2021/10/01

ある中学校教師の同和教育の限界 人生と差別

 ある中学校教師の同和教育の限界 人生と差別

インターネット上で公開されている、2001年度に実施された佐賀市同和教育夏期講座の講演録《時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-》の執筆者の、岡山の中学校教師・藤田孝志氏とは、どういう人物なのか・・・。

筆者は、ほとんどその情報をもちあわせていません。

ただ、その講演録《時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-》をてがかりにして、岡山の中学校教師・藤田孝志氏がどのような人物であるのか、一考していきたいと思います。

藤田孝志氏は、その講演の冒頭で、このように自己紹介をされています。「私は研究者ではありません。学者でもありません。皆さんと同じく中学校の教員をしています」。

藤田孝志氏は、その自己紹介の中で、さらに、「10数年の間社会科の教員として歴史の授業をしてきました」といいます。藤田孝志氏、「10数年の間社会科の教員」をされている間に、授業だけでなく、「十数年の間、部落史を自分なりに研究」をしてきたといいます。しかも、その研究成果を、その授業のなかに、「試行錯誤しながら」取り込んでいったといいます。

藤田孝志氏が、佐賀市同和教育夏期講座で講演されたのは、2001年度ですから、「10数年」を「12、3年」と想定して逆算しますと、藤田孝志氏は、1966~1967年生まれ、大学で中学校の「社会科の教員」になるための勉強をはじめられたのが1984~1985年頃、ストレートで大学を卒業し、岡山の中学校教師になったと想定しますと、はじめて、中学校の教壇に立ったのが1988~1989年・・・、藤田孝志氏は、現在41~42歳ということになります。

少し幅を持たせても、40代前半か半ばということになるのでしょうか・・・?

藤田孝志氏、意識して、そうしているのかいないのか、筆者にはわかりませんが、中学校の教室で生徒を教える<教育者>を指すことばとして使用しているのは、「教員」だけでは、ありません。その他に、「教師」・「先生」ということばも使用されています。

藤田孝志氏が、「教師」・「先生」ということばを使用するとき、大体、次のような使い分けをされているようです。

「先生」ということばは、<会話>文の中で使用されます。「先生、どんな授業をされていましたか。」とか、「先生方、答えられますか。」とか、講演の中で、その講演の聴衆に対して呼びかけ、問いかけるときに、この「先生」ということばを多用します。また、<教育者>の世界の常識なのでしょうか、お互いを呼び合うのに、「先生」ないし「○○先生」という表現を多用します。佐賀市同和教育夏期講座に参加した人々が、同市の小学校・中学校の教師であるにもかかわらず・・・です。

一方、「教師」ということばについては、藤田孝志氏は、その佐賀市同和教育夏期講座に集まってきた小学校・中学校の<教育者>に対して、<批判>的な言説を語るときに、「教師」ということばを多用します。講演の本論は、「教師の姿勢と視点を問う」という意味のことばではじまります。

「部落史学習をする上において、その目的を明確に教師が自覚し、そしてその目的をどこに置いているのか、そのことをしっかりと教師自身が感じているか・・・」と、小中学校の学校「教師」に苦言をていしたり、批判するときに使用されます。

藤田孝志氏は、自分に対して「教師」ということばを使用するときは、「われわれ教師は、部落と部落外の関係性のどこに立ってきたのでしょうか・・・」と、「教師の悪しき弊害」を指摘・糾弾する場合です。

岡山の中学校教師にとって、みずからの「教育者」であることを指すことばとして、「教員」は肯定的に受けとめることができるが、「教師」ということばは、多分に否定的要素を持つことばとして、かなり留保しながら用いられているようです。「差別解消」「目的」として部落史学習を指導する「教員」・藤田孝志氏と、依然として、「近世政治起源説」に依拠して、「人間というものは自分よりも弱い者、貧しい者、悲惨な者がいれば安心するんだ、優越感を抱いて安心するんだ、そういう人間観、貧しい貧しい人間観を知らず知らずのうちに子どもたちに伝えている」「教師」との間の比較が徹底されます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「教員」「教師」という二つのことばに対する用法・・・、筆者どこかに違和感を感じてしまいます。

無学歴・無資格、公教育の世界とはまったく縁のない筆者の目からみますと、「教員」「教師」ということばの意味、価値付けは、筆者とは、まったく逆転しているように思われるのです。筆者、藤田孝志氏と違って、小中学校の学校<教師>は、「教員」より「教師」ということばの方がより適切であるように思われます。

