか、たどりついたのが、「差別」・「被差別」の類型です。

あるとき思うようになったのです。なぜ、部落差別問題に取り組むことにそんなに激怒するのか・・・。所詮、被差別部落出身ではないものにとって、他者がどのように部落差別問題と取り組もうが、ほとんどなにの関係もないではないか・・・。他者の人格を否定し侮蔑するような言動になぜ走る必要があるのだろうか・・・。筆者は、筆者(「差別(真)」)の立場から、ひとびとの部落差別問題に関する言動を分析するようになったのです。そして、筆者の苦い経験から、差別・被差別の類型を、「差別(真)」・「被差別(偽)」と「被差別(真)」・「被差別(偽)」にわけて考えるようになったのです。

そして、筆者が、山口県の被差別部落に出入りしたり、徳山市立図書館の郷土資料室で文献をあさったりすることに「激怒」したり「異常反応」(いじめ・疎外)を示すひとは、「差別(偽)」(「被差別部落出身者であって、それを隠して生きているひと」)ではないかと思うようになったのです。そして、その反対に、「被差別(偽)」、被差別部落出身ではないのに被差別部落出身者であるかのように発言したり、研究論文を書いたりしている「精神的似非同和行為」をしているひとを「識別」できるようになったのです。

山口東分区の牧師でありながら、その牧師会から離脱していったきっかけは、戦前・戦後を通じて日本基督教団の指導者であった賀川豊彦の差別性(「優性思想」、和製ブーカーティ・ワシントンとしての思想)を指摘したことにありました。

今回、この『部落学序説』で、再び、賀川豊彦の差別思想を取り上げることになります。

今回、彼らからどのような反応が飛び出すか・・・。彼らの筆者に対する排除・疎外は徹底していましたので、いまさら、筆者に対してなすことができることはほとんどないのですが、あと、ひとつだけ、重要なことがあります。それは、賀川豊彦に対する筆者の批判を「教団」・「教区」・「分区」に対する「批難」として、筆者を「教団の牧師としてふさわしくない・・・」との理由で「戒規」にかけ、「牧師」の資格を剥奪することです。

筆者が、日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会委員として書いた最初で最後の論文(委員を辞したあと、8年間の活動を原稿用紙にまとめて教区に提出したことがあります。部落差別をなくすための実践的方法を論述したものですが、教区の宣教研究委員会によって、教団・教区の部落解放運動の方針に反するということで、没収・破棄された原稿用紙300枚の論文はありますが・・・)でとりあげたのは、賀川豊彦の精神的破綻です。

賀川豊彦は、1923年に水平社の応援演説に奈良の被差別部落にでかけます。そのとき、賀川はこのように綴ります。

「雪の中を貧しい部落に出入りすると私は何とはなしに悲しくなりました。あまりに虐げられている部落の人々の為に、私は涙が自ら出てそれ等の方々が過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為に祈るのであります。みな様も水平社の為に祈ってあげて下さい。・・・神様どうか、水平社を導いて下さい。雪の柱、火の柱を持って御導き下さい。アーメン」。

私は、このことばを読んだとき、胸がジーンとしました。賀川豊彦の心のひだに触れた思いがしたからです。

そして、続けて思ったのです。そのような賀川豊彦が、なぜ、被差別部落の人々に対して、差別的な言辞を多数残していったのか・・・。賀川豊彦のなかの差別性は、賀川豊彦の内面から出てきたものであると集約することはできない、むしろ、その時代の思想の潮流・「賤民史観」が大きく影響しているのではないか・・・と思ったのです(その当時の筆者の「賤民史観」の「賤民」は、マックス・ウエーバーが『古代ユダヤ教』(みすず書房)の中で、「パーリア民族(賤民 Pariavolk)」とよんでいるものの域をでませんでしたが・・・)。(続く)



(付録)
最近、小学生から老人まで、ちょっとしたことで殺人に走ります。毎日、相次ぐ殺人事件の報道で、筆者もときどき暗くなります。筆者の経験からいいますと、「殺意」が芽生えたら、それは、あなたの人間関係、あなたの属している小社会が正常な状態ではないことを意味しています。あなたが、その「殺意」をそのまま、放置しておくと、あなたの中で、その「殺意」はどんどん、どんどん、増強されます。なぜなら、あなたがそのような思いを抱くにいたった、あなたの人間関係、あなたの属している小社会は、あなたが、その「殺意」によって、破滅・自滅するまで、あなたを追い詰めるからです。あなたをいじめ、疎外し、排除するひとが、社会的にどんなに地位がありすぐれた人格者であったとしても、決して、あなたは、彼らに対していかなる予見をもっていはいけません。あなたができることは、あなたに「殺意」を引き起こす、あなたの人間関係、あなたの小社会を捨てることです。あなたは、そのことで、自分のすべてを失うと思うかもしれません。しかし、そんなことはありません。失うのは、あなたを破滅・自滅においやる人間関係や小社会でしかありません。決してあなた自身を捨てることにはならないのです。あなたが、服従しなければならないのは、あなたの存在をみとめ、あなたに敬意をしめす人間関係や小社会のみです。あなたは、あなたの中に芽生えた「殺意」とあなた自身を心中させてはならないのです。また、「殺意」を実行することで、あなたをいじめ、疎外し、排除するひとと心中させてはならないのです。なぜなら、あなたは、その気になれば、いつでも、あなたを、いじめ、疎外し、排除するひとびとなしで、あらたな人生をはじめ直すことができるのですから。あなたをいじめ、疎外し、排除する人々は、あなたのなかに「殺意」という種をまきます。しかし、あなたは、その種を、あなたのこころと頭の中で育ててはいけません。実を結ばせてはいけません。その前にあなたは、勇気をもって、あなたを破滅・自滅へおいやる人間関係や小社会から離脱すべきです。場合によっては、そのことで、独りになることもあるでしょう。しかし、そのとき、独りになることも人生においては大切なことであると思うべきです。「独りで生きる・・・」、それは、あなたに生きる強さを与えてくれます。筆者のとぼしい経験から・・・、ひとこと。

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