2021/10/02

穢多と言語と誇りと・・・

穢多と言語と誇りと・・・


「誇りうる人間の血は、涸れずにあった」。

水平社宣言の1節です。このことばに出てくる「誇り」とは何だったのでしょう。

筆者は、『水平社宣言』を過剰評価することはありません。水平社宣言は、様々な矛盾と破れを内蔵しています。水平社宣言は、それが持っている歴史的価値を再検証する必要があります。「検証」とは、従来の価値判断に追従することなく、学問的に、その歴史的意味を問い直すことを意味します。問い直すことによって、既成概念を承認することもあれば、否定することもあります。

筆者は、『部落学序説』第5章において、「水平社宣言批判」を展開するときに、「水平社」とその運動について、従来の既存の説とは、かなり異なる説を展開することになるでしょう。それは、全面否定でも、全面肯定でもなく、歴史資料と、長年に渡って蓄積されてきた歴史学者の研究論文の比較研究によって達成されます。筆者は、「水平社宣言」をみなおすことで、それを根拠に、『部落学序説』第6章において、「同和対策審議会答申批判」を展開します。

水平社宣言の「誇り」ということばは、「人間」にかかるのか、「血」にかかるのか・・・、中学生の国文法レベルで発想してみますと、発想した瞬間、戸惑ってしまいます。「誇りうる人間」、「誇りうる・・・血」。水平社宣言は、「人間」を誇っているのか、「血」を誇っているのか・・・。これは、1例に過ぎませんが、水平社宣言は、ひとことひとことを精査していくと、解釈にあいまいさがあることに気付かされます。

しかも、『忘れさられた西光万吉 現代の部落「問題」再考』の著者・吉田智弥によると、水平社宣言は、2つの資料の編集されたものです。浄土真宗僧侶の西光万吉が、最初から最後まで書き下ろしたものではなくて、複数の人によって執筆された文書の複合体であるというのです。筆者は、吉田智弥説は、水平社宣言の解釈に彩りを添えるもので、部落史の見直しにとって、きわめて有益な研究成果であると思っています。

吉田智弥は、『水平社の原像』(解放出版社)の著者・朝治武の説を紹介しながら、上記の「誇りうる人間の血は、涸れずにあった。」ということばは、西光万吉の手になることばではない・・・といいます。「誇り」ということばの真意を理解するためには、学問的な手続きが必要なようです。それは後日触れることにして、「誇りうる人間」、「誇りうる・・・血」ということばについて、いままで多くの人々が解釈を積み重ねてきていますので、筆者は、アド・ホック(作業上の間に合わせのことば)として、「誇りうる存在」ということばを採用することにします。

当時の福島県の「旧穢多」の末裔・栃木重吉は、「新平民のこの俺は、深い<人間生存>の道について悩まずにはいられなかった」と述懐していますが、栃木重吉のいう<人間生存>ということばを、簡略化して<存在>と呼ぶことにしたわけですが、栃木重吉によると、「社会」は、栃木重吉の<存在>を「冷遇」するといいます。貧困と無学歴は、その「冷遇」に拍車をくわえます。筆者は、栃木重吉は、水平社運動に、彼の「旧穢多」の生きる試行錯誤、苦悩を乗り越えて、<存在>の否定ではなく、<存在>の肯定の理論を携えて、それを、「水平社宣言」の文言の中に組み込んだのではないかと考えています。「穢多の子らよ、みずからを卑しめるな、うなじをあげて、その存在に誇りをもって、生きよ・・・」、栃木重吉は、そのような思いをこのことばに託したのではないかと、筆者は推測するのです。

「旧穢多」の末裔をして、その<存在>の「誇り」を感じさせてきたものは何か・・・。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話を耳にしたときから、「旧穢多」の末裔が、「誇り」をもって生き抜いてきたその要因とは何なのか考えるようになりましたが、徳山市立図書館で史料を探索していたある日、筆者のなぞに答えを与えてくれるような資料が、筆者の手元に舞い込んできたのです。

それを持ち込んでくれたのは、部落解放同盟元新南陽支部の書記、現在部落史研究会の座長をされている福岡秀章氏でした。その資料には、「旧穢多」の末裔が、「人間としての誇り」を失うことなく生きてきた要因がなんであるかが記されていました。

その資料は、『隠語について』という表題が付されたもので、長州藩萩城下の穢多町の「穢多」の「末裔」である、ある古老が執筆したものでした。わずか10ページ足らずの短い文章ですが、その文章の冒頭にこのようなことばが記されていました。

「専制政治の幕藩時代は勿論
明治以降における 今日の政治政権下
官憲の圧迫一般民衆の迫害
喜び 悲しみ 憤り 恐怖に曝されながらも
尚私共部落民は人間としての 誇りを失わんが為の糧である」

萩城下の穢多町の末裔である古老は、「人間としての誇り」を失うことから免れさせたのは、「ことば」・「言語」であったというのです。被差別部落固有のことば・言語が、「旧穢多」が、近世幕藩体制下の「穢多」であったことの誇りを忘れさせなかったというのです。