筆者、『部落学序説』の付論・某中学校教師差別事件に関する一考察を執筆するときも、今回の、「ある中学校教師の同和教育の限界・・・」を論じるときも、中学校<教員>ではなく、中学校<教師>です。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏からは、またまた、「重箱の底をつつくような無意味な議論・・・」として罵倒されることになるかもしれませんが、少なくとも、「ことば」と深くかかわっている人々の中には、「教員」「教師」ということばについて、筆者と同じ評価をする人々も少なくありません。

「私は「教員」はおもしろくないので「教師」と言ってほしい気持ちだ」(田中克彦著『ことばの差別』(農山漁村文化協会))と明言する方もおられます。

一橋大学大学院社会学研究科を出られて同大学の教授をされている田中克彦氏は、「「員」には何か大きな団体や組織が前提になっていて、個人はその中に埋没してしまっている。だから「教員」というのは、校長の支配する学校に勤めている先生をいうが、家庭教師や塾の先生を、教員とは決して言わない。」といいます。

田中克彦氏は、日本人は、「員と呼ばれたいという心理」があるといいます。「大企業、大会社や役所に所属しているんだという、自分の身分を示したいという、何か親方日の丸式の権威づけを頼りにしている、弱いくせに権威主義者の顔がみえて、ちょっと情けない感じがする。むかしからずっとそうなのか、あるいは新しいできごとなのか・・・」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、「教師」より「教員」を偏愛する背景には、田中克彦氏が指摘しているような、「教員」として「自分の身分を示したい」という欲望や、「弱い」自分を「教員」であることで「権威づけ」る、藤田孝志氏固有の「姿勢や視点」があるのかも知れません。

筆者の、ある種の危惧は、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の、佐賀市同和教育夏期講座の講演録《時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-》の結びのことば「おわりに」の中で、それまで、抑えに抑えていた、「教員」としての「権威主義」が一挙に噴出してくることにあります。それも、筆者の目からみますと、前代未聞の装いをもって・・・。

それは、<他者>に対する<差別発言>として姿をあらわしてきます。その<他者>というのは、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の<おとうさん>のことです。中学校教師・藤田孝志氏が、その父親に投げつける<差別語>とは、「ゴミ取り」ということばです。

筆者、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の内面世界、日本国憲法第19条で、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と保障されている精神世界について、立ち入ることはよしとしません。しかし、2001年度佐賀市同和教育夏期講座で、藤田孝志氏によって語られた、藤田孝志氏とその父親との間の確執は、その内面世界・精神世界が<語り>という<行為>によって、佐賀市同和教育夏期講座に集まった小中学校の教師の前で<暴露>され、いまなお、インターネットを通して、不特定多数の読者に向けて公開され続けている、藤田孝志氏の<差別性>を物語る以外の何ものでもありません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、その父親について語るときの<手法>は、筆者、容易に理解することはできません。

藤田孝志氏は、その父親についての言説は、ひとつの自己表現、パフォーマンスであると認識しておられるのかも知れません。藤田孝志氏は、「差別解消の主体者を育てる部落史学習」を提言するために、ひとつの<役>を演じておられるのかもしれません。それはあくまで<役>の演出であって、実際は、もっと別のところにあると・・・。

しかし、今回は、その可能性を検証する時間的ゆとりがありませんので、あくまで、講演の文脈と表現にもとづいて検証していきますが、藤田孝志氏にとって、その父親とは、どんな存在だったのでしょうか・・・?

『旧約聖書』に、モーセの10戒というのがあります。出エジプト記の第20章に出てきます。その第5戒は、「あなたの父と母を敬え。」という戒めです。この、戒めには、条件がついていません。つまり、「あなたの父と母を敬え。」というのは、時代と状況を越えて、無条件に、人として守らなければならない神のことばなのです。

親に学歴があるかどうか、社会的地位や名誉があるかどうか、富や財産があるかどうか、健康であるかどうか・・・、そういう様々な条件とは無関係に、「あなたの父と母を敬え。」と聖書のことばはすすめているのです。

しかし、藤田孝志氏の講演録によりますと、藤田孝志氏は、小学生のとき、すでに、父親に対する<尊敬の念>を喪失しています。それを喪失させたものは、父親の「仕事」です。

