2021/10/03

「旧百姓」の一揆要求

「旧百姓」の一揆要求

上杉聡著《新段階をむかえた「解放令」反対一揆研究》(『明治初年解放令反対一揆の研究』明石書店)の中に、「明治初年の部落解放反対騒擾年表」があります。

「年月日」「現在府県名」「当時府県名」「当時郡名」「概要」「参加人員」「部落の直接的被害」の7項目の一覧表形式になっているのですが、その表をみると、最初の「解放令反対一揆」は、明治4年10月13日の兵庫県で起きた一揆、最後の一揆は明治10年2月25日に熊本県で起きた一揆であることがわかります。

しかし、連番の1~20番までは、明治4年の10月~明治6年8月に集中していますので、明治4年の8月の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告第488号・第489号をきっかけに発生したと言われる「解放令反対一揆」は、2年間に渡って断続的に発生したと考えられます。

明治4年には8件、明治5年には5件、明治6年には7件の計20件発生したことになります。北は京都、南は宮崎で、「解放令反対一揆」の大半が西日本で発生したことになります。

この数字は、部落史研究の現時点での発掘件数のことで、今後、「解放令反対一揆」の研究の進みぐあいによっては、あらたな「解放令反対一揆」が発掘される可能性もあります。

黒川みどりは、その著『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』において、「「解放令」後から1877年までの間に少なくとも全国21ヶ所で発生したことが明らかとなっているが、それが現三重県域で起こった形跡は見当たらない。しかしながら、田村の場合に見たような対立は、表面化しないまでも各地で存在していたに違いない。」といいます。

好並隆司は、その論文《明治6年美作一揆とその影響》の中で、「一揆要求書・要求表」を掲載しています。

当時の「旧百姓」が、明治4年の太政官布告第488号・第489号に反対して一揆を起こした際、明治政府と地方行政(府県)に対して突きつけた要求は、「貢米免除・断髪・屠牛廃止・桑木植付廃止・地券費(貢金)・耕地図面(貢金)・徴兵廃止・穢多従前通・運上従前通・政事旧幕府立戻・藩主立戻・異人御払・戸長廃止・戸籍廃止・山札取止・旧藩知行・課銭廃止・旧暦使用・当県官吏・電信機廃止・士族卒立置・学校廃止・牛価安定・米穀値下・布告板廃止・藩札交換・神木不伐・神仏維持・物価値下・裸体見許」と実に多様で、その他に「教会放火」という要求もみられます。

『部落学序説』の筆者である私は、明治4年の太政官布告第488号・第489号を契機に発生したといわれるこれらの一揆は、その際に明治中央政府や地方行政に対して出された「要求」の多様さから判断して、「解放令反対一揆」というよりは、「新政府反対一揆」と呼んだ方がより的確ではないかと思います。

「新政府反対」のスローガンの下で、明治維新後も司法・警察である「非常民」として従事してきた「穢多非人等」は、権力の末端機関として、「旧百姓」の仮想「明治新政府」として、抗議行動の対象になっていったのではないかと思います。

岡山県で発生した、明治5年の「備中新古平民騒動」では、「旧穢多」4人が殺害され、明治6年の「美作血税一揆」では、「旧穢多」18人が殺害され、その他にも多数の負傷者を出すという悲惨な結果をもたらしましたが、その一揆ですら、どちらかいいますと、「解放令反対一揆」というよりは「新政府反対一揆」と呼んだほうが歴史の事実により近いと考えられます。

好並の「一揆要求書・要求表」を見ますと、「旧百姓」が「権力」に突きつけた要求の中で、もっとも突出しているものは、「徴兵廃止」と「穢多従前通」のふたつです。しかも、「徴兵廃止」と「穢多従前通」とは、同時に要求される場合が多いのです。

『部落学序説』の「非常民」理解に立って、「徴兵廃止」(軍事)と「穢多従前通」(警察)という要求項目を見ますと、それらは、「旧百姓」が、明治新政府の方針によって、「常民」(手に武器を持たない人々)から「非常民」(手に武器を持つ人々)へと、その属性を大きく変えられていくことへの抗議であったと考えられます。

「旧百姓」は、そのいのちを賭して、近代中央集権国家の軍国主義化(国民皆兵)に否を突きつけていったのではないかと考えられます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠する部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、「百姓を愚民とする見方」(愚民論)に立って、「一揆は明治新政府の文明開化を理解しなかったため起こした」と考える傾向があります。「明治初年の諸一揆は農民の愚行に過ぎず」と断定し、「旧百姓」の「旧穢多」に対する襲撃事件は、「民衆間の内部対立」に過ぎないと判断します。

「備中新古平民騒動」や「美作血税一揆」は、その本質において「新政府反対一揆」であったにもかかわらず、その一揆の原因と結果を考察する際に、明治新政府の関与と責任を免罪してしまう傾向があります。「旧穢多」に対する襲撃事件の責任は、「国家」ではなく「民衆」にあると・・・。

明治新政府は、「旧百姓」による「新政府反対一揆」を徹底的に弾圧します。明治新政府は、地方行政(府県)に対して、「一揆では1000人までは殺してもいい」と強攻策を指示します。「新政府反対一揆」は、権力によってことごとく頓挫させられていきます。

明治4年~6年の「新政府反対一揆」の間、「旧穢多」は、日本全国津々浦々において、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務になんらかの形で関わっていたことを忘れてはなりません。「旧穢多非人等」は、民衆の側ではなく、権力の側に身を置いていたのです。

