2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その8 明治4年廃藩置県後の山口県警察

「旧穢多」の受容と排除 その8 明治4年廃藩置県後の山口県警察

明治4年7月14日、廃藩置県が実施され、明治政府は、近世幕藩体制を根底から破棄し、近代中央集権国家に相応しい歩みをはじめます。廃藩置県に基づき、近世幕藩体制下の旧身分制度は解体されることになり、明治4年8月28日の、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常・民」であった「穢多の類」に対して「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出されます。

そのとき、旧長州藩において、その「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告がどのように伝達されていったのか、公開されている史料で確認しますと、「穢多・非人・長吏・茶筅」に対して、「穢多・非人ノ称被廃、身分職業とも平民同様取扱ノ義、御沙汰ノ旨も有之候付早速相達、尤是迄之通妎方も有之候故、支配方之儀ハ追而可相達段及達置候・・・」という言葉に遭遇します。

この「指令」を読む限り、藩庁は、旧「穢多・非人・長吏・茶筅」に対して、明治4年8月28日の「穢多非人等ノ称廃止」によって、近世幕藩体制下の「身分」は廃止され、「身分」・「職業」は平民同様になったけれども、従来の「穢多非人等」が担ってきた従来の「役務」、司法・警察官としての職務については別の措置がとられるとの通達があったものと思われます。

旧「穢多・非人・長吏・茶筅」は、「宰判」支配に置かれ、「村役人」・「宮番」に対しても「盗賊捕へもの等之儀ハ、人撰を以召仕候様可有之事」という通達が出されます。

つまり、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多・非人・長吏・茶筅」・「村方役人・宮番」は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降も、司法・警察である「非常・民」として、専門的知識と技術を要する職務に携わり続けた・・・ということを意味します。

山口県下にあっては、旧「穢多・非人・長吏・茶筅」の廃止が法制度上通告されるのは、明治9年10月17日の、「右ハ自今相廃シ候ニ付、其旨当人ヘ申渡シ、印提灯等下ゲ渡シコレ有ル分ハ速ニ扱処へ引上ゲ破却致スベシ。」という通達にはじまります。しかし、このときも、完全な旧「穢多・非人・長吏・茶筅」の排除ではなく、例外規定が付与されています。「尤モ盗賊其他取締向ノ者、其他醵金ヲ以テ差シ置キ度キ村々コレ有リ、願出候ハバ詮議ヲ遂ゲ、当課ニ於テ人選ノ上上申出スベク候・・・」。

山口県下にあっては、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降、5年が経過する明治9年10月においても、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての、旧「穢多・非人・長吏・茶筅」・「村方役人・宮番」は必ずしも排除されていないのです。

部落学の祖・川元祥一は、その論文《近代初期の警察と差別の構造》の中で、明治7年4月24日の内務省の指令を引用したあと、「・・・このような経過をへて明治政府の決定が出され、長年続いた被差別者による番人(旧)の歴史や文化・技術が、名称もろとも日本近代警察の中から消されて行った・・・」と記していますが、歴史の真実は、川元の「期待」・「予期」に反して、「日本近代警察の中から消されて行った・・・」のではなく、「日本近代警察の中へと消えて行った・・・」とところにあると思われます。『山口県警察史』によると、「旧穢多」の近代警察システムへの「受容」・「吸収」が完了し、その他の「旧穢多」の「排除」が確定されるのは、明治30年代前半になります。

『部落学序説』の筆者としては、この流れを念頭にいれながら、明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降の山口県警察を図式化していきます。

図3は、江藤新平が初代司法卿に就任した直後の明治5年5月頃の山口県警察を図式化したもので


す。

『山口県警察史』によりますと、廃藩置県のあと明治政府は10月に「府県官制」(太政官第560号)を公布、11月に「県治条例」(太政官第623号)を制定します。

山口県は、県庁の事務を「庶務課・聴訟課・租税課・出納課の4課」として、前身の「聴訟局」を継承することになります。「全国に率先して藩機構の改革を行った・・・」山口県の状況が反映しているのかもしれませんが、「廃藩置県」・「穢多非人ノ称廃止」に関する太政官布告のあとの、「聴訟課」への機構改革はほとんど変化のないものでした。

「県治条例」(太政官第623号)によって、「全国各県に共通する聴訟課が設置され・・・裁判・警察・監獄事務を担当する」ことになるのですが、山口県は全国の他の県に先立って、司法・警察の近代化に着手していた・・・といえるでしょう。

明治4年12月頃の山口県「聴訟課の分掌は掌案・司鞫および庶務に分かれていた」といいます。「掌案」は裁判事務、「司鞫」は司法警察事務、少し遅れて設置された「徒場掛」は監獄事務を担当したといいます、また、県庁と下関と岩国に「糾弾所」(裁判所)が設置されます。「捕亡掛」は、廃藩置県以前の「聴訟局時代の捕縛方」に相当するもので、司法警察職務の直接執行機関のことです。しかし、この「捕亡掛」に任命されたのはわずか4名に過ぎません。この4名は、いまでいう「警察のキャリア」にあたります。

司法・警察の実際の現場でその職務を遂行するのは、郡・村に配置された出張所の打廻り・目明し・手先(穢多・茶筅)、村役人・宮番(番太)といわれます。明治4年12月、「打廻り役」が再雇傭され、明治5年5月には「聴訟課からの申請によって、出先機関である・・・出張所の目明・手先の免職および任命がみられ、・・・給与辞令が公布」されます。

『山口県警察史』はこのように記しています。「聴訟課の捕亡掛のもとに打廻り・目明・手先を置いたほか、地方村落には村役人や目明・手先・宮番(番太)の下部組織があって、ほとんど藩政時代の制度がそのまま踏襲されてきたようである」。

このことは、山口県の廃藩置県前後の司法・警察システムに大きな変更はなかったということを示唆しています。

明治4年の廃藩置県と「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告・・・、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」に属する目明・手先(穢多・茶筅)・宮番・非人等は、それをどのように受け止めたのでしょうか・・・。

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