2021/10/01

明治維新の死角  明治政府によるキリスト教弾圧

明治維新の死角  明治政府によるキリスト教弾圧


『部落学序説』執筆に際して、筆者がとった視点・視角・視座は、「武士」ではなく「百姓」でした。近世幕藩体制下の「穢多」を、その司法・警察である「非常民」として認識し、「非常民」の対極にある「常民」である「百姓」の立場から、「穢多」と「穢多の類」について言及してきました。

明治という近代に入ると、近世幕藩体制下の身分呼称である「武士」・「百姓」概念は破棄され、かわって、「士族」・「平民」という概念が導入されます。近代においては、近世の「武士」は「士族」になり、「百姓」は「平民」になっていきます。しかし、「近世の百姓」=「近代の平民」という等式は無条件に成立するのでしょうか・・・。

筆者の説では、「近世の百姓」=「近代の平民」という等式を認めることはできません。なぜなら、明治政府によって遂行される「富国強兵」政策によって、「近世の百姓」(常民)≠「近代の平民」(非常民化された常民)という不等式が成立させられるからです。近世の「百姓」は、近代の「平民」になるとき、その手に武器を持って、戦場で人を殺戮する「非常民」という属性を持たされるからです。

「平民」とされた人々の中には、下級武士・目明し・穢多・非人・村方役人・百姓(農・工・商)等が含まれていました。近世おいて、「非常民」である民と、「常民」である民が、同じ「平民」という概念で統合されてしまったのです。

明治4年の太政官布告は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」身分の「解放」だけでなく、上記のような大きな変革をともなっていました。そういう意味では、明治4年の太政官布告は、「穢多・非人」にのみ関係したお触れではなく、「百姓」にとっても、常民としての「百姓」から、「非常民」としての「平民」に変えられていく大きな要因となった布告でした。

明治以降の身分制度について検証する際に、「百姓」という視点・視角・視座のみでは、その本質を把握することは困難であると思われます。明治10年頃まで、「百姓」一揆が続きますが、明治政府の強権発動によって、「百姓」一揆が鎮圧され、それと同時に、「平民」の中にくすぶる「百姓」一揆のエネルギーが削がれてしまいます。
安芸の農民が語り伝えた、権力によって、このように「百姓」一揆が潰されてきたという、「きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび」ということわざは、近世幕藩体制下の「百姓」に対してより、近代の「平民」に対して、あてはまることわざであるからです。

明治政府は、不平武士だけでなく、民衆に対しても、明治政府が、政府反対騒動と断定すると、民衆に対しても徹底的な弾圧が行われました。そのすさまじさは、民衆から、政府に反旗を翻すことにためらいを与えるほど、衝撃的なものでした。

文久3年~明治14年頃までの「穢多」について言及するとき、「百姓」(常民)・「平民」(非常民化された常民)の視点・視角・視座だけでなく、客観的なもうひとつの視点・視角・視座を持たざるを得なくなります。

そのきっかけになった史料は、『1870年1月19日江戸における列国公使団と日本政府大臣との談判議事録』(『英国外務省文書』)です。その「解題」を書いた宮地正人は次のように記します。

「維新政府は、戊辰戦争勝利後の天皇制支配体制をかためるためにも、そしてより直接には各地の反政府グループに政府批判の口実を与えないためにも、浦上キリシタンに対する弾圧を強化することを決意し、明治2年12月初旬、3000名余のキリシタンを全国19藩に移送、これに反対する英米仏独4か国公使と、三条実美・岩倉具視ら政府首脳は12月18日(西暦1870年1月19日)、東京で会見、4時間にわたってわたりあった。しかし日本側が記録として残した対話書は、外国側の記録と比較すると、相当程度相違や省略があり、宗教上の史料としては、外国側の記録を的確に踏まえなければならない」。

列国公使と日本側の官僚との議論は、手に汗を握る「激論」といっていいほどで、「内国問題の処置を外国の意見に任せるわけにはいかない」という岩倉に対しては、英国公使バークスは、「これ以上列強を侮辱し続ければ、我々と貴国の間に容易ならぬ紛争が予想されます。」と「日英戦争」突入をほのめかす言葉すらとびかいます。何度読んでも、両者の間の緊迫感はすさまじいものがあります。

