2021/10/01

教育界における、ある中学校教師の評価

教育界における、ある中学校教師の評価

問題の差別事件は、1980年12月10日、山口県A市立A中学校で起きました。その差別事件の当事者となったA中学校教諭A氏は、どのような人物であったのか・・・。

戦前戦後を通じて、学校教育の現場は、時として、部落差別事件の現場になりました。今回、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の方々が作成した『論文と資料』にもとづいて、A中学校教諭A氏の差別事件を検証していきたいと思いますが、この差別事件・・・、全国的にみますと、決して特異な事例ではありません。

日本全国、同和教育が実践されていた学校教育の現場で起こり得た事例です。

筆者、日本基督教団西中国教区の小さな教会に赴任すると共に、組織されたばかりの、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員に、西中国教区総会において指名されました。当時の部落差別問題特別委員会の委員長・宗像基牧師は、筆者に、「具体的に被差別部落に入って取り組むをするように・・・」指示していました。

といっても、筆者、部落差別問題あるいは同和問題については、ほとんど門外漢にひとしく、自らの意志で被差別部落に入っていって、部落解放運動に参加する・・・、内的要因をまったく持ちあわせていませんでした。

しかし、筆者が牧師をする教会を事務所にして、山谷の日雇労働者の闘いを描いた映画『やられたらやりかえせ』の映画上映運動をしていたとき、映画を鑑賞に来てくださった、部落解放同盟新南陽支部の方々との出会いが与えられました。そのときから、今日に至るまで、筆者、その部落解放同盟新南陽支部の方々と交流を続けています。

今回、とりあげる、「ある中学校教師による差別事件」をとりあげた『論文と資料』は、かなり早い時期に、部落解放同盟新南陽支部の、現在の部落史研究会の方々から、その複写をいただいたものです。

「ある中学校教師による差別事件」も、教育界における他の差別事件同様、「差別事件」としての認識すら十分もたれることなく、「差別事件」ではなく、「同和教育の熱意ある実践者」の単なる「失言事件」として闇から闇へ葬り去られて行きました。

しかし、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座から考えるに、その、山口県A市立A中学校で起きた教諭A氏による「差別事件」・・・、その背景には、山口県における学校同和教育の組織的体質があります。否、山口県だけではなく、他の都道府県の学校同和教育が何であったのかを物語る側面を持ちあわていると考えています。

「ある中学校教師による差別事件」の「差別事件」を具体的にとりあげる前に、教育界において、A中学校教諭A氏が、どのように評価される人物であったのか、確認しておきたいと思います。

A中学校教諭Aは、1947年生まれ。

筆者は、1948年生まれの団塊第一世代ですが、もしかしたらA氏も同世代・同学年であったかもしれません。小中高及び大学において、「同和教育」なるものを正式に受けた可能性のほとんどない世代に属します。A教諭の最終学歴となった、国立山口大学教育学部のカリキュラムに同和教育が取り入れられたのが1977年ですから・・・。

A中学校A教師は、山口県B市出身です。彼の父は、国立山口大学教育学部の教授です。その<口利き>は、山口県の教育界に大きな力を持っていたといわれています。当時、「教員免許さえとれば、あとはなんとかなる・・・」とささやかれていた<コネ採用>が横行していた山口県の中学校教師にならなかったのか、分かりませんが、彼は、卒業と同時に、兵庫県の中学校教師として採用されます。任地は、兵庫県B市B中学校・・・。

『論文と資料』によりますと、兵庫県B市B中学校についてこのように説明されています。

「この学校は、校区に大きな被差別部落をもち、学校生徒の過半数が地区の子どもたちでしめられている状態であった。その地区では、全国的に・・・部落大衆が差別から目覚め立ち上がる動きをうけて、地区大衆自らが立ち上がっていた。それを背景にして、B中学校は全校あげて同和教育に取組みつつある状態であった」。

後に、山口県のA市立A中学校の教諭になるA氏は、「そこで、はじめて・・・同和教育(解放教育)の目標と実践にふれた」といいます。「子どもたち自らがかかえていた現実(非行・長欠・低学力等をふくめたもの)と差別に立ち向う子どもたち自身の姿にもふれた」といいます。

A中学校教諭A氏は、山口県内の小中高・大学などで知り得なかった同和教育の生きた実践事例を、兵庫県B市B中学校で学んでいったと言われます。「差別の事実、実態の中で苦悩し立ち上がる地区大衆の動き。子どもが抱えている現実にぶつかり、家庭を知り、地域を知り、家庭訪問にあけくれながら、子どもたちの成長につき合い続けようとする教師たちの反応、動き。そして行政(教育行政も含めて)施策の動き等」。

同和教育の先進地の兵庫県B市B中学校で、3年間教諭として勤務し、同和教育の理念と実践を経験した教諭A氏は、1973年山口に帰郷、同和教育の実績を携えて、山口県A市において、同和教育の取り組みが開始された1976年の次の年、A教諭は、A市A中学校に赴任するのです。

A市A中学校は、1976年、山口県の同和教育指定校になります。A教諭が、A中学校に赴任した1977年、A中学校には「同和加配教諭」が配置されます。

しかし、注意しなければならないのは、山口県のおける「同和加配教諭」は、他の都道府県と「同和加配教諭」とちがって、その枠に、被差別部落出身の教師が優先的に割り当てられたというわけではないのです。「同和加配」という制度をつかって、A中学校の教師がひとり増えた・・・、という意味でしかないのです。しかも、「同和加配教諭」の指導科目も特別指定はありませんし、「同和加配教諭」として採用された教諭は、自分自身が「同和加配教諭」である・・・、ということを知らされませんので、「同和加配教諭」としての意識はほとんど皆無です。

その中で、A中学校にA教諭は、「技術」の教師として採用されたにもかかわらず、「理科」の教師として、同和教育指定校のA中学校で教鞭をとることになるのです。

筆者が、山口県の小中高の教育関係者から聞いた話しでは、山口県において、「同和教育」の担当者になることは、「教育界における立身出世の最短の道・・・」であるとの共通認識があったということですが、A教諭が、「同和教育に熱意をもって」かかわっていた動機がなんであったのか・・・、『論文と資料』の中には言及されていません。

A市A中学校A教諭が、同和教育推進校で、同和教育に熱心にかかわっていた背景には、A教諭の、同和教育の先進地である兵庫県B市B中学校で学習し吸収した「同和教育の知識」と、自分の息子を、山口県の教育界の中枢へと後押しする、山口大学教育学部教授である「父親の業績」が存在していた・・・、と思われます。

筆者、同時期の類例を多々知っています。ある場合は、教諭本人から聞かされて・・・。

山口県教育委員会・A市教育委員会・A中学校校長・・・、彼らのA教諭に対する評価は、絶大なものがあります。「同和教育の熱意ある実践者」「同和教育の推進者」・・・。A中学校校長は、A教諭は、「この先生は、新採以来、同和教育に対しては熱心に勉強している。本校でも、3年生の同和教育研究会の授業研究も率先して引き受けたことが証明するように、校内でも同和教育に対し熱意を持っている。」と絶賛します。

その「同和教育の熱意ある実践者」であるA教諭が、なぜ、「同和教育の中で差別教育を行った」として、被差別部落の側から指摘されるようになったのか・・・、同和教育・人権教育をかかげる学校教師たちによって、<同和教育という名目の中で行われる差別教育>・・・、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からとりあげてみましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...