2021/10/02

明治5年学制頒布当時の『被仰出書』

明治5年学制頒布当時の『被仰出書』


『部落学序説』の重要な資料にひとつに、山川菊枝著『わが住む村』(岩波文庫)があります。

この書は、山川菊枝が、日本の民俗学の父である柳田國男から、当時山川が住んでいた鎌倉郡村岡村のことを書いてみたらすすめられたことに端を発します。いわば、山川菊枝は、民俗学者・柳田國男の弟子であると言ってもよいでしょう。

山川は、柳田國男のすすめに従って、「眼前の事物つまり現象を取っ掛かりとして、だんだんにその奥にひそむ原理を解きあかしてゆくという方法」(狩野政直)を採用します。山川は、「私は知る知らぬを問わず、誰でも彼でも勝手に先生に見立てて、知りたいこと、分からないことは片はしから教わることにしました」といいますが、「聞き取り調査」を徹底して行います。

狩野政直は、『わが住む村』を評して、このようにいいます。「著者の住む村岡村、文中の表現を借りれば、「昔の東海道の南側の村で、藤沢の宿場を出はずれたところ、松並木を2里足らず東へ行けば戸塚」という場所に、カメラを据えっぱなしにして、遠い過去から現在へと歴史を、いわば接写で撮った作品となっている」。

筆者は、山川菊枝の「民俗学研究法」から、大きな影響を受けています。山川菊枝も、柳田國男の研究にならって、「常民」を研究します。しかし、山川自身は、『部落学序説』でいう「常・民」ではなく、「非常・民」に属します。山川は、「非常・民」でありながら、その研究方法を駆使して、「常・民」の世界を研究していきます。つまり、山川は、「常・民」・「非常・民」の両方の立場を視野にいれながら、民俗学的調査・執筆をすることができたわけで、「常・民」・「非常・民」を考察する上で、その研究は、筆者にとっては重要な資料のひとつです。

明治5年8月の学制頒布が出されたあと、各地で急速に小学校が建設されていきます。明治6年6月の「讃岐の徴兵反対一揆」に際して、一揆勢によって、襲撃・放火・破毀された小学校は48に及びますが、1年もたたない間に、それらの小学校が設立されたと見ることができます。

山川菊枝が聞き取り調査をした鎌倉郡村岡村での、小学校建設はどのようにすすめられたのでしょうか。山川は、村岡村では、明治5年8月の学制頒布の布告が出されたあとも、近世幕藩体制下から継承されてきた「寺子屋」が続けられていたといいます。村岡村に、「ささやかな小学校ができる」のは「明治10年」のことです。しかも、開校時、生徒となったのは50人程度。山川は、「現在の土着戸数と就学年齢の児童との割合から当時を推定すると、就学したものは約1割」であったといいます。『被仰出書』は、「男女の別なく」就学をすすめているが、女児は、「大家の娘ばかりでごく少数」であったといいます。「旧穢多村」だけでなく、「旧百姓」の小学校就学も極めて低調であったようです。

『被仰出書』とは、何だったのでしょう。明治政府は、「日本の学校教育を欧米流の近代的な形に組織するために・・・公布した、学校制度に関する最初の総合的な規定」である「学制」(公布当初は全109章から構成、公布直後から改正・追加が繰り返され最終的には213章にまとめられる)の「序文」として作成されたもので、「学制序文」とも言われます。

本当なら、『学制』にすべて目を通してから言及しなければならないのでしょうが、時間的ゆとりがありませんので、筆者の手元にある資料だけで論述していきます。この『被仰出書』において、小学校建設の目的はどのように認識されているのでしょうか。『被仰出書』は、「学校ノ設アル所以」として、「人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル」ために「学」が必要であることと説いています。「学問ハ身ヲ立ルノ財本共云フベキ者ニシテ、人タル者誰カ学バズシテ可ナランヤ」といい、家が破産し、飢餓に陥り、浮浪のみとなり、身を持ち崩すのは、「畢竟不学ヨリシテカカル過チヲ生ズルナリ」と断定します。

要するに、『被仰出書』のいわんとすることは、「学制」は、日本人民の自立のための国の支援である・・・、ということです。明治政府の「学制」制定の目的は、ひとえに日本人民のためにあるというのです。

『被仰出書』の中核は、次の文章です。「学制ヲ定メ、追々教則ヲモ改正シ布告ニ及ブベキニツキ、自今一般ノ人民(華士族農工商及婦女子)、必ズ邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」。明治政府は、地方行政に対して、「辺隅小民ニ至ル迄洩レザル様便宜」を図ることを命じています。

明治政府による小学校建設の目的と、小学校建設の時間的猶予を考慮するとき、「讃岐の徴兵反対一揆」に際して、小学校48校が襲撃・放火・破毀した「旧百姓」の側の理由は、理解できないものになってしまいます。「血税」という文字の誤解だけでなく、小学校襲撃事件に関しても、明治政府の方針を誤解した「旧百姓」の側の落ち度によって、小学校襲撃事件が発生したことになります。

「讃岐の徴兵反対一揆」が、明治政府の近代化・欧米化政策に対する「旧百姓」の反対を主な理由にするとしても、讃岐の「旧百姓」が、自分たちの費用で、一端、小学校を建設したあと、襲撃・放火・破毀した、納得できる理由とはなりません。明治政府の、「日本の学校教育を欧米流の近代的な形に組織するために」学制に反対したというなら、讃岐の「旧百姓」は、小学校を建設すること、それ自体に反対行動をとったのではないかと思うのです。

筆者は、明治政府の『被仰出書』の表向きの意図とは別に、明治政府の隠された意図が、讃岐の「旧百姓」にしられるところとなったことが、「旧百姓」の心血を注いで作った小学校48校の襲撃・放火・破毀に「旧百姓」を走らせたのではないかと思います。

明治政府の『被仰出書』の背後にある、隠された意図について、少しく検証を重ねてみましょう。

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