2021/10/02

排除される「庄屋」の視点

排除される「庄屋」の視点・・・

近親憎悪・・・、ということばがあります。

かなり、一般的に使用されているように思っていたのですが、『広辞苑』をひもといてみますと、その見出しには、「近親憎悪」ということばは見当たらないようです。

「近親憎悪」ということばは、まだ、一般的な用語としては認知されていないようです。

「近親憎悪」ということばは、精神分析学の専門用語だそうですが、筆者の蔵書の中には、精神分析に関する本は1冊もありません。

イタリアの社会学者・アルベローニの2冊の書(『他人をほめる人、けなす人』・『借りのある人、貸しのある人』)の中に出てくる109の「人間性」のパターンのうち、「近親憎悪」の持ち主は、どのパターに属するのか調べてみました。

『部落学序説』の筆者として選択したパターンは、『他人をほめる人、けなす人』の中に収録されている「他人を引きたてない人」・・・。

この種のパターンに属するひとは、「知的な高い才能を備えている」場合が多いようです。「自分自身のこと、自分の成功、自分の声にしか関心がない。」と言われます。『部落学序説』の筆者の目からみますと、部落解放運動の運動団体(同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)は、それぞれ、「自分自身のこと、自分の成功、自分の声にしか関心がない。」ように見えます。

どの運動団体に属していても、その運動家は、「協力者の取りまきをつくる」ことに長けています。いわゆる組織力を持っている方々です。彼らは、彼らの運動団体に組み込まれた組織人である被差別部落のひとびとに対して、それぞれの運動と方針に忠実であることを要求します。彼らは、その傘下にある被差別部落のひとびとが、「その個性や思想を明らかに」することを好みません。「従順で、勤勉で、凡庸な人物」で、組織と組織の指導者に服従的であることを要求します。

もし、若い人々が、「その個性や思想を明らかに」しようとすると、組織の指導者としては、上杉聡のように、「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる・・・」と、強権を発動し、組織の方針に抵触するひとびとを排除しようとします。

「若くて有能な人びと・・・を可能なかぎり、自分の成功のために利用し、搾取しておいて、それから彼の前に障害を設けはじめる。もしも若者が自由になろうとし、独力で歩もうとすると、これを迫害する」。

「このタイプの人びとは勇気に・・・欠けている。しかし、その臆病さを隠すことも心得ている。大仰な言葉を口にし、やたらに憤慨し、激しく批難するが、自分をさらすことはしない。人を先に立てておいて、ことがうまく運ばないとみると、自分は姿を隠してしまう。もしもうまく運べば、それは自分の功績だと主張する」。

『他人をほめる人、けなす人』の著者、イタリアの社会学者・アルベローニは辛辣な言葉で続けます。「卑劣なのは恐れるものではない。卑劣なのは、勇気ある人びとを楯にして身をかばい、その人びとを犠牲にしておいて、それを否定する輩である」。

『部落学序説』の筆者である私は、アルベローニのことばを読みながら、「近親憎悪」を持っているひとびとの「人間性」と、『他人をほめる人、けなす人』の「他人を引きたてない人」との間にかなり類似性があるのではないかと思います。

「近親憎悪」とは、「近親」(部落解放のための運動団体、同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)が、自分以外の「近親」(部落解放のための運動団体、同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)との間に差別化を図り、自分の所属する運動団体の組織と方針のみを価値あるものとみなし、それ以外の運動団体の組織と方針を、無価値なもの、否、害あるものとして、「大仰な言葉を口にし、やたらに憤慨し、激しく批難する」ことによって、徹底的に叩き潰そうとする心情のことである・・・、と定義できそうです。

日本共産党系の全解連(今は名称を変更していますが、実態は変わりません)の部落解放同盟に対する批判は、文字通りの「近親憎悪」です。そのことに対する部落解放同盟の側からの日本共産党系の全解連に対する批判も、ほとんど間違いなく「近親憎悪」です。

部落差別問題・人権問題を標榜する運動団体の多くは、相互に、その組織の内外にむけて、「近親憎悪」的体質を持っています。

アルベローニは、部落差別問題・人権問題を標榜する世界においても、「独占的地位」を追求してやまない「モンスターがいる」といいます。

そのモンスター(怪物・化物)は、「何かに成功でもすると(例えば裁判闘争に勝ったりすると)、自分を他のだれよりも優れているものと考える。私の知っているある人物は、ある国際的な成功を収めた後、すべての友人、すべての弟子を徹底的にこきおろして、こう述べた。「私はもう君たちには用がない。君たちは私の過去の生活に属する人びとだ」と」。

部落差別問題・人権問題を標榜する世界において、また、部落研究・部落問題研究・部落史研究を標榜する世界において、この「近親憎悪」という「モンスター」は、過去において猛威をふるってきたし、現在においてもふるっています。そして、未来の世界においても、ふるい続けることになるでしょう。

「近親憎悪」は、安芸の農民が、権力によって、農民運動がどのように潰されてきたのか、自戒のことばとして語った「きりうなぎ・ざるどじょう・たるへび」ということわざの「たるへび」の状況に酷似しています。

部落解放運動は、権力によって押し込められた「賤民史観」という、差別的思想の枠組みである「たる」の中で、「近親憎悪」という「モンスター」に身をゆだね、お互いを暗くて深い、絶望の淵へ引きずり込んでいるのです。

イタリアの社会学者・アルベローニは、「そういう人物を見破るため」の方法を記しています。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の中には、正規の武士階級の「与力」もいれば、正規の武士階級ではない準武士階級の「同心」もいます。また、警察・検察・司法の本体として組み込まれていた「穢多・非人」もいます。また、百姓身分の中には「庄屋・名主」という村方役人もいます。

部落差別問題・人権問題を標榜する世界において、また、部落研究・部落問題研究・部落史研究を標榜する世界において、旧「穢多・非人」の立場に身を置く現代の学者・研究者・教育者の多くは、旧「庄屋」の立場から「非常」を論じる人々に対して、「近親憎悪」的批判を展開してきました。

旧「庄屋」の末裔である讃岐の宮武外骨、長州の上山満之進、信州の島崎当村、群馬の田中正造、奈良の阪本清一郎・・・、彼らは、一度たりとも正統な評価を受けたことはないのではないでしょうか・・・。奈良の阪本清一郎の名前をあげることを不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、旧「庄屋」の末裔である讃岐の宮武外骨、長州の上山満之進、信州の島崎当村、群馬の田中正造・・・の正統な評価なくして、「旧庄屋の家の息子」(宮崎学著『近代の奈落』)である、「柏原三青年」のひとり、奈良の阪本清一郎・・・をすら正当な評価をすることはできないのではないでしょうか・・・。

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