藤田孝志氏の<おとうさん>は、「市役所の衛生課」に勤務し、ゴミの収集をしてまわる仕事をされていたそうですが、藤田孝志氏、小学生のとき、ある経験をします。

「小学生の時、友達と学校から帰っていたときのこと・・・急に友達が鼻をつまんで臭いと言」います。そして、「一目散に走り出し」、藤田孝志氏の方を振り向きながら、「孝志ちゃん、臭いだろう。早く・・・」と大声で呼びかけたというのです。小学生の藤田孝志氏の「目線の前に、生ゴミの袋を手に持ち、破れた袋から流れ出た汚い液体を体に浴び、黙々とゴミを片づけている父」親の姿がありました。友達は、大声で、藤田孝志氏の名前を呼び、「臭い!」と叫んでいるのですから、当然、藤田孝志氏とその父親の視線はひとつに結ばれます。そのとき、小学生の藤田孝志氏の目には、その父親の姿は、「汚いもの」に見え、「友達と一緒に逃げ」出したというのです。

この出来事・・・、筆者の目からみますと、<悪夢>です。

夢の中で、このような場面を見ても、決して、他の人に語ることはないでしょう。<悪夢>を通して、自分の中にある<差別性>に気づき、人知れず煩悶することになったとしても、それは、こころの中のできごと、時間と歳月をかけて、自らの中にある<差別性>を克服していったことでしょう。というより、筆者、もし、同じ状況に置かれたとしたら、父親の傍らに立ち尽くし、その友達とはもはや一緒に遊ぶことはなかったことでしょう。

しかし、藤田孝志氏、父親の職業・仕事の内容にこだわり続け、「大学を卒業し、教師になった後も父の仕事を・・・隠し続けました」といいます。「父の仕事を軽蔑し、人にゴミ取りの子と思われるのが嫌で、ひた隠しに生きてきました・・・」といいます。

藤田孝志氏が、大学で学んだことは、「小学校しか出ていない」、無学歴の父親を凌駕するためであり、大学を卒業後、中学校の「教員」になったのは、「ゴミ取りという仕事」に比べて、社会から「軽蔑」される仕事ではなく「尊敬」される仕事につくためでした。学歴と職業で、藤田孝志氏は、その父親を凌駕することで、こども時代の不幸な経験を払拭しようとしたのです。

藤田孝志氏が、2001年佐賀市同和教育夏期講座でこの話をされたとき、その講座を聞いていた、佐賀市の教育委員会・小中学校の校長・教頭・教師の方々、藤田孝志氏が、その父親について語る差別的言辞について、何のコメントもされなかったのでしょうか・・・? 筆者、『旧約聖書』のエレミヤ書に記されている、預言者・エレミヤを通して語られる神のことばでは、「父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく。」という、父と子の連座制のようなものが否定されています。父は父、子は子・・・、父と子は、神の前では、まったくの独立した別個の存在、人格なのです。

藤田孝志氏の、<前近代的>な父子関係は、それ自体が問題であったはずです。

藤田孝志氏、2001年の佐賀市同和教育夏期講座で、どこからもコメントをつけられることはなかったのでしょう。その後の講演録や文章、インターネットの書き込みで、藤田孝志氏の、その父親に対する過激な<差別発言>がさらに強化されていきます。たとえ、その父親に向けられたものであっても、<差別発言>は<差別発言>です。

藤田孝志氏、自分「自身の中にある差別意識やこだわり」が、藤田孝志氏の父親の学歴・職業に対する蔑視の原因であることを認識しつつ、それを根本的に解決することができないため、その講演から3年後の2004年、インターネットのBBSの書き込みの中で、その父親について、「小学校しか出ていない両親のいない父であり、どこの馬の骨ともわからん男と結婚後も家にいれてもらえなかった父」・・・、とさらに、父親の負のイメージを増強させます。

藤田孝志氏は、差別事象・差別現象を引き起こす原因は、「500年間、何ひとつとして変わっていない・・・差別意識」にあるといいます。500年前といいますと、2001年から起算して1501年・・・、蓮如がなくなった2年後・・・、ということになります。中世・近世・近代・現代を通して、「差別の形態」「差別の表出形態」は、その時代によって変遷していったけれども、「差別意識」は、何も変わることなく、時代の「底流」を流れて今日に受け継がれていっている・・・、といいます。

藤田孝志氏は、その「差別意識」を解体し、「差別解消」につなげることを、自己の課題として認識しておられるようです。「500年間、何ひとつとして変わっていない・・・差別意識」・・・、藤田孝志氏は、それから自由になることができた、最も<卑近>な実践事例として、その父親に対して抱いていた学歴・職業に対する「差別意識」から解放された・・・、と宣言しているのです。

ほんとうにそうでしょうか・・・?