また、イギリス代理公使アダムスが本国に送った「条約改正」に関する書簡の中で、岩倉具視との談話の内容が報告されています。

アダムスは、岩倉は、「キリスト教禁止をとけば、この国に革命をもたらすことになり、近世の方針をそれまで採ってきた政府は打倒されることになる」と語ったといいます。「キリスト教信奉の自由を布告すれば即刻・・・、「旧幕復活の支持者・・・、会津や桑名の者たち・・・漢学者や国学者・・・の不平分子」が政府打倒の動きに出るというのです。岩倉具視によると、「会津藩」は、近世幕藩体制下の典型的なキリシタン弾圧者であるということになります。

会津藩は、陸奥国の一部を「斗南藩」として与えられ、文字通り藩毎幽閉されてしまいます。3万石は名ばかり、実質は7000石程度で、その年の冬、「餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。寒さひとしお骨を噛む。」状態に追いやられていました。そして、次の年、明治4年の冬、会津人・柴五郎はこのようにつづります。「怖ろしき冬再び来たりても、わが家は先年の冬と同じく満足なる戸障子なく、蓆さげたる乞食小屋なり。陸奥湾より吹きつくる寒風、容赦なく小屋を吹きぬけ、凍れる月の光さしこみ、あるときはサラサラと音たてて霙舞いこみて、寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞く。終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖めれば腹冷えて痛み、腹温めれば背凍りつくがごとし。掌こごえて感覚を失うこと常なれば・・・」(石光真人著『ある明治人の記録

会津人芝五郎の遺書』)と、会津藩は、「斗南藩」という自然の獄屋に繋がれていたのです。

当時の会津藩には、岩倉具視が指摘するような、「キリスト教解禁」を理由に、明治政府転覆を図る力はなかったことは、岩倉具視自身が一番よく知っていたことでしょう。岩倉は、「会津藩」をスケープゴートとして利用しているのです。

アダムスは、本国に送った書簡の中で、「もし不幸にもキリスト教迫害が再びなされた場合には、諸外国政府は抗議を起こすべきものです。」と、軍事介入の可能性すら示唆しています。

アダムスは、その書簡を閉じるにあたって、岩倉具視の要請を記しています。「岩倉右大臣は私にこう要請しました。・・・貴国政府に、この発言を極秘条項として扱うべき旨をお願いしてほしい」と(『英国外務省文書』)。

明治政府によるキリシタン弾圧に関する2つの史料から察すると、明治初期の外交文書は、①明治政府によって改竄されている、②「密約外交」として、日本国民の目から隠されている、可能性があるということを示唆しています。

明治政府による政治の結果としての「できごと」ではなく、その「できごと」の背景・意図を知ろうと思えば、明治政府閣僚の対外的な発言・文書に着目しなけれはならないということです。

明治政府の発言は、「表」(国内向け)と「裏」(外国向け)の二重構造で構成されている可能性があるということは、近世幕藩体制下より近代初期まで、司法・警察である「非常民」として、キリシタン探索・捕亡・糾弾・お仕置きに関与してきた「穢多」の処遇についても、「表」と「裏」、「建前」と「本音」を明らかにしなければならなくなります。

『密約外交』(文春新書)の著者中馬清福は、「専門家でないかぎり、ふだんそれを目にすることはほとんどない」と断言します。「士族」や「平民」の眼から、その密約が隠されていったとしても、その条約の結果として、「日本人の運命も変えた」事態も生じたのです。

岩倉具視は「内国問題」という表現を使用しますが、明治政府がいう「内国問題」にも「外交問題」の影が大きく深く落としてます。

それらの状況を確認するとき、『部落学序説』において、明治4年の「太政官布告」批判を展開するとき、「百姓」・「平民」の視点・視角・視座にあわせて、他に、どのような視点・視角・視座が必要になるのでしょう。『密約外交』の著者・中馬清福は、「この国では、いいことも悪いことも沈黙を守って消える・・・」といいます。「一般にもこれを美風とする空気が無いとはいえない・・・」ともいいます。

国益のためと称して、明治政府の失策や過ちを、知っていても知らぬふりをする、見ても見ぬふりをする、聞いても聞かぬふりをする・・・、そんな政治家や学者・教育者によって、明治4年の太政官布告と、「旧穢多」に属する人々は、差別のるつぼへと追いやられていったのかも知れません。(続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...