2021/10/02

警察の近代化と旧穢多

 警察の近代化と旧穢多

(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その3)

明治新政府によって、「徳川追討」をすすめる中、明治元年(1868)3月14日、「挙国一致」・「諸政一致」(『山口県警察史』)を図るために、「国是確立の綱領」(由井正臣)である『五カ条の御誓文』が宣布されます。

閏4月21日には、「五カ条の御誓文を制度的に具体化した」(由井)『政体書』が公布されます。この『政体書』は、明治新政府の「政治の組織および形態の原則」(『警察史』)を明らかにしたもので、「従来の官制を大幅に改革するものであった」(由井)といわれます。

『政体書』は、明治政府による「中央集権権力創出」(由井)を目的に公布されたもので、その特徴として次の点があげられます。

1.明治新政府の「最高機関」として「太政官」を設置し、「国家権力を太政官に集中すること」(由井)。
2.その権力を、「立法・行政・司法」の「3権に分立すること」(由井)。「立法」機関としては「議政官」、「行政」機関としては、「行政・神祇官・会計・軍務・外国の5官」(『警察史』)、「司法」機関としては、「刑法官」が設置されたこと。
3.「官等を定め、官吏公選制を採用」したこと。
4.「各藩の領主権に制限を加え、中央政府の統制下」においたこと(由井)。

この改革で特筆すべきことは、「人事面」において、その上級官僚に、「薩長土肥の実力者」である「藩士層が大幅に登用」されたことです。「木戸孝允・小松帯刀・大久保利通・広沢真臣・後藤象二郎・福岡孝弟・副島種臣・横井小楠・由利公正・西郷隆盛・神山郡廉・板垣退助・大隈重信・岩下方平・大木喬任」(由井)等です。彼らは、「朝臣としてその身分的地位を保障され、新政府の実権を握りつつあった・・・」(由井)のです。この改革は、「士族」中心の国家体制であり、「庶人」が「徴士」として官職につくことは「貴賢」のみ可能なことであって、ほとんどの「庶人」は最初から排除されていて、極めて「強い身分制原理が貫徹」されたものでした。

この改革において、「警察」機構は、「軍防事務局」から「軍務官」に、「刑法事務局」は「刑法官」に改組されていきます。

明治2年7月8日、「大宝令の制にならった第三次の官制大改革が行われて2官6省となり」、さきの7官制における「刑法官」は「刑部省」に、「軍務官」は「兵部省」に改組されます。「兵部省」は、「東京府下をはじめ、地方の警備や凶徒の鎮圧など治安警察を担当」します。また、「刑部省」は、「犯罪の捜査、犯人の検察」等の「司法警察」を担当します。この時期の「近代警察」は、「軍隊と警察は密接不可分の関係にあった」といわれます。

明治2年5月22日、「治安警察」・「司法警察」の他に、「法ヲ執リ、律ヲ守リ、天下ノ非違ヲ糾弾」するための機関として、「弾正台」が設置されます。この弾正台の任務は、「維新後の混沌として時代にあって、新政府に不満を抱く不平士族による全国的な政治的陰謀が跡を絶たなかったため、これらの摘発を主な任務とする、いわゆる政治警察」でした。

『山口県警察史』は、この「弾正台」をさして、「第3の中央警察機関」と称しています。

筆者は、近世幕藩体制かの司法・警察の継承として、「刑部省」を「第1の中央警察機関」と呼び、明治維新前後の特殊な状況から生じる「治安警察」としての「兵部省」を「第2の中央警察機関」と呼ぶことにしました。

つまり、明治新政府の「警察機関」は、近世幕藩体制下の司法・警察の継承者としての「司法警察」に、明治の中央集権国家建設のために必要とされた、「治安警察」・「政治警察」が付加されたものです。

明治新政府の「第3の中央警察機関」である「弾正台」は、明治新政府に対して、「反政府活動」をするものに対して「糾弾」を行う機関でした。この「糾弾」・・・、という言葉は、水平社運動の中で、「特殊部落民」の「運動の方法」として採用された「糾弾」とまったく同じ意味の言葉です。

「弾正台」は、全国の府藩県の「警察掛」に命じて、「末端の探索」を実施させます。「弾正台」は、約2年間、「政治警察」として、明治新政府に対して、「反政府活動」をするものを探索・糾弾・監察していくのです。

この時期の地方の「警察」は、まったく、近世幕藩体制下の司法・警察機関がそのまま任務にあたっていましたから、全国の「穢多非人等」は、従来の「司法警察」の職務の他に、この「政治警察」の職務を押しつけられたものと思われます。「反政府活動」をするものを探索・糾弾することは、「軍事」に携わる「非常民」(藩士)のよくするところではなく、司法・警察に従事していた「非常民」(同心・目明し・穢多・非人等)の、専門的知識と技術をもった集団の独断場であったからです。

