2021/10/02

小学校炎上・・・

小学校炎上・・・


上杉聡は、その論文《新段階をむかえた「解放令」反対一揆研究》(『明治初年解放令反対一揆』明石書店)の中で、明治6年5月に、岡山(北条県)、明治6年6月に、福岡(福岡県)、香川(名東県)において、「部落解放反対」を叫ぶ「旧百姓」によって、小学校が「放火」、「焼毀」されたことを指摘しています。

小学校は、こどもにとって、欠かすことができない生活の場所ですが、なぜ、明治4~6年の、上杉が指摘する「部落解放反対」一揆において、小学校が多数、襲撃され、放火、焼毀されなければならなかったのでしょうか。

筆者は、関連文書に目を通してみて思うのですが、「部落解放反対騒擾」(上杉の言葉)と、常軌を逸した小学校の襲撃、放火、焼毀事件との直接的な連関に、かなり疑問の思いを持ちます。そもそも、上記3つの一揆を、「部落解放反対騒擾」として認識していいのかどうか疑問があります。上記3つの一揆にともなう、小学校の襲撃、放火、焼毀事件は、「部落解放反対」というよりは、「明治新政府反対」の文脈の中で生じたできごとではないかと思っています。

小学校炎上・・・。

筆者はそういう場面を見たことはありませんが、それに類した経験があります。それは、筆者が、小学校に入学する前の年のことです。筆者が入学することになっていた小学校、琴浦町立琴浦西小学校が、火事で焼失するというできごとがありました。

夜、消防のサイレンがけたたましくなり、町内の消防団も出動していきました。筆者がすんでいるところから小学校まで2キロほど離れていましたが、暗い夜空の中、小学校がある北東の方角が明るくなり、そちらの方から、火の粉が飛んでくるのです。

町内のおじさんもおばさんも、みんな、通りに出て、小学校のある方の空を見上げています。近所のおばさんは、「あなたたちが入学する小学校が燃えているんよ・・・」といいます。小学生の女の子たちは、「おばさん、ほんまか? うちらの小学校燃えてなくなるんか?」といったり、「うち、そんなのいややわ」と泣きだす子も出てきます。

「いつまでたっても消えんな・・・。若いの、ちょっといって見てきてくれんか・・・」というおじいさんの声に促されて、数人の男のひとたちが駆け出しました。

「小学校が火事で燃えてしまったら、校長先生も責任とって辞めんといかんようになるな・・・」とだれかがぽつり。すると、おばさんのひとりが、「そら、気のどくやな。みんなで、署名集めて、校長先生辞めんでええようにしてあげよ・・・」といいます。「坂田校長先生、みんなのために一生懸命働いてくれてるからな・・・」ということで、飛んでくる火の粉を見ながら、小学校の校長先生が引き続き校長にとどまることができるように嘆願運動の相談がはじまってしまいました。そのせいかどうか知りませんが、筆者の小学校6年間、校長はずっと、坂田校長先生でした。小学校の入学式の坂田校長の訓示は忘れてしまいましたが、卒業式の訓示はいまだに覚えています。60歳に手がとどこうという年齢になっても、その訓示を忘れないでいます。坂田校長先生は、余程みんなに好かれていたのでしょう。筆者は、その火事で、誰よりも先に校長先生の名前を覚えました。

筆者は、他の子供たちと一緒に、焼け落ちた小学校を見に行ったことはありませんが、翌年、入学するときには、もう、琴浦西小学校は、新しい校舎になっていました。

小学校炎上・・・。

その言葉を目にするとき、筆者の脳裏を去来するのは、こどものころに体験した、小学校が焼けた事件です。上杉聡の「明治初年の部落解放反対騒擾年表」の小学校の襲撃、放火、焼毀事件を見ても、火事の発生件数までは記されていません。

その事件はどのようなものであったのか、知ろうとしても、筆者のてもとには十分なまとまった資料があるわけではありません。しかたなく、手元にある資料の中から、関連記事を抽出して総合的に判断する以外に方法はありません。

