2021/10/02

警察の近代化の闇・・・

 警察の近代化の闇・・・

(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その4)

歴史は常に勝者の立場から書かれている。だがそれは、後になってからでも正しく検証されねばならない(井口富夫著『会津と長州と 企業人の見た権力者の横顔』)。

廃藩置県直前の明治4年7月9日、明治新政府は、第2、第3の中央警察機関の「兵部省」・「弾正台」の治安警察・政治警察機能を、第1の中央警察機関たる司法警察である「刑部省」に集中させて「司法省」を設置します。

この「司法省」は、司法警察・治安警察・政治警察を統合し、「全国警察権を掌握することになった」(『警察』)のです。近代中央集権国家創立にふさわしい警察制度を具備するにいたったと考えられます。

そして、明治4年7月14日、廃藩置県が断行されます。それまでは、「旧来の藩はほぼそのまま県となり、3府302県が成立したが、その年11月には大統合が行われて3府72県となり、その後、数度の統廃合が行われ、3府43県に確定したのは1888(明治21)年になってからである。」といわれます(由井正臣)。

司法省設立後も、地方行政の「統廃合」と「再編成」が繰り返されるのです。その都度、地方警察もまた、地方行政の「統廃合」と「再編成」に相前後して「統廃合」と「再編成」を余儀なくされたと想定されるのですが、それらをここに追跡・確認することは、時間・財力・能力ともに、無学歴・無資格の筆者のよしとするところではありません。

明治新政府は、廃藩置県後の8月10日、「官制等級を改定」します。「その例言において、太政官と諸省との関係について、「太政官是ヲ本官トシ諸省是ヲ分官トス、寮司ハ官省ノ支官タリ」とし・・・上下関係を明確にした」(由井)といわれます。問題は、大蔵省の権限に、「地方ノ警邏」が含まれていたことです。

明治新政府の中央においては、「司法警察」・「治安警察」・「政治警察」の「統廃合」と「再編成」がなされたとはいえ、地方においては、その司法・警察制度は、司法省の手になく、大蔵省の管轄下にありました。

当時の司法省の権限は、「権限は弱小」であり、司法省の司法・警察の及ぶ範囲は、「東京府下のみであり、それ以外の地では、従来どおり大蔵省監督下の地方官(府県)」(毛利敏彦)が司法・警察権を掌握していたといわれます。つまり、「行政庁である府県が、同時に司法権行使の主体でもあった」(毛利)のです。これは、明治新政府が、その地方行政において、近世幕藩体制下の司法・警察機構をそのまま踏襲していたことに他なりません。『明治六年政変』の著者・毛利敏彦は、当時の地方の司法・警察は「錯雑混乱」した状態であったといいます。

明治5年4月25日、江藤新平が初代司法卿に就任することによって、江藤新平は、「近代国家にふさわしい司法権を確立すること」(毛利)に集中します。江藤は、「それまで不振で影の薄い存在だった司法省の様相」(同)を一変させたといいます。

江藤は、「司法省の方針を示すの書」を発表します。

「「訟を断ずる、敏捷、便利、公直。獄を断ずる、明白、至当にて冤枉(無実の罪)なく、且つ姦悪をなす者は、必ず捕らえて折断、敢て逃るるを得ざらしむ。是を本省の職掌とす」と延べ、公正にして迅速・簡易な裁判と社会正義の実現とが司法省の使命であると明快に宣言した。」(毛利)といいます。

8月3日には、「22章108条からなる大部の「司法職務定制」が制定」され、「警察制度」についても「詳細に規定」されます。

「江藤が何よりも排除しようとしたのは、方法の誤用による人権の侵害(冤枉、枉屈)であった。」といわれます。

明治5年8月28日、「司法省警保寮」が設置され、10月には、「職制及び章程」が制定されます。警保寮章程2条において、「警保寮ヲ置クノ趣旨ハ国中ヲ安静ナラシメ人民ノ健康ヲ保護スル為ニシテ安静健康ヲ妨グル者ヲ予防スルニアリ」と規定します。