藤田孝志氏は、「私は何と親不孝な息子だろう・・・」と思っているそうですが、筆者の目からみますと、それは、親に対する<不孝>などではなく、親に対する<侮辱>・<差別>そのものです。藤田孝志氏の、自己の価値観にそぐわない人々、他者に向けられた、誹謗中傷・罵詈雑言の数々・・・、それは、その父親に対してなげかけた誹謗中傷・罵詈雑言と同じもの、拡大再生産されたものでしかなさそうです。

2003年、インターネットのBBSの書き込みにおいては、小学生の時の藤田孝志氏の<不幸>な体験、ますます洗練されたものになっていきます。

「最後に、私自身の話をして終わりたいと思います。私は、長く父の仕事を語ることができませんでした。私の父は、もう退職しましたが、私は父の職業を尋ねられるたびに、「公務員です、市役所に勤めています」とだけ答えてきました。父は衛生課に勤務していました。私は小さい頃から、父が残飯やゴミを収集車にのせる姿、汗と泥に汚れて働いている姿を見るのが嫌でした。小学生の頃、学校から友だちと帰っていたある日、友だちが急に鼻をつまみ、「臭え、汚いな~」って言って走り出しました。「お~い、孝志ちゃん行こうぜ。臭いから行こう」と私を呼ぶのです。道の先には、ゴミ収集車がありました。父でした。まぎれもなく私の父でした。真夏の昼下がり、照りつける太陽に吹き出す汗を汚れた手ぬぐいで拭いながら働く父でした。ビニール袋は破れ、中から生ゴミがこぼれていました。悪臭が周囲に漂い、汚い液体が流れていました。その臭い液体を身体に浴びながらも、父は一生懸命にゴミを片付けていました。私は、そんな父を、汚いものでも見るように、横目で見ながら走りました。私は友だちと一緒に走って逃げたのです」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏のこの表現、日本的精神風土の中では、父親の学歴・職業に対する<差別>は、ほとんど問題にされることはないようですが、同じ表現が他者に向けて語られたとき、藤田孝志氏の「ゴミ取り」・「ゴミ取りの子」という表現は、間違いなく、「清掃労働者の人権を侵害する職業差別」として、「自治労」あたりから糾弾を受けることになるでしょう。

東京都では、「清掃労働者」のことを「ゴミ清掃員」と表現するそうですが(田中克彦著『ことばの差別』)、藤田孝志氏は、「教員」である自分と同じ属性をもっている父親の職業「ゴミ清掃<員>」を認めたくないらしい・・・。「教員」「ゴミ清掃員」も、同じ、「社会に役立つ仕事」であることに違いはないのですが、それを、藤田孝志氏は、同じ<地平>に立って認識するこにためらいがあるようです。その背後には、「ゴミ清掃員」「仕事」は、「必ずしも尊敬される仕事ではない」という、藤田孝志氏の職業に対する価値観があるようです。

藤田孝志氏は、講演録の中で、「職業の貴賤」は江戸時代の価値観であり、近代以降現代における価値観では、もはや「職業の貴賤」はない・・・と力説されていますが、筆者が、その講演録を読む限りでは、藤田孝志氏、典型的な職業差別の体現者のようです。

藤田孝志氏が、中学生・高校生の時代・・・、すでに、「東京都のごみ清掃員の中には、大学院の修士過程を出ても就職口がないため、学歴をかくして、「ゴミ屋」にもぐっている例もいろいろある」(田中克彦著『ことばの差別』)時代であったようです。

田中克彦氏、「なまじっか、準知的職業などにつくよりは、精神の健康にはよほどさっぱりしていい・・・」という外国人記者の認識を評価しています。

藤田孝志氏の父親の学歴・職業に対する<差別意識>・・・、日本の知識階級・中産階級の社会的慢性病のようなものです。そのような精神的枠組みから、ほとんど離脱できていないような岡山の中学校教師・藤田孝志氏・・・、それで、人生を終えるとなると、とてもさびしい人生になるのではないでしょうか・・・?

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