京都府宇治郡山科の「旧穢多村」の小学校教師が、その生徒から、体罰をもってしても取り除こうとした「転訛」・「ことば」・「言語」を、萩城下の穢多町の末裔である古老は、「人間としての誇りを失わんが為の<糧>」であったというのです。ここから、推測できることは、「旧穢多」のこどもに「通語」を教えようとして小学校教師が失敗したのは、その転訛(ことば・言語)が、「旧穢多」の親と子にとって、その存在と深く結びついていたからではなかったかということです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」として、法の下で、その職務(役務)に誇りを持って従事してきた「穢多・非人」の歴史を刻み込む、彼ら固有の「ことば」・「言語」は、明治以降、近代中央集権国家建設のため、その組織を解体され、その職を解雇されたとはいえ、彼らの旧「穢多・非人」としての精神的支柱を構成したのではないかと思います。「旧穢多」に対して浅薄な発想と理解しか持ちえなかった、京都府宇治郡山科の小学校教師にとっては、永遠に理解することができない類の話なのかもしれません。

「旧穢多」の歴史を忘れさせず、その誇りを、今日の時代においても伝えさせているもの、それは、「旧穢多」の歴史をきざむ「旧穢多」の言語だったのです。

長州藩萩城下の穢多町の「穢多」の末裔が伝承してきた「ことば」・「言語」を列挙してみましょう。

「ビリタ・ジヨゥセ・モクセ・フケタ・アオクナ・アオイタ・ハナエル・ホヤク・バレ・シクタレ・キンマル・スリコ・ヒンタ・コゥヒン・ネス・ゲソ・ツナゲ・ツナガレン・ハクイ・グスネタ・アオク・カマッタ・ヒツジカイ・ガチ・ギタ・ゲンサイ・デシ・ハマン・ギラレタ・リョウマル・カマレ・テンゴ・コゥシク・ハム・デテン・ガリ・エラ・グラマカス・オシカネー・ビラ・オノケ・ゲンゴ・キス・オビイ・サンショウ・ズカン・アオタ・アゲタ・ズイトル・・・」

古老の『隠語について』という文章には、それらのことばの詳しい説明が掲載されています。その説明を読みながら、筆者は、それらのことばは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」がその職務を遂行するときに使用した、司法・警察関係者のみに通用する「隠語」であると判断しました。被疑者・容疑者には、その会話をさとられないで、「穢多・非人」間だけで通用する「業界用語」ではないかと思います。

萩城下の穢多町の末裔である古老がいう「人間としての誇りを失わんが為の糧」としてのことばは、「穢多」の先祖たちが、「非常・民」としての誇り高き職務についていたときに使用したことばでもあったのです。

萩城下の「穢多町」の「穢多」は、自らのことを「コゥシク」と呼んだそうです。「穢多」の自称語といってもいいかもしれません。筆者の推測では、「郷夙」の訛ったものではないかと思います。「郷の夙」、つまり、「村境を守る番人」の意。萩城下のはずれにあって、萩城下に出入りする人々を監視していた街道の「衛手」(エタ)を指していたのではないかと推測します。山口県の小さな教会に赴任して20数年、「被差別部落」のひとびとが、自らのことを「コゥシク」と呼んでいる場面に遭遇したことは一度もありません。

自らを「コゥシク」と呼ぶ「穢多」は、いかなる御法度も犯していない、「農・工・商」を指して、「リョウマル」(良の字を○で囲んだもの)と呼んでいました。

古老は、『隠語について』の最後に、「今尚この様な言葉を用いなければ生きていけない人間が居ることを理解して欲しい。」と結んでありました。「被差別部落」の名前(実名)を添えて・・・・。

古老は、萩の「被差別部落」の若い人々に対してこのように話すことが多いといいます。「サンショウもズカンのか」と。「サンショウ」(近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の隠語)も「ズカン」(知らない)のか・・・。そのことばには、「穢多」の、本当の歴史が忘れられていくことへの古老のさびしさが込められているように思われます。

「旧穢多村」の住人にとっては、「よそもの」でしかなかった、京都府宇治郡山科の小学校教師は、「通語」をおしえるのみに汲々としていて、「転訛」の陰に隠れた、「穢多」の「人間としての誇り」につながる「隠語」(警察用語)の存在に気がつかなかったのかもしれません。筆者は、日本全国の「旧穢多村」は、長州藩の「穢多町」や「穢多村」と同じ、固有の言語的特徴がその記憶の中に刻印されているのではないかと思います。『壬申戸籍』や『地名総鑑』より、より強力に刻印された、「旧穢多」のしるしが・・・。

中江兆民の「新民世界」の文章に対して、ことばの「転訛」を捉えて、「旧穢多」の人種起源説的説明をする漁客に対して、兆民は、漁客に対して、「頑冥不霊の人」と断じ、「おおよそ人を正さんと欲せば、まずみずから正さざるべからず。・・・漁客請、慣習の悪鬼に捕捉玩弄せられざらんことを。」と激しく抗議しています。この論争のあった明治22年、「旧穢多」の「人種起源説」は萌芽の段階にあったとはいえ、日本人民の「良識」をもってすれば、現代の部落差別に直結するような差別を雑草のごとく、蔓延させないですんだかもしれないと、筆者は思わされるのです。「人種起源説」を捏造していった歴史学者・教育者・運動家・政治家は、「犯罪的」であるとさえ考えさせられるのです。

*疲れたので校正しないでアップします。

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