2021/10/01

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界 3

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その3)


『水平社の原像』の著者・朝治武氏は、「水平運動史研究」にかかわるときの「基本的姿勢」を、「部落問題に向き合うに際して避けて通ることのできない基礎的概念を再検討し、その意味を具体的かつ深く豊かに理解する」ことに見いだします。

「基礎的概念を再検討」する・・・。

それが何を意味しているのか、無学歴・無資格の筆者の推測では、従来、「水平運動史研究」において使用されてきた基本的な諸概念の「定義」内容の検証、あるいは、「再定義」を示唆されているのではないかと思われます。

およそ、学問的研究においては、そこで使用される基本的な概念は、学者・研究者・教育者によって自覚的に定義され、その意味内容が確定されるのが常です。

ただ、同じ教育者といっても、大学等の高等教育機関における教育者と違って、小中高の教育機関においては、教師によって、生徒に指導される教育内容は、文部科学省の指定する学習指導要領によって規定され、それを実践する教師には、その学習指導要領に準拠して指導することが求められます。

つまり、小中高の教育機関における指導内容は、文部科学省によって規定されている・・・、ということです。

もし、社会・歴史を指導する教師が、指導内容を、文部科学省の指定する学習指導要領から逸脱した内容を指導するようなことがあれば、「偏向教育」とのそしりを受けることになるでしょう。同じ概念を使用していても、それを指導する教師が、その概念を再定義して、異なる意味内容で教えるとしたら、やはり、公教育に携わる者の姿勢とモラルが問われることになるでしょう。

『部落学序説』の筆者としては、それも、「学問的自由」の制限・・・として認識していますが、「学習指導要領」の世界においては、そこで使用される概念は、文部科学省が推奨あるいは認定した概念を踏襲することになります。

しかし、大学等の高等教育機関においては、その学者・研究者・教育者には、「学問的自由」が大幅に認められています。むしろ、大学等の高等教育機関においては、その「学問的自由」を駆使して、真実を明らかにして、世の中に貢献することが求められます。そこでは、使用される概念の定義は、学者・研究者・教育者の良識にゆだねられます。

『水平社の原像』の著者・朝治武氏が、その論文の執筆に際して、「基礎的概念を再検討」することを明言されるのは、当然といえば当然すぎることです。

朝治武氏は、「基礎的概念を再検討」するとき、知的ツールとして論理学を援用します。その論理学に従って、「基礎的概念」の既存の定義内容の検証と、場合によっては、再定義を遂行することになるのですが、朝治武氏は、「論理学」だの「定義」だのという言葉については一度も使用していません。

朝治武氏は、やさしい言葉で表現していますが、その実質は、「論理学」的な、精密な「定義」を実行されているのです。その著『水平社の原像』は、論理学的な「定義」を実行した結果、従来の既存の「水平社運動史研究」の成果と異なる、あるいは、それを凌駕する研究成果に達したのでしょう。

朝治武氏は、『水平社の原像』の「序にかえて」に、次の言葉を付け加えています。

「水平運動」と「水平社運動」

この表現は、朝治武氏が、「水平運動」という概念と「水平社運動」という概念の定義史を踏まえながら、再定義して、「水平社運動」という概念を破棄し、「水平運動」という概念を選択したことを示しています。「水平運動」という概念を選択したときの、朝治武氏の思い入れの強さは、「水平運動に<すべきである>」という言葉にみられます。

朝治武氏は、なぜ、その著書『水平社の源流』の冒頭で、彼が、「水平社運動史研究」の「基礎的概念」としてとりあげる「水平運動」・「水平社運動」という概念の定義に関してとりあげたのでしょうか・・・。

その定義は、有閑階級・知識階級の、単なる言葉の遊びではなく、『水平社の源流』の全体を、その読者にどのように理解してほしいか・・・、朝治武氏の思いがこめられているのでしょう。定義の内容は、朝治武氏のとって、『水平社の源流』という論文の端緒であり目的でもあるのです。

しかし、朝治武氏は、その見解が、すべての読者に受け入れられる・・・、とは想定していないようです。

「興味がない者にとってはどうでもいいこと・・・」という雰囲気があります。

論理学や定義法について関心のない人々にとっては、朝治武氏が『水平社の源流』の冒頭で記されている「基礎的概念」の定義については、単なる机上の知的遊戯であって、評価するに価しない・・・、と考えられるかもしれませんし、多種多様な解釈が存在するのであるから、あれかこれか、「水平運動」か「水平社運動」か・・・、を議論すること、「言葉をさぐることは意味がないことである・・・」と切り捨てられるかもしれません。

「はたまた意味があっても素通りされ・・・」てしまうかもしれません。

しかし、朝治武氏は、従来の「水平運動研究史」上、ほとんどかえりみられないか、無視されてきた研究主題に対する探求をすすめていくとき、彼の「水平運動研究史」にとって避けることのできない「基本的概念」である「水平運動」・「水平」・「水平社」について、その概念の定義内容を「明確にする必要」があるといいます。

それは、単なる言葉の定義の問題ではなく、「水平運動史研究にとって重要な論点」と密接に関連しえていると考えられるからです。

論文執筆に際して使用される「基礎的概念」をどのように定義するかは、その概念を用いて執筆される論文の内容を大きく規定することになります。

朝治武氏は、「水平社運動」という概念を退け、「水平運動」という概念を採用する理由として、①「水平運動史研究」上の史的分析結果、②この概念に「慣れ親しんでいる」という主観的側面、③「全国水平社創立とその精神を生かした運動を重視する」という客観的側面をとりあげています。

朝治武氏は、その「あとがき」でこのように記しています。

「本書では副題を「部落・差別・解放・運動・組織・人間」とした。これは、水平運動史を理解することは「部落・差別・解放・運動・組織・人間」という部落問題に向き合うに際して避けて通ることができない基礎的概念を再検討し、その意味を具体的かつ深く豊かに理解することにつながる・・・」。

朝治武氏が、「基本的概念」の検証と再定義にこだわられるのは、一般説・通説・俗説と異なる彼「独自の問題意識と一貫した視点」から、「水平社や水平運動の最も基本的な全体像を描こうとしたため」であると言われます。

『部落学序説』の読者の中には、筆者の「水平社宣言批判」の諸文章は、「水平社の研究がどんどんすすめられて新しい研究成果が打ち出されているにもかかわらず、それを無視して、古い文献のみに依拠して都合のいい論理を展開している・・・」というような趣旨の批判をされる方がおられますが、無学歴・無資格の筆者は、そして、「部落史研究」の専門家ではない筆者は、朝治武氏がいわれる「水平運動史研究」がどの程度すすめられ、その著『水平社の源流』がどのように評価されているかはほとんど寡聞にして知りません。

ただ、『部落学序説』の読者の方で、筆者に文献を提供してくださる日本文化史の研究者の方、東洋史の研究者の方、あるいは、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々から、そのような、あたらしい研究がある・・・、というふうには聞いていませんし、朝治武著『水平社の源流』を凌駕する論文ないし論文集が、世に埋もれる形で、あるいは、部落史研究者の学的世界でのみ流通しているとも想定しにくいので、筆者は、朝治武著『水平社の源流』を筆者のクリティークの対象にしている次第です。

朝治武氏曰く、「はたして描かれた歴史は実像なのか、それとも言説で構築されたものなのか・・・」。『水平社の源流』で明らかにされたことが、歴史の事実を反映しているのか、それとも机上の空論に過ぎないのか・・・。

すべての研究は、よりよい研究の途上にあります。<途上>であることをもって<研究>を否定することは、<研究>のいとなみそのものを否定することになります。

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