さいわい、岩波近代思想大系『民衆運動』の中に、「讃岐の徴兵反対一揆」に関する史料が集録されていました。この史料は、明治6年6月に起こった「讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡で、徴兵告諭のなかに「血税」という文字があるのに疑惑をいだき、暴動状態になった」事件を書き記したものです。

この史料に記載された、小学校、襲撃、放火、焼毀事件を拾い集めてみましょう。

「明治6年・・・6月26日午後10時・・・72区73区の・・・小学校・・・を焚き・・・27日午前6時、86区小学校を放火し・・・同8時・・・和田浜・・・学校・・・を放火す。同時、85区姫浜小学校・・・を焚き、・・・午後2時、78区・・・学校・・・放火、類焼合わせて18戸に及ぶ。同2時、74区三野郡新名村・・・学校・・・を焚き、・・・箱浦へ移り・・・該所学校(香蔵寺)を焚く・・・午後4時、栗島へ渡り・・・学校(梵音寺)を焚く。・・・77区詫間村へ・・・同6時、70区・・・学校を焚き・・・夜に入て56区・・・学校一時に放火し・・・所在放火炎焔天を焦がし・・・那珂郡に於て放火す。・・・学校・・・」。

小学校の襲撃、放火、焼毀事件は、翌日も続きます。記録によると、この一揆で、実に48の小学校が、襲撃、放火、焼毀されたのです。上杉聡のいう、「部落解放反対騒擾」は、想像を絶する大惨事を引き起こしていたのです。

「讃岐の徴兵反対一揆」は、小学校の襲撃、放火、焼毀にとどまりません。区の事務所・邏卒屯所・戸長家宅・村吏家宅・祠官家宅・士族家宅・・・等々、計595箇所が、一揆勢の「旧百姓」によって、襲撃・放火・破毀・類焼されているのです(放火504箇所、破毀23箇所、類焼72箇所)。わずか数日の間に、香川県内に、「新政府反対一揆のすさまじい勢い」によって、明治新政府の代行機関としての地方行政関連機関が一揆打ち壊しの対象になっていったのです。

最近の部落史研究では、これらの一揆を、「新政府反対一揆」としてではなく、「部落解放反対一揆」あるいは「部落解放反対騒擾」として認識する傾向がありますが、これら、48校の小学校襲撃事件と、「部落解放反対」とは、どのような関係があるというのでしょうか・・・。筆者は、両者を結びつけるのは非常に難しいと考えます。「部落解放反対」のために、「旧百姓」が、できたばかりの小学校48校を自らの手で襲撃、放火、焼毀したとは、とても考えることはできないのです。

岩波近代思想大系『民衆運動』の解説者のひとり、深谷克己は、その論文《世直し一揆と新政府反対一揆》の中で、近世幕藩体制下の百姓一揆と、明治に入ってからの新政府反対一揆を分析して、両者はその性質を著しく異にするといいます。深谷は、近世の百姓一揆をこのように説明します。「近世の百姓一揆にともなう打ちこわしの作法は、微塵に打ち壊すということであって、その現場に残された微塵ぶりこそが民衆の怒りの度合いの表現方法なのである。百姓一揆でも焼討ちを呼号することはあるが、それはあくまでも脅かしとしての、それだけに抜かれざる伝家の宝刀としての圧力を持ち続けてきた。」といいます。そして、深谷は、「明治にはいると、それは威嚇の手段から、実行される手段になった」というのです。

