2021/10/01

明治維新の死角 英米の支援の下で実現した明治維新-知られざる国家転覆罪

明治維新の死角 英米の支援の下で実現した明治維新-知られざる国家転覆罪


明治維新は、国内の問題に還元できるものではありません。

明治維新は、黒船来航に端を発した「開国」の中で生起します。明治維新を論じるとき、幕府と薩摩・長州・土佐・肥後との政治的葛藤の文脈の中だけで考察するのではなく、「日本」(幕府と薩摩・長州・土佐・肥後)と諸「外国」との関係で論じる必要があります。

「日本の近現代史は、つねに世界史の大きな流れのなかに位置づけて扱われなければならない。」というのは、『世界史のなかの日本近現代史』の著者・正村公宏です。もちろん、そのような歴史の見方は、昔からいろいな歴史学者によって主張されていますので、正村固有の提案というわけではありません。

正村は、日本と欧米諸国の関係を論じるとき、軍事・貿易・宗教各政策を視野に入れます。黒船来航以降、幕府や薩長土肥を中心とする明治新政府は、欧米諸国と接するとき、軍事・貿易・宗教という局面に対してどような政策をとったのでしょうか。

幕末期の、幕府と薩摩・長州・土佐・肥後各藩は、それぞれの立場から「近代国家」化をはかります。そのために、「軍事力」の増強を主眼とした施策を取ります。「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」との抗争は、近代化された「幕府」軍と「薩摩・長州・土佐・肥後」の列藩同盟軍との戦いの様相を呈していました。

「開国」以来、「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」は、「陸軍」の強化策として「新式銃」の装備を急ぎ、「海軍」の強化策として「戦艦」の保有を図ります。

近代日本で実施された最初の国政調査といわれる『藩政一覧』には、各藩の所有する軍備に関する報告があります。ほとんどの藩は、銃や大砲という、「陸軍」の装備のみですが、「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」の場合は、所有する軍備の中に、「戦艦」が含まれています(会津藩は1隻も所有していない)。

「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」も、実は、「海洋国家」で、他の藩に先駆けて、「海軍力」の近代化と増強を図ってきたのです。明治維新は、「海軍力」の観点からみると、「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」の「海軍力」の抗争として映ります。

もちろん、圧倒的優位だったのは、「薩摩・長州・土佐・肥後」の列藩同盟軍ではなく、「幕府」軍のほうでした。「討幕」を叫ぶ、「薩摩・長州・土佐・肥後」は、「海軍力」という点で、その近代化と増強をはかり、「幕府」の「海軍力」に追いつき、追い越せ・・・という戦略をとりました。

明治維新は、「旧幕藩体制下」の勢力間の戦いというより、「開国」以来、軍事力の近代化と増強を図ってきた勢力間の戦いという様相を呈していました。「薩摩・長州・土佐・肥後」の列藩同盟軍に対して、圧倒的優位に立っていたと思われる、「幕府」軍が、なぜ、敗北を期したのか・・・、そこには諸外国の影響が大きく働いていたと思われます。

よく、「明治維新は、国内問題である」という見解を目にします。明治維新の際の「内乱」に際しては、諸外国は「中立」の立場をとったといわれます。つまり、「薩摩・長州・土佐・肥後」は、諸外国の軍事力の支援を受けることなく、独力で、討幕に成功したと・・・。

しかし、幕末から明治初期にかけて、日本にやってきて、その明治維新を目撃し、「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」の両陣営とかかわりのあった、諸外国の外交官・学者・宗教者は、克明にその記録を残しています。いわゆる「外交文書」と、それに関する資料等ですが、それらをみると、日本の明治維新は、決して、「幕府」と「薩摩・長州・土佐・肥後」両軍の、権力奪取をめぐる「国内紛争」・「国内抗争」ではなかったことが判明します。

明治維新における「内戦」は、英米が大きく関与したものであることが明らかになってきています。アーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)を読めば、「イギリスの外交官」が、明治維新に深く関わったことを確認することができます。「中立」を唱えながら、イギリスは、「薩摩・長州・土佐・肥後」の軍事力に梃入れをして、「幕府」軍に対する「薩摩・長州・土佐・肥後」の軍事力優位を画策していきます。