「穢多」と「糾弾」の結びつきは、中世の時代に遡って確認することができるほど、両概念は密接な関係があります。「穢多」あっての「糾弾」であり、「糾弾」あっての「穢多」であるといっていいほど、両者の間には密接な関係がありました。明治新政府下の「警察」は、「政治警察」だけでなく、「宗教警察」(キリシタン弾圧機関)の機能ももっていましたが、当然、「穢多非人等」は、「キリシタン狩」に「宗教警察」として動員され、その探索・糾弾にあたっていたと思われます。

徳川幕府初期の「キリシタン弾圧」・・・、幕府は、その弾圧にともなう、残虐・悲惨・恐怖を伴う暗いイメージを、払拭し、近世幕藩体制下の人民に受け入れられる司法・警察のあり方を模索し続けましたが、明治新政府は、かつての、残虐・悲惨・恐怖を人民に想起させるような形で、キリシタン弾圧政策をとり、かってと同じように、地方の司法・警察であった「穢多非人等」に対しても、「キリシタン狩」、つまり、キリシタンの探索・探偵・糾弾を職務して強要したのです。

明治初期の警察システムにおいても、「穢多非人等」は、「みじめで、あわれで、気の毒な」、「差別され抑圧された」民などではなく、自他ともに認める「司法警察」官であったのです。明治初期の民衆は、「穢多非人等」に付与された「宗教警察」としての職務、「探索」・「探偵」・「密偵」・「糾弾」を、極度に警戒せざるを得ない状況に置かれていたと思われます。明治新政府に対するちょっとした失言で、捕縛され糾弾される可能性を否定できなかったからです。

明治4年、一般的に「解放令」といわれる太政官布告第488号・489号が出されて、突如、「穢多非人等」の身分・職業が平民と同様にされますが、当時の多くの民衆は、その太政官布告を文字通りに信じることはできなかったのではないかと思います。彼らの大半は、近世から近代への過渡期に、新しき時代になじまないものとして、旧司法・警察身分から解放されたのではなく、「政治警察」・「宗教警察」という、民衆にとっては、残虐・悲惨・恐怖を伴う暗いイメージのつきまとう、末端の警察機関の担い手として「放逐」されたのですから・・・。

民衆は、明治4年の太政官布告によって、風呂屋・散髪屋で、世間話で話したことが、いつ、彼らの耳に入って、摘発され、糾弾を受けないとも限らない状況に置かれます。なぜなら、民衆を探索・探偵・糾弾する末端警察機関としての「旧穢多非人等」は、近世幕藩体制下のように、民衆の「外」側に「非常民」として存在していたのではなく、民衆の「内」側に「元非常民」として存在するようになるのですから、民衆の生活は、著しく阻害されることになります。

民衆は、「穢多非人等」をその社会から排除しようとしたのは、彼らが、「みじめで、あわれで、気の毒な」、「差別され抑圧された」民・「賤民」であったからではなく、自他ともに認める「司法警察」・「政治警察」(「宗教警察」を含む)であったからです。

明治4年7月9日、明治新政府は、「第1の中央警察機関」の継承者として、「司法省」を設置するとともに、「第2の中央警察機関」・「第3の中央警察機関」を廃止します。

そのとき、「第2の中央警察機関」・「第3の中央警察機関」の「治安警察」・「政治警察」の機能は廃止されたのではなく、「第1の中央警察機関」の継承者である「司法省」に統一され、「司法省」は、司法警察・治安警察・政治警察(宗教警察)の「すべての警察機能」を具備するに至るのです。

「こうして、わが国の警察制度は、明治初期の時代から脱皮して、司法警察の時代へと転換していくのである」(『山口県警察史』)といわれますが、筆者は、幕末期の司法・警察である「非常民」とは異なり、「司法警察」にとどまらず、「治安警察」・「政治警察」をも併せ持つ、民衆の反政府活動を探索・糾弾する機関・民衆弾圧の機関として、「脱皮」してく過程であったとも思わされます。

明治4年7月の「中央警察機関」としての「司法省」は、「近代警察」概念の「外延」と「内包」を確定する作業をしていきます。「近代警察」の「警察官」とは誰なのか・・・。「近代警察」の「外延」について、激しい論争があったように思われます。ひとつは、「旧穢多非人等」を「近代警察」機関の要員として組み込むという主張です。もうひとつは、「旧穢多非人等」を「近代警察」から排除するという主張です。

明治4年の廃藩置県から、「明治6年の政変」までの間、このふたつの考え方は紆余曲折を経ながら、「明治6年の政変」によって、「政治的決着」がはかられます。しかし、この「政治的決着」は、明治新政府内部の権力闘争的面がつよく、「旧穢多非人等」をめぐる問題は、この決着によってさらに混迷を深めていったように思われます。(続)

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