深谷がいう、「威嚇の手段」から「実行される手段」への移行は、近世幕藩体制下の「旧百姓」より、近代中央集権国家の「平民」の方が、国家権力による賦役と収奪により曝されたことを意味します。「新政府反対一揆」は、明治新政府に抱いていた夢が打ち破られ、幻想でしかなかったことを知った「旧百姓」がその存在をかけて、明治新政府に抗議したできごとだったのです。明治新政府にとっても、大きな政治的挫折であった、これらのできごとは、事実に反して、歴史上過少評価されていきます。明治4年から6年の新政府反対一揆を、「部落解放反対一揆」として矮小化してしまうことは、本当の歴史を喪失してしまうことに結果することになるでしょう。すべての原因を負うことになる「旧穢多」にとって、はなはだ迷惑であるだけでなく、「旧百姓」にっとも極めて迷惑な話になります。明治新政府の施策に否をつきつけた「旧百姓」の権力との戦い(明治新政府の末端機関としての地方行政に対する戦い)が闇から闇に葬りさられてしまうことにつながりますから・・・。

明治6年6月、讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡で起こった、徴兵告諭に端を発する、小学校48校の襲撃、放火、焼毀事件の本当の意味は何だったのでしょうか。

深谷はこのように綴ります。「この一揆は、小学校48を焼討ちしている。「学校を厭ひ」と当時の記録に書かれたが、それ以前の民衆社会はすでに読み書き算盤の習得をけっして拒まない状態になっていた。しかし、新政の学校運営は住民の負担が大きく、常時子供を学校に通わせ、それも男女すべての子供を通わせるというもので、幕末の学習の仕方とはなお距離が大きく、きっかけがあれば破壊をともなう反発を引き出す」可能性があったといいます。深谷は、一揆に参加した「旧百姓」は、小学校運営に伴う「経済的負担」に大きな原因があるというのです。

しかし、深谷の説は、即、矛盾を抱え込むことになります。それほど、経済的負担が重すぎて、文字通り、「旧百姓」が心血を注いで、自分たちの手で作り上げた小学校なら、なぜ、その経済的犠牲を反古にするように、自らの手で放火し、焼毀に及んだのでしょうか。近世幕藩体制下の百姓一揆のように、「微塵に打ちこわした」のではありません。放火し、焼毀し、小学校そのものの存在を否定しようとしたのです。深谷の「学校運営費の住民の負担の重さ」が原因とする説明では、ことがらの本質を説明しきっているとは言えません。

『部落学序説』の筆者である私は、この場面においても、「常民・非常民」理論を適用します。

讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡の「旧百姓」たちは、「徴兵告諭」が公布さあれたことによって、明治の新しい時代に入って、自分たちが「平民」とされた本当の意味を知ることになったのです。近世幕藩体制下の「旧百姓」は、近世だけでなく、中世末期においても、人を殺戮する武器を返上して、軍事・警察の賦役から解放され、「農・工・商」の民事にのみ関与する存在でした。徳川300年間において、軍事・警察に関与することのない「常の民」・「常・民」・「常民」として生き続けてきたのです。ところが、明治新政府は、王政復古を約束したにもかかわらず、次から次へと、近代化政策・欧米化政策を打ち出します。日本の美風である「常民・非常民」の別を廃棄し、「国民皆兵」の制を実施し、すべての成人男性を「非常民」化しようとします。なぜ、「旧百姓」が「旧武士」(軍人)や「旧穢多」(警察)のように「非常・民」とならなければならないのか・・・、その激しい抵抗が、「讃岐の徴兵反対一揆」に発展したのではないかと思います。

その一揆の中で、「旧武士」、「旧穢多」、「旧村役人」等、「非常・民」の家宅が襲撃されているのです。どこをとっても、明治6年6月の讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡の「旧百姓」による一揆は、「新政府反対一揆」・「徴兵反対一揆」であって、明治新政府に対する「旧百姓」による激しい抵抗なのです。いたずらに、「部落解放反対一揆」として矮小化すべきではありません。明治6年6月の讃岐の一揆は、たとえ、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出されなかったとしても、必然的に一揆として発展せざるを得なかったと推測せざるを得ないからです。

明治新政府が出した「学制」反対の風潮は、なぜ短期間に醸しだされていったのでしょうか(次回、検証します)。

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