2021/10/02

こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」

こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」


こどもの目・・・

高校生のとき読んだニーチェの本の中に、「人間は、15歳の少年の熱心さ(精神)を取り戻したとき本当の大人になる。」という意味の言葉がありました。

どの本のどの箇所にあった言葉なのか、忘れて久しくなりますが、ときどき、ニーチェのこの言葉を思い出しては、本当の大人になろうとしているかどうか、自問自答します。

15歳というのは、ニーチェによると、人生の大切なことがらのすべてのことを知る時代であるといいます。そのときを境にして、人間は、徐々に、人生にとって大切なことを忘れて行ってしまう・・・、というのです。

昔、15歳は元服の年で、こどもの世界に別れを告げて、大人の世界に入る年です。すべてのこどもが、元服を境に、大人に相応しい言動を要求されます。もちろん、こどもから大人へ、世代の壁を乗り越えるとき、ひとそれぞれ、さまざまな課題に挑戦しなければならなくなります。乗り越えることができる壁もあれば、乗り越えることができず、破れ傷つき、その壁の前で呻吟させられる場合もあります。しかし、遅かれ早かれ、ひとは、こども時代に別れを告げ、大人として生きる季節を迎えなければなりません。

しかし、大人の世界は、決して理想的な世界ではなくて、むしろ、理想からほど遠い現実があふれています。

大人の世界は、限りなく、悪しき病的社会を内包しています。必要以上の過当競争と弱肉強食社会の現実・・・。いつのまにか、大人の世界に、浸潤され、身も心も、こどものころの純粋さを失ってしまいます。こども時代の理想を退け、現実の中でうまく立ち回って、他者や隣人を踏みつけてでも、自己の利益追究に走りがちになります。他者から批判されないために、他者を批判し続けるひともいます。

そのような中にあって、ニーチェがいう、人間が本当の大人になるために、「15歳の少年の熱心さ(精神)」を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか・・・。

ニーチェがいうように、「人生のすべてを知ることになる」15歳は、突然とやってくるわけではありません。15歳は、徐々にやってくるのです。14歳、13歳、12歳・・・。どこまでおりると、こどもが、自分の人生を真剣に考えてはじめている年齢に到達することができるのでしょうか・・・。

「こどもは、こどもだよ。そんな、人生のことなど考えている子はいないよ。」、筆者の知っている教師はそのようにいいます。本当にそうでしょうか・・・。

最近、青少年の刑事事件が多々報道されます。そして凶悪犯罪が徐々に低年齢化していると杞憂する声があふれています。少年事件の低年齢化は、15歳、14歳、13歳、12歳・・・と、低年齢化をたどる一方です。

少年犯罪事件が発生するつど、現代青少年のこころの闇が問題にされます。現代の大人が、犯罪を犯した青少年のこころの中を覗き込むと、真っ暗な闇・・・だというのです。その闇が視野に入るとき、彼らはただ恐れおののき、問題解決に自信を喪失するのです。そして、常識的な「対象」にその原因を押しつけていきます。「その子を育てた母親が悪い・・・」、「父親が厳し過ぎた・・・」、「教育現場の腐敗・・・」、「文部行政の失策・・・」。しかし、もともと責任転嫁するだけの批判からは、問題解決にいたる生産的な知恵はでてきません。

昔、東京で牧師になるための勉強をしていたとき、ある1冊の文庫本を読んだことがあります。それは、岡真史の『ぼくは12歳』。12歳で自殺してしまったその男の子の手記を読んでいて、ちいさな胸に、大人の世界の矛盾や破れをすべて引き受けて、考えに考え、悩みになやんでいる「大人の姿」を見るような思いがしました。筆者はそのときから、精神的な大人の芽は、15歳よりもっとずっと前に育ちはじめていると認識するようになりました。そして、「こども」に接するときも「こども」としてではなく「おとな」として、敬意を持って接するようになりました。

それと同時に、こどもは、そのこどもが生きている社会の歴史や状況を色濃く反映しているとも認識するようになりました。社会が病んでいるから、こどもの世界にも病んだおとなの世界が浸潤してくる・・・。社会が、自らの病巣を取り除くすべを知っていたとしたら、こどもたちの世界にもそれはおのずと伝わっていくことになるでしょう。現代の社会は、大人の精神の破れや躓きが、そのまま、こどもの世界に波及することを許しているのです。

