2021/10/02

「旧穢多」の受容と排除 その12 続・明治期山口県警察と「旧穢多」

「旧穢多」の受容と排除 その12 続・明治期山口県警察と「旧穢多」

『山口県警察史』によりますと、明治10年8月、「巡査心得」と改称された「目明・手先」は、明治11年、「巡査心得」の前の「探偵雇」・「探偵下使雇」に戻されます。

そして、彼らに、山口県は、「現在の警察手帳にあたる身分証明書である」「印鑑」が交付されます。

「探偵の印鑑」は、「山口県探偵雇・探偵下使 氏名 ****」が記載され、「山口県第四課」の公印が押されています。

「当時の巡査は行政・司法両面の警察事務に関与したが、制服勤務が原則であって、捜査の内偵活動に支障をきたすこともあったので、私服で活動できる捜査専従員の配置を必要としたのであろう。「探偵掛」は警察署長の指揮を受け、「探偵下使雇」は各分署に配置され、巡査の指揮によって捜査補助者として犯罪捜査に従事した。そのころの人員・配置などについては明確な資料が見当たらないが、明治14年3月の『関口県令交迭事務引継書』によると、「探偵雇11人ヲ本署及ビ警察署ノ探偵用務ニ充テ、下使雇40人ヲ分署ニ配置シ、各地ノ探偵ニ従事セシム」とあり、大体この程度の陣容であったと思われる」。

『山口県警察史』はさらに続けて、「犯罪捜査における専務員制度は、警察官としてではなく、雇などの一般職員の中で発達していった・・・」と記しています。

明治14年頃、ニセの「探偵掛」・「探偵下使」・「探偵子分」などが横行し、「探偵の印鑑」を所持していないものは即刻捕縛するよう指示がだされています。「探偵雇」・「探偵下使雇」の中にも、「民間の事故を奇貨に、仲裁の報酬として金銭を取るものもある」との疑いもあり、もし、「探偵の印鑑」をもった上でそのような所業に走るものがあれば、「姓名を聞きただして警察署に密告せよ」という布達がだされています。

その後、「治罪法の制定」により、「捜査上の権限が巡査にあたえられる」ようになります。「山口県ではこれに対応するため「探偵専務巡査」を置くこととし、探偵雇を改めて巡査に採用」します。明治14年8月、山口県は、23名の「探偵専務巡査」を各部署に配置します。

その年、「探偵下使雇」は「全面的に廃止」されます。

明治15年3月、改正「警察署職制」において、「「巡査」は「署長及ビ警部・警部捕ノ指揮ヲ受ケ、内勤・外勤及ビ探偵ノ事務ニ従事ス」と定められ、「探偵専務が制度化」され、近世幕藩体制下の司法・警察の流れをくむ「探偵雇」は、近代山口県警察の正規の警察官として、山口県警察の中に吸収・同化されていきます。

この「探偵専務制度」(探偵専務巡査)は、「全国一律に規定された制度ではなく、各府県独自の判断で設けられた」そうです。

ということは、山口県の警察史だけでなく、その他の県においても、山口県の資料と同様の史料が存在し、各県の警察史の中で、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であった「穢多・非人等」が、近代中央集権国家の司法・警察システムの中に吸収・同化されていった過程を証明する記述がすでになされている可能性が多分にあります。

近世幕藩体制下の司法・警察に従事した「穢多・非人等」の「非常民」は、その職務である探偵・捕縛・糾弾の知識と技術、経験が評価された場合は、明治4年の廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告以降も、近代中央集権国家の警察システムの中に、あらためて採用され、同じ職務を担って生きていくことになったと思われます。時代の波に乗ることができず、近世幕藩体制下の「非常民」の負の部分を受け継いだ旧「穢多」は、その職務から追われることになったと思われます。それは、「部落学」の祖・川本祥一が指摘している「差別」が原因したものではありません。

「探偵専務巡査」が姿を消すのは、明治21年頃です。しかし、「探偵専務巡査」という存在の必要性は、全国的であったのでしょう。明治24年10月、「内務省は各府県に対して、次の訓令を発し、探偵専務巡査について特別任用の道を開」きます。

「本年9月、当省訓令第21号ヲ以テ、巡査採用規則相定メ候処、専ラ犯罪ノ探偵ノミニ従事セシムル巡査ハ試験ヲ要セズ、直ニ採用スルコトヲ得。但、本文ニヨリ採用シタル巡査ハ、定規ノ試験ヲ経ルニ非ザレバ他ノ職務ニ服セシムルコトヲ得ズ。右訓令ス。」

『山口県警察史』は、「このような特例が設けられた背景」として、次の3点を挙げています。

(1)そのころ各府県とも、正規の警察官以外に捜査の補助を命ずる慣行があり、これを全国的に規制する必要があったこと。
(2)行政警察規則のたてまえから、巡査は行政警察を主務として司法警察の捜査活動を副次的業務とする考え方が強く、犯罪捜査上の障害となっていたこと。
(3)犯罪の複雑化巧妙化につれて私服員による内偵活動の必要性が増大したが、そういう特殊技能を持った適任者の採用が困難であったこと。

明治7年当時の「警察官」の年齢から計算すると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、近世幕藩体制下300年間に渡って蓄積されてきた、探索・捕縛・糾弾の知識と技術、経験をもっていた人々は、30代・40代のベテランになっていたと思われます。

明治24年当時、彼らは、差別され排除されていたのではなくて、探索・捕縛・糾弾に関する「特殊技能を持った適任者」として、近代警察システムの中に「旧穢多」の末裔としての存在理由を確立していたのです。

明治30年、彼らは、「刑事巡査」として、近代警察システムの中核に組み込まれていきます。『山口県警察史』は、「それから70年後の今日においても、刑事掛の警察官の一般に「刑事」の代名詞で呼んでおり、このとき創設された名称が現在まで生き続けているのである。」と記述しています。

日本の近世・近代の司法・警察である「非常民」の検証を重ねていきますと、テレビのドラマによく登場してくるような「私服刑事」は、近世幕藩体制下の「穢多」の正統な継承者であると確信することができるようになります。旧「穢多」の伝統と歴史は、現在の警察官の中に受け継がれていっているといっても過言ではありません。

しかし、同和教育・部落解放教育の中で、この事実はほとんど触れられることはありません。なぜなのでしょうか・・・。部落差別完全解消への本当の手掛かりをかたわらに追いやり視野から遠ざけている状況では、どんなに融和事業・同和事業を展開しても何の解決にもつながりません。

そもそも融和事業・同和事業は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」という間違った認識に基づいています。『部落学序説』の批判対象は、「賤民史観」であり、それを解体することこそ、部落差別完全解消につながる・・・と、繰り返し主張してきましたが、『部落学序説』の視点・視角・視座からみますと、部落解放同盟もそれを批判する日本共産党をはじめとする勢力も、また、どの運動団体・政党・研究者・教育者も、同じ「賤民史観」に立脚して「党利党略」的発言を繰り返してきたように思います。最初から、部落差別解消への明確な展望をもたずに、33年間に渡る15兆円に群がってきたのではないでしょうか・・・。「賤民史観」という共通の基盤に立っている限り、他者(部落解放同盟)を批判しても、自己(部落解放同盟もそれを批判する日本共産党をはじめとする勢力)を正当化することはできないのです。


次回から、節をあらため、「賤民史観と「解放令」」を取り上げます。

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