司法省に警保寮が出されて以降、「警察制度も全国的統一の方向に向かい・・・急速に体制の整備がなされるようになった。」といわれます(『警察』)。しかし、警察史通説の見解と違って、「警察権」をめぐる、地方の「地方官」(大蔵省管轄下)と「裁判所」(司法省管轄下)との対立、中央における「大蔵省と司法省の対立」が存在し続けたといわれます。

「明治6年政変」の背景には、この「誰が警察権を掌握するか」、「近代警察の質をどのようなものにするか」・・・という、明治新政府内部での権力抗争があったようです。「政局は思わぬ方向に複雑化」していきます。

「明治6年政変」で、「明治政府首脳は大分裂し、閣僚の半数は野に下った。」(毛利)のです。初代司法卿・江藤新平は、「警察権」をめぐる抗争の相手であった大蔵省関係の官僚によって捕縛・糾弾(拷問)され、「除族」(身分剥奪)の上、「斬首梟首という極刑」に処せられたといいます。

打倒江藤新平に執念を燃やしていた大久保利通は、政敵に勝利したという「勝者の優越感を露骨に」、その日記に、「江藤醜躰笑止なり」と記したといいます(毛利)。

大久保利通は、政変後の明治6年11月10日内務省が設置され、その29日大久保利通は内務卿に就任します。そして翌年の1月9日「内務省警保寮」を設置、「司法省警保寮」を廃止、その警察権を「内務省警保寮」に移管させます。大久保利通は、「警察組織の統括者」として先鞭をつけるのです。

「司法省警保寮」から「内務省警保寮」への警察権の移管・・・。それは、単なる名称変更や明治新政府の内部の権力抗争にともなう警察権の移管にとどまるものではなく、近代中央集権国家の「近代警察」の質を決める「闘争」でもあったのです。

内務省警保寮についてこのような定義がなされます。「人民ノ凶害ヲ予防シ其権利ヲ保守シ其健康ヲ看護シテ営業ニ安ンジ生命ヲ保全セシムル等行政警察ニ属スル一切ノ事務ヲ管理スル所」。上記の司法省警保寮の定義と比較するとすぐにわかるのですが、内務省警保寮の定義は、司法省警保寮の定義を一見継承しているように見えながら、実は、それを大きく制限するものになっています。「行政警察」という言葉はそのことを示します。

「司法省警保寮」から「内務省警保寮」への移管、それは、「近代警察」が、「司法警察」から「行政警察」への移行を鮮明にした瞬間でもあったのです。「近代警察」は、行政から独立した司法に属する機関としてではなく、行政と密接に結びついた権力機関として出発することになったのです。「内務省警保寮」は、それ以降、薩摩・長州の門閥・派閥の直属の警察機関として、「行政警察を一手に掌握して国内治安対策を講じていく」(由井)のです。

明治6年政変後の明治政府は、薩摩・長州の旧藩閥による権利の拡大と利権の拡張を求めて、その政敵の排除を「内務省警保寮」という警察機関を通じて実現していくのです。法的逸脱をしたり、明治最初の疑獄事件を起こした長州藩閥を超法規的に免罪したりしていくのです。

毛利敏彦は、「山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山形有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直・・・と、汚職・不祥事を続出させていた長州藩は、政変のおかげで罪跡をうやむやにできて、没落寸前の淵から這い上がることに成功した・・・」といいます。「法治主義の番人をもって任じていた司法省」の卓越した人材を犠牲にして、否、近代日本の「法治主義」を犠牲にして・・・。

中央での「警察権」をめぐる政争は、地方の「警察」機関にも大きな影響を残します。「近代警察」概念の外延と内包は、「警察権」の「司法省警保寮」から「内務省警保寮」への移管にともなって大きく変容させられます。

「部落学」の創始者である、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一は、その「近代初期の警察と差別の構造」において、「1872(明治5)年には内務省警保寮が管轄し・・・」と、「司法省警保寮」を「内務省警保寮」に置き換え、川元の歴史観から、「司法省警保寮」を視野の外に追いやっています。

その結果、川元は、「被差別者の切り捨て」の背後にあった政治的葛藤を見失ってしまうのです。無学歴・無資格の筆者と違って、学歴も資格も持っている川元は、当然そのことを認識しつつ、意図的に「司法省警保寮」とその施策を削除したとも考えられます。(続)

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