「こども」は、いつの時代にも存在しています。「こども」は、すべてのひとが通過することになる人生の季節です。その季節をどのように過ごすことができるか、それは、その子の人生に大きな影響を与えます。現代の東京は、百数十年前の歳月をさかのぼって、近代を超えて、近世幕藩体制下の時代に舞い戻っているようなところがあります。一部の富める特権階級と、その他の絶対的多数の貧しい階級とに、二分化される傾向にあります。小泉首相は、ひとごとのように、まるで日本の国の首相ではないかのように、「格差も必要」といいます。あえて「格差は必要」といわなくても格差は現実にあるのだから、その格差の是正の姿勢こそ、日本の首相が首相として発言しなければならないことがらなのではないでしょうか・・・。日本の政治から見落とされた「こども」は、その生涯においてさまざまな悲惨を抱え込むことになります。小泉首相の他人事、ひとごとのような政策は、確実に将来のこどもたちの悲惨、ひいては日本の社会の悲惨につながってきます。

この文章の題は、こどもの目から見た「穢多非人等ノ称廃止」・・・という題をつけました。近世幕藩体制から近代中央集権国家へ、そして、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」以前から以後へ、時代が大きく変わる中、さまざまな問題に直面したのは、大人の「穢多非人」だけではありませんでした。当時の、「旧穢多」のこどもであった人々も、「旧穢多」の大人と同じように、太政官布告第448・449号公布と、明治新政府反対一揆にともなう「旧百姓」による「旧穢多村」襲撃により、いろいろなことを経験させられているのです。中には、命すら奪われたこどもも存在しているのです。

この『部落学序説』第4章第8節は、そのような「こども」の視点・視角・視座に立って、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」と、それにともなう政治的混乱に注目してみたいと思うのです。

もちろん、筆者の手元には、幕末から明治初期の時代を生きていた「旧穢多」の末裔であった「こども」の書いた手記や資料が存在している訳ではありません。日本の歴史学会には、「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた」というのは、『エゾの歴史 北の人々と「日本」』の著者・海保嶺夫ですが、その当時の「こども」が、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」や、明治新政府反対一揆に付随して発生した「旧穢多村」襲撃殺害事件について、何の記録も残していないという理由で、その当時の「こども」とその時代との関わりを否定することは許されないのです。

「おとな」が社会から切り捨てられると、同時に、「こども」も社会から切り捨てられるのです。

小泉首相は、日本の大企業を救うために、国家財政から膨大な資金を銀行に注入し、銀行は自らを守ることに汲々として中小企業にまわるべき資金をストップし、多くの中小企業を廃業・倒産に追い込みました。そのようにして切り捨てられていった「おとな」たちの陰に、「こども」たちの陰が見え隠れしています。

明治4年の、「穢多非人等ノ称廃止」という太政官布告は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「役人」(公務員)が、国内問題・外交問題の都合によってリストラという切り捨て政策を実施されたしるしでした。それが、どのような事態を引き起こしていったのか・・・、それは、近代日本が実施した巨大な実験でした。

現代社会において、もし、同じようなこと(警察の解体・リストラ・民営化)を政府が実施したら、同じような差別を再生産することができるでしょう。市民にやさしいおまわりさんならともかく、日頃から威張って市民を威圧しているおまわりさんは、「元おまわり」になり、呼び捨てにされ、やがては、社会の下積みへと追いやられてしまうでしょう。筆者は、日本の社会の安定を考えるとき、「警察機構」の解体、リストラ、民営化はあってはならないことだと思います。もし、それを実施しようとするひとがいるなら、筆者はそのひとに「売国奴」とうレッテルを貼るようになるかもしれません。

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」という太政官布告によって、ほとんどの「旧穢多」は、「新しき綿服」を身にまとい、腰には「博多おり」の帯を締め、左腰には「黄鞘の脇差」し、右腰には、「黒緒巻柄に黒総」のついた「鉄刀」(十手のこと)を差した、「旧穢多」の晴れ姿(喜田川守貞著『近世風俗志(1)』(岩波文庫))を身にまとう機会を永遠に失うことになったのです(近代警察に吸収された「旧穢多」も少なくありませんが・・・)。旧身分あらため、「新百姓」となった「旧穢多」の「こども」たちは、リストラされ、その職を奪われた「おとな」と同じ運命を背負わされることになるのです。

降る雪や明治は遠くなりにけり・・・、という中村草田男の句ではありませんが、もう誰も、その当時の「こども」について、第一人称で語ることができるひとはいません。被差別部落出身者ですら、遠く、忘却のかなたに追いやってしまっていることでしょう。・・・それでは、その時代の「旧穢多」の「こども」たちの遭遇した時代を明らかにしようと思えば、私たちは、どうしたらいいのでしょうか。かすかに残された史料をもとに、「想像力」を働かせ、これまでの「部落学」の研究成果を踏まえて再構成する以外に他に方法はなさそうです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...