「旧平民」の「常民」であり続けたいという要求の正しさは、やがて歴史が証明します。

熊本県士族で儒学者であった太政官官吏・木下真弘は、明治9年~10年にかけて、「明治新政の具体的諸成果を、旧幕時の実態と一つ一つ比較しながら明らかにした史論三部作」を執筆します(岩波文庫『維新旧幕比較論』)。その中に、「兵制」と「警察」に関する文章があります。

太政官官吏・木下真弘がとらえた、「旧百姓」(民衆・平民)の姿を見てみましょう。

木下は、「兵制の改定、日尚お浅きや。農商より出る者、戦に臨み逡巡するの憂あり」といいます。「旧百姓」は、平時にあっては官費を費やすことがないにもかかわらず、一端、徴兵された場合は、昔時の武士も及ばないほど、「皆弾丸を冒し、白刃を踏み、血闘奮撃、死して顧みず」、「戦地に在ては奮前決死する」というのです。「常民」である「旧百姓」を「非常民」である「平民」に組みかえ徴兵制を敷いたことを評価して、「断然古制の非にして今制の是なるを知る」というのです。

しかし、木下のレポートは、明治新政府の方針の自画自賛にとどまりません。

木下は、「しかりといえども」と次のように切り出すのです。「各地に就いて徴兵の情を察するに、父母に別れ家郷を離れ、遠く戦地に苦役せらるるを悲しみ、規避(徴兵拒否)百端、終に泣決して伍に入る者すくなからず。己に戦地にありては、将校の節制を受け、奮前決闘能く死を致すといえども、死報家に至れば、親戚哀痛限りなく、老者あるいはこれがために命脈を縮むるに至る。新たに徴発(徴兵)せらるる者は、これを見て規避(徴兵拒否)をなす、また前日の比にあらず。且曰く、租己に軽からず、又戦に没せられる。曰く、死傷すれば一家餓死を免れずと・・・」。

幕末期まで、「常民」として、人を殺害するための武器を持つことがなかった「旧百姓」は、明治になって、「旧百姓」から「平民」に身分替えされて、「非常民」として、人を殺害するための武器を持って戦場へと駆り出されていくのですが、徴兵拒否をするも、そのあとには糾弾と拷問がまっていることを考えると、多くの「旧百姓」は天皇の名をかりた明治新政府の命令に従わざるを得なかったのでしょう。

「某地出兵の子、戦死して鬢髪家に至る、老父悲嘆終に臥して起たず・・・」。

「旧穢多」であったもののうち、「巡査」として採用されていた者は、本来捕亡に長けて、「拿捕を能くするの性質」を持っていたため、幕末の「穢多」と同様、戦場における「斥候」として徴兵されていったのです。脱走する「旧百姓」出身の兵の探索・逮捕にも従事していたのです。「穢多非人ノ称廃止」がなされ、「旧百姓」と「旧穢多」が同じ「平民」にされたとはいえ、戦闘地域にあっても非戦闘地域にあっても、「旧百姓」と「旧穢多」との間の隔絶は、「権力」というメルクマールによって判然と区別されていたのです。

木下は、太政官官吏として、次のような報告を三条実朝・岩倉具視にしています。

「凡そ徴発に当たる富者は規避の計を為し易し。貧者は免るること能わず」。ひとたび徴兵されると、「生計たちまち障害を生じ、不幸にして重傷および死亡すれば、扶助料下賜ありといえども、一家これがために倒哀す・・・」。

明治6年の「美作血税一揆」は、「明治新政府の文明開化を理解しなかったため」「愚民」によって起こされたものではなく、時代の流れを読むことができた聰明な「旧百姓」によって、軍事に携わる「非常民」として徴兵されることがもたらす「旧百姓」の悲惨を先取りして抗議したものといえるでしょう。明治新政府に賛成するも反対するも、明治天皇制イデオロギー用語としての「平民」は、「吐痰の苦しみ」を味わうことになるのです。

明治維新の「勝ち組」となった「富者」は、詭計をろうして徴兵からのがれ、「負け組」となった「貧者」は、徴兵されて戦場の露と消え、遺族の上に降りかかる経済的困窮と愛するものを失った悲しみ・・・。「告諭」のいう、「下民ノ苦シミ見ルニ不忍」とて「王政復古」を決心された「天皇の聖旨」とは一体何だったのか・・・。「旧百姓」の素朴な問いと歎きも、近代中央集権国家の「権力」によって握り潰され踏みつぶされていきます。

「いっきょに多数の戦没者を出した西南戦争は、東京招魂社(靖国神社の前身)の性格を大きく変える契機」(村上重良著『慰霊と招魂 靖国の思想』岩波新書)となっていきます。東京招魂社は、戦没者とその遺族を慰撫し、再び戦場へと送り出す国家的な装置と化していったのです。西南戦争終結から2年後、東京招魂社は「靖国神社」と改称されていきます。

昭和20年(1945)太平洋戦争終結によって日本の軍隊が解体されるまで、日本の民衆は、「平民」という名の「非常民」として生きることを余儀なくされたのです。

「解放令反対一揆」は、「愚民」のなせるわざではなく「賢民」のなせるわざであったのです。

《「膏取一揆」『大変記』に関する若干の考察」》の著者・宇賀平は、「民衆自身がその負の遺産を直視すること抜きには、虚飾の歴史から我々は解放され得ない」といいますが、宇賀平の意図を越えて、その言葉のとおりであると筆者は思います。 

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