2021/10/02

 「賤民史観」と遊女3 「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言3

日本近代思想体系『差別の諸相』から、明治5年の太政官布告第295号と、その1週間後にだされた司法省布達第22号を転載します。

「太政官第295号、布告10月2日

一、人身ヲ売買致シ、終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ、人倫ニ背キ有マジキ事ニ付、古来制禁ノ処、従来年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住為致、其実売買同様ノ所業ニ至リ、以ノ外ノ事ニ付、自今可為厳禁事。
一、農工商ノ諸行習熟ノ為メ弟子奉公為致候儀ハ勝手ニ候得共、年限満7年ニ過グ可カラザル事。但双方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルベキ事。
一、平常ノ奉公人ハ1ヶ年宛タルベシ。尤奉公取続候者ハ証文可相改事。
一、娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致。右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事。
右之通被定候条、屹度可相守事」。

「司法省第22号 10月9日

本月2日太政官第295号ニテ被仰出候次第ニ付、左之件々可心得事。
一、人身ヲ売買スルハ古来ノ制禁ノ処、年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付、娼妓・芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス。故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上、其金額ヲ可取揚事。
一、同上ノ娼妓・芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラズ。人ヨリ牛馬ニ物ノ返済ヲ求ルノ理ナシ。故ニ従来同上ノ娼妓・芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ、一切債ルベカラザル事。但シ本月2日以来ノ分ハ此限ニアラズ。
一、人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓・芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ、其実際上則チ人身売買ニ付、従前今後可及厳重ノ処置事」。

部落史研究において、一般的・通俗的に「穢多解放令」・「部落解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・「賤民制廃止令」・・・と解釈される明治4年の太政官布告第448号・第449号の簡潔な文言と比べますと、明治5年の太政官布告第295号とそれに続く司法省布達第22号は、極めて長文の法令であるといえます。

太政官布告第295号において、「娼妓・芸妓などの年季奉公人を一切解放いたすべし」と明言されています。明治政府が出した法令の中で、身分・職業に関して、「解放」ということばが用いられたのはこの第295号のみです。

この布告は、「人身の権利」を失った者に対して、「人身の自由」を回復・保障するものであるとことから、この布告は、まさに、「解放令」そのものであるといえます。この「解放令」ということばは、皇国史観に基づいて、水平社運動の前後から使用されるようになったことばで、明治4年当時は、「穢多非人等ノ称廃止」に関する太政官布告は「解放令」とはみなされていなかったと考えられます。

つまり、「穢多非人等」は、当時、「人身の権利」・「人身の自由」を剥奪された存在であるとはつゆも考えられていなかったということを意味します。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多非人等」は、「人身の権利」・「人身の自由」を監視・制限する側に身を置いていたと思われます。

大日本帝国憲法(明治憲法)第23条に、「人身の自由」(伊藤博文著『憲法義解』)に関する条項がありますが、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多非人等」は、明治初年代にあっても、同じ「非常民」として「逮捕監禁審問処罰」をする側に身を置いていたと考えられます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の学者・研究者・教育者たちは、やがて、「特殊部落民」の解釈の中で、「人身の権利」・「人身の自由」を剥奪された遊女(娼妓・芸妓)等の属性をその歴史解釈の中に取り込んでいきます。「穢多非人等」と「遊女(娼妓・芸妓)」を「賤民」概念でくくることで、両者の属性を混同・融合して解釈するようになります。

その結果、「遊女(娼妓・芸妓)」の末裔が「穢多非人等」の末裔として錯覚したり、「穢多非人等」の末裔が「遊女(娼妓・芸妓)」の属性を自らの解釈の中に取り込んだりします。両概念が重複するのは、「芸妓」を「家職」として、「穢多」を「役務」として、探索・捕亡・糾弾に従事していた「女穢多」(今日的なことばでいえば、内偵に従事する女性警察官・女性刑事)の場合のみです。例外をのぞくと、「遊女(娼妓・芸妓)」と「穢多非人等」は、明確に峻別された存在だったのです。

被差別部落の女性の中には、「部落の人間が牛や馬よりもそれよりももっと以下に見られていた・・・」と告白するひともいますが、このことばは、明治後期以降の、「穢多」と「遊女」を同じ「賤民」とする「賤民史観」に大きく影響されているためでしょう。

司法省布達に、「娼妓・芸妓は人身の権利を失う者にて牛馬に異ならず」とありますが、その文言から太政官布告第295号・司法省布達第22号は、「芸娼妓解放令」・「遊女解放令」とよばれるだけでなく、「牛馬ときほどき令」といわれることもあります。

司法省布達の「娼妓・芸妓は人身の権利を失う者にて牛馬に異ならず」ということばは、「遊女解放令」を一片の布告として出すだけでなく、それを現実ならしめるために経済的措置を織り込むために使用された「方便」で、当時の明治政府・司法省が、「遊女(娼妓・芸妓)」の人間性を否定し、「牛馬に異ならず」と宣言したのではないことはいうまでもありません。

この太政官布告第295号を、「永年の因習と束縛から弱者の人権を回復すると高らかに宣言した」ものととらえ、「人権史上に特筆すべきものであった」と評価、また、太政官布告を、「具体的・積極的」たらしめるために出された司法省布達第22号について、「明快な社会的弱者の人権宣言」であり、「焦りにも似た人権確立への息吹が溢れている」と評価し、両布告・布達を「留守政府の開明性を示す栄光の記念碑だったといわねばならない。」と主張するのは、『明治6年政変』の著者・毛利敏彦です(牧英正著『人身売買』(岩波新書)に詳しい説明があるとか・・・)。

この、日本歴史上最初の人権宣言を出した江藤新平ひきいる当時の司法省は、大久保利通など、長州の汚職派閥を力でもって擁護しようとする勢力によって瓦解させられ、大久保利通という絶対的権力者の前で、その業績も否定されてしまいます。この太政官布告第395号と司法省布達第22号は、薩摩・長州派閥によって換骨奪胎され有名無実化されるとはいえ、明治政府が出した希有な、全世界に通じる「人権宣言」だったのではないでしょうか。

「賤民史観」によって、「遊女解放令」にまつわることば(「解放令」)は、やがて、「窃取」(広辞苑では「ひそかにぬすみ取ること」を意味します)されていきます。

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