2021/10/01

ある部落民告知

ある部落民告知

1977年山口県の同和教育指定校になった、A市A中学校に、「同和教育に熱心な教諭」として赴任したきたA教諭・・・。

山口の地で実践しようとした同和教育は、山口の被差別部落の歴史と文化、その中で培われてきた学校同和教育ではなく、A教師が、同和教育の先進地・兵庫県B市B中学校で教師をする中で身につけた同和教育の<知識>と<技術>です。

B中学校は、「校区に大きな被差別部落をもち、学校生徒の過半数が、地区の子どもたちでしめられている」中学校です。そこで、実践されている同和教育は、「寝た子を起こすな」式の教育ではなく、逆に、「寝た子を起こす」教育です。

被差別部落出身の中学生たちが、部落差別に負けず、部落差別と闘って、それを克服して生きていくことができるように、被差別部落出身であることを知らない中学生に、彼が被差別部落出身であることを知らせ、被差別部落出身の中学生にリンクさせ、部落解放の担い手として育てていく・・・、そういう教育が採用されていたと思われます。

「寝た子を起こす」教育は、山口以外の都道府県で、同和教育を学んだことのある教師によって、山口の同和教育の世界に導入されていきます。同和教育の<後進地>である山口県においては、彼らによって、<先進地>の同和教育を移植する試みがなされるのです。

兵庫県のB市立B中学校で、その<先進地>の同和教育の知識と技術を身につけて、山口の地に帰郷し、山口県の同和教育指定校になったA市立A中学校に着任したA教諭は、中学1年生のクラス担任になります。

1学期の期末試験が終わったある日、A教諭は、被差別部落出身のCさんと成績のことについて面接するのです。「一対一の席」で、A教諭は、Cさんにこう話しかけるのです。

「どこに住んでいるか、知っているか」

Cさんは、A教諭が、「被差別部落に住んでいることを自覚しているのか・・・」と尋ねられたと思って、頷きます。すると、A教諭は、ためらいの思いをもって頷くCさんに、更にこのように言ったといいます。

「お前の住んでいる所は部落だ。結婚はむずかしいぞ」。

A教諭の同和教育上の「部落民告知」という技法は、山口県以外の同和教育の<先進地>で同和教育を実践した経験のある教師によって、同和教育の先鋭的技術として、同和教育の<後進地>と認識された山口県の学校同和教育に適用されることになるのですが、兵庫県B市立B中学校と、山口県A市立A中学校とでは、同和教育が推進される、文化的・歴史的環境がまったく異なります。兵庫県B市立B中学校は、「過半数」が被差別部落出身の子どもたちであるのと比べて、山口県A市立A中学校は、被差別部落出身の子どもたちは、クラスの中の極めて少数者に過ぎません。

被差別部落出身の中学生たちに、「部落民告知」を行うにしても、学校教師によって、あえて「部落民告知」された子どもたちが、そのことで受ける衝撃の大きさと内容は、かなり違ったものになります。

中学1年生の1学期の成績に関する面接で、Cさんは、「突然、担任の教師から・・・「お前は、部落民だ。」と告知されるのです。しかも、成績とは何の関係もない、「結婚はむずかしいぞ」という言葉を付け加えて・・・。

中学1年生・・・、13歳のCさんは、A教諭の、同和教育の先進地・兵庫県B市立B中学校で身につけた先鋭的同和教育を実施されて、胸を突き刺されます。「家に帰った彼女は、泣きながら、母親に事実を伝えた・・・」といいます。

Cさんからその話を聞いた、Cさんのおかあさんは、「憤り」を覚え、Cさんのクラス担任のA教諭に抗議しようとしますが、Cさんは、おかあさんに「口止めをした」といいます。「これが表面化すると、学校でいやなめに合いそうで、つらい・・・」というのが理由です。

しかし、憤りを抑えられず、Cさんのおかあさんは、「地区の役員」にそのことを知らせます。「地区の役員」は、CさんとCさんのおかあさんに代わって、A市立A中学校の校長・同和主任に抗議します。そして、A中学校校長は、Cさんの住む被差別部落の隣保館で「地区の役員」にあい「謝罪」をします。

A教諭は、校長にそのことを聞かれて、「そんなことを言ったおぼえがない」と答えたといいます。

A教諭は、<記憶にない・・・>ということで、問題の責任は、A教諭の側ではなく、A教師が、「お前は、部落民だ」「結婚はむずかしいぞ」と言ったという、<ウソ>の証言をするCさんの方に問題がある・・・、とその責任を転嫁してしまうのです。

Cさんは、2学期・3学期と、A教諭に対する信頼感を失って、こころに傷をもちつつ、中学1年生を過ごすのです。

筆者、相次いで発生する、山口県の学校同和教育・社会同和教育での差別事件の「確認会」・「糾弾会」に、<第三者>として、<日本基督教団の牧師>として陪席させてもらったことがありますが、その中で、山口県の学校同和教育においては、同和教育主任ですら、その中学校の被差別部落出身のこどもの名前を知らされていない・・・、ということが繰り返し確認されていました。知っているのは、中学校校長のみ・・・。

しかし、A教諭は、Cさんに、単刀直入に、「お前は、部落民だ」と言ったといいます。

A教諭は、A中学校の校長しか知らないはずの、地区出身の子どもの名前を知っていたということになります。A教諭は、同和教育指定校であるA中学校の同和教育の中で、<先進地>の同和教育の知識と技術を持つ存在として、特別な評価を得ていたのでしょう。A教師をもっとも信頼していたのは、A中学校教師であったのかもしれません。国立山口大学教育学部の教授をしているA教諭の父親の「業績」が、そのことを可能にしたのかもしれません。

この事件・・・、結局、A教諭の管理者であるA中学校校長によって、握りつぶされ、事件の真相解明に至ることはありませんでした。

しかし、この事件・・・、中学1年生のCさんには、こころに深い傷を残し、教え子Cさんのこころに深い傷を残した担任のA教諭は、ある<確信>を持つにいたります。同和教育における<失言>に対して、被差別部落の側から抗議があっても、<知らぬ、存ぜぬ、記憶なし>を言い張ればうやむやにできるという・・・(筆者の推測に過ぎませんが・・・)。

教育上、用意周到に計画された「部落民告知」でないと、<似非・部落民告知>は、差別発言に堕してしまいます。

A教諭の被差別部落出身の子どもたちに対する差別発言・差別行為は、これだけで終わりませんでした。・・・、そして、それは、やがて、「某中学校教師差別事件」に発展していきます。

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