明治維新戦争当時、両軍の「戦艦」はすべて木造の軍艦でした。木造の軍艦による海戦で終わったなら、幕府軍に対して、「薩摩・長州・土佐・肥後」の列藩同盟軍が敗戦するという事態を想定することは難しくありません。しかし、劣勢にもかかわらず、「薩摩・長州・土佐・肥後」を中核とする明治新政府は、「幕府軍」に勝利を納めるのです。

その背景には、「イギリス軍」からの軍事情報の提供と、討幕のための武器の提供があったからです。下関戦争や薩英戦争によって、長州・薩摩は、イギリスから近代兵器(新式銃や戦艦)の提供を受けるのです。特に、戦艦「甲鉄」は、「鉄板装甲」の1358トンの本格的な鉄製の軍艦です。アメリカは、その鉄製の軍艦を、「幕府」軍に対してではなく、「薩摩・長州・土佐・肥後」の明治新政府側に提供するのです。

戦艦「甲鉄」には、多数のイギリス軍が乗船し、幕府側の「陸軍」に対する艦砲射撃、「海軍」に対する撃沈に関与したと言われています。イギリスは、一方で、「中立」をまもるという名目で、フランス艦船が運搬している「新式銃」が会津藩の手に入られないように牽制したと言われます。

会津戦争においては、「旧式武器」で装備された「東軍」の、「新式武器」で装備された「西軍」による敗北という形で終結します。会津戦争による旧幕の敗北というできごとの背景には、「官軍」の背後に、イギリスやアメリカの軍事的な支援があったのです。

つまり、「薩摩・長州・土佐・肥後」は、国内における覇権を手にするために、外国(イギリス・アメリカ)の力を借りたということです。、「薩摩・長州・土佐・肥後」側に、現行刑法でいう、「内乱罪」(刑法第77条)、「外患罪」(刑法第81条)に抵触する行為があったことを意味します。

幕府の榎本海軍を撃破した戦艦「甲鉄」は、1350トンであったと言われますが、イギリスの戦艦「ウオ-リア」は、9210トンでした。排水量・出力・速力、いずれをとっても、イギリスの戦艦に太刀打ちできない、日本が欧米等諸外国に対して、軍事的列劣等国であることは、否定しがたい事実でした。このことは、明治新政府の欧米の軍事力・諸制度・文化に対する、Inferiority Complex(「劣等の複合観念」という意味)になっていきます。

「軍事」だけではありません。明治政府の諸政策は、「貿易」・「宗教」の分野においても、諸外国の影響は否めず、Inferiority Complex的色彩を帯びていきます。明治政府は、Inferiority Complexを Superiority Complex
にかえるべく、諸外国に「醜態」をさらしていくことになります。

明治4年、日本にやってきたオーストリアの外交官、A.F.V.ヒューブナーは、その著作(『オーストリア外交官の明治維新』(新人物往来社))の中で次のような見方を披露します。

「4藩の連合勢力・・・が討幕運動の計画を立案し、戦争の重荷を引き受け、戦いに勝利し、敵対者を打ち倒したのである。明治維新には何の意味もない、というか、それは天皇の名目的な最高権力の下に4藩が幕府に取って代わったというに過ぎないのだ」。

「天皇の名の下に終結した4藩の君主が、その代理人たる大臣を通して、多少は名目的に、または多少は現実に、日本の全地方を支配している、というのが事実上の情勢なのである。全体として何とも巧妙かつ深謀に富んだ構成の策略だ」。

彼は、「廃藩置県」にも触れ、「国家の基本制度たる藩組織を破壊するもの」と認識して、「自分自身の存在基盤をも崩している・・・」と厳しく批判します。

また明治政府の宗教政策にちも触れて、「私自身は仏教の神に全く共感を覚えないが、それでも、少しも宗教らしくない御上の宗教を復興するという口実で仏像や仏教寺院を破壊すれば、民衆から信仰を奪い、さらに由々しいことは、信じる能力を奪うことになるのではないか、と恐れる」といいます。彼は、明治新政府の宗教政策を、「拙劣な方法」・「蛮行」だと断定し、明治政府によって、「何を以て代えるべきか確と分からぬまま封建制度は破壊されてしまった・・・」といいます。諸外国は、日本の近代化を「方向はよいが歩みが速すぎる」というが、彼は、「方向もよくない」と断言します。

なぜなら、明治新政府は、「人心を掴む」ことに失敗しているといいます。

オーストリアの外交官、A.F.V.ヒューブナーは、明治新政府の近代化は指示するが、明治政府が権力装置を駆使して、「あらゆるものを攻撃する軽佻浮薄さ、天皇の御名に隠れて破壊解体が行われていること」に同意できないといいます。

かけがえのない「古き日本は、いま唖然として沈黙し、怖じけづいているではないか・・・」、「哀惜の念」をしめします。

日本人自ら日本人(日本の文化の担い手)であることを否定する・・・、オーストリアの外交官、A.F.V.ヒューブナーが見た日本の社会は、信じがたいことが現実となっていたのでしょう。

『世界史のなかの日本近現代史』の著者・正村公宏はこのようにいいます。

「明治維新とは何であったのか。・・・多くの日本の知識人は、ヨーロッパを先進的な普遍とみなし、日本を後進的な特殊とみなす議論を好んで展開した。明治維新はなぜ起こったのか。それはどのような過程をたどって実現されたのか。維新政府はいかなる問題を解決することに成功し、いかなる問題を解決することに失敗したのか。変革にかかわった主体はそれぞれ何を意図したのか。そして結果はどうであったのか。そうした問題意識をもって歴史過程をできるだけ具体的にあきらかにすることが重要である。明治維新が唯一の可能な道筋であったのか。また最良の道筋であったのかをあえて問うことも、意味があると思われる」。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に依拠する、部落史研究家の視点・視角・視座には、そのような姿勢は見られません。井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』をよめばわかりますが、部落差別を「国内問題」として限定し、明治4年の太政官布告を、近世幕藩体制下の「賤民」の「解放」としてしか認識しません。

原田は、「基本的には、政府は近代統一国家をつくるために、部落がのこっていては、政治上に、また経済上に当面きわめてさしさわりのある諸点を改めていくために、この政策に踏み切った・・・」といいますが、それ以上解明することはありません。

原田は、「解放令をむかえた全国部落の人々の喜びはたいへんなものでした。」といいますが、ほんとうにそうだったのでしょうか・・・。

「部落学」の最初の提唱者・川元祥一は、『部落差別を克服する思想』の中で、明治政府の「強引な欧米模倣」によって、近世幕藩体制下の司法・警察に従事してきた「穢多」は切り捨てられた・・・と主張します。明治4年の太政官布告は、明治政府のInferiority Complex のあらわれ以外のなにものでもないのです。明治政府の「棄民政策」によって、「差別ばかりが残るのである」というのです。

『部落学序説』の筆者である私は、「部落学」の最初の提唱者・川元祥一氏にして、なお、その精神の奥深くにおいて影響されている、日本歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を、徹底的に批判・検証し、それを解体しようとしています。

「常民」の学としての「民俗学」は、歴史学、社会学・地理学、宗教学(神道)の学際的研究として遂行されます。しかし、「非常民」の学としての「部落学」は、歴史学、社会学・地理学、宗教学(神道・仏教・基督教)、民俗学の基本科目の他、政治史(政治学)、外交史、国際関係史、比較制度史、比較文化史等の補助科目も駆使して構築されます。

学歴や資格をもちあわせず、学閥や派閥に身を置かない、『部落学序説』の筆者にとっては、「専門領域」はなきにひとしいのです。誰にはばかることもなく、ただ、真実をみつめて、部落差別完全解消に向けて、「学際的」追究を続けることができるのです。この『部落学序説』を執筆することで、部落研究・部落問題研究・部落史研究の「識者」や「研究者」、「運動家」に笑いものにされたところで、筆者ひとりですみますから・・・。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...