2021/10/02

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤1

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

『部落学序説』の第4章の執筆に多くの時間をかけてしまいました。

『部落学序説』の第4章に入って、いわゆる明治4年の「解放令」批判をはじめたころから、『部落学序説』の筆者のところに、いろいろなかたちで批判が舞い込むようになりました。

明治4年の「解放令」に対して批判をすることは許さない・・・、という雰囲気を感じてきましたが、明治4年の「解放令」の歴史的意味を誤解・曲解すると、その後の「部落解放史」は、大きく歴史の真実からそれていくことになります。そして、唯物史観・皇国史観の共通属性であると見えるような「賤民史観」に彩られて歴史を描くようになります。

「賤民史観」を、日本の歴史学に内在する差別思想として排除することを求める『部落学序説』の筆者としては、明治4年の「解放令」を、歴史学だけでなく、その他の学問の成果を総動員して、その歴史的な意味を再検証することは避けて通ることができないいとなみです。

部落史研究の大御所である上杉聡の明治4年の太政官布告を「賤民廃止令」とみなす、今日、多くの部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって支持されている説を根底から否定しようというのですから、『部落学序説』は、学者・研究者・教育者だけでなく、部落解放同盟やその活動家に対して、その一般説・通説に反論を提示するという無謀なこころみでもあります。

部落差別の地名・人名の実名記載・・・、という基本的な差別表記・差別発言・差別行為で批判され、糾弾されても面白くないので、用意周到な執筆計画を立てて、この『部落学序説』を執筆しています。

それでも、『部落学序説』を執筆しはじめてからというもの、多方面から、批判・攻撃にさらされるようになりました。その結果、第4章は、執筆途上で、度々、中断に追いやられたし、読者の方々の不安と疑問を解消するために、少々執筆計画を変更して、執筆する予定のなかった主題について言及してきました。

【第A節】「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

この節の執筆を再開しようとして、この節のすべての文章に目を通したのですが、読者の方々の不安と疑問を解消しようとして、今から考えますと、不用な説明や釈明を至るところに散りばめ過ぎました。そのうえ、「部落解放運動」に対して過剰な批判のことばまで付加するようになりました。

その結果、どうなったのかといいますと、『部落学序説』の読者の方々が、『部落学序説』を読むことをやめられたり、筆者から離れていったり・・・、ということになりました。

ココログのアクセス解析のログをみれば一目瞭然に分かります。

それでも、『部落学序説』の訪問者数・累計アクセス数をみれば、増加傾向にあります。それは、従来の読者層が減少する一方、新たな読者層が増加して、増減を差し引きすると、増加傾向にあるということを意味します。『部落学序説』は、あらたな季節に入っているのでしょう。芽生えの「春」の季節から、「夏」に向かっているのか、「秋」にむかっているのか、それとも「冬」に向かっていっているのか・・・、定かではありません。

筆者が牧師をしている教会の庭は、この前の台風13号による風害・塩害で、庭木や草花に大きな被害がでました。風があたった部分は、すっかり枯れてしまっていますが、風害・塩害を免れた部分は、いま、再生して、きれいな花を咲かせています。『部落学序説』の筆者に対する批判・攻撃で疲れ、傷ついたこころもやがて回復して、もういちど、『部落学序説』の執筆をはじめたころの、部落差別完全解消の夢を追いかけることができるでしょう。

そのためにも、この節をきちんと押さえておく必要があります。

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤・・・、として、とりあげるのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた「名主」(西日本では庄屋という)である田中正造のことです。その村方役人である「名主」としての「役務」に主体的にかかわっていった田中正造は、「常民」と「非常民」の両方に身を置いて、希有な経験をしてきたひとです。

『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、田中正造にとって、谷中村に入ることと谷中村の人民になることとは異なることであったといいます。「正造は谷中に入ったが、人民の中に入っていなかったのである。」というのです。

林は、田中正造は、「自分の中に、まさしく「人類以外に立って、人のためになにかをしようとしている」愚人を認めざるをえなかった」と断定します。「愚民論」に立って、谷中の百姓のために何事かをなしとげようとする自分の中に、田中正造は「愚人」の姿を見たのです。田中正造は、「愚民論」を払拭し、「愚人」であることをやめるために、人生64歳にして「回心」、生きかたを変えて、73歳にいたるまで、谷中村人民として、「百姓」・「常民」としての生きざまをまっとうするのです。

田中正造の晩年の生涯は、「非常民」意識を棄てて、「常民」としての生きかたを、谷中村のひとびとと共有する旅であったのです。田中正造は、「非常民」意識を棄てるとともに、「政治の力を借りて谷中村問題を解決する意志」を棄てるのです。「田中正造は、憲法や人道に訴える、手慣れた政治的な戦いを捨て、より根本的に、いまだどこでもたたかわれたことのない新しい戦い・・・砕けたる天地を回復する、砕けたる天地における戦いを組織するという困難極まる課題を自己に課する」のです。国家の事業や援助は、人民のためにならず、人民を腐敗させるのみである・・・、それを拒否し、「百姓」(常民)の公道に生きようとする谷中村人民に、田中正造は、自らの「非常民」性を捨てて自己変革しつつ共死共生の道をたどるのです。

人生70までは自力で戦うことができる、あとは野垂れ死に・・・、と覚悟した田中正造の生涯は、林竹二は一つの言葉で言い表せるといいます。「それは、田中正造が、ことばの真の意味でラジカルな思想家であったということである。ラジカルとはつねに、その都度、何度でも、根底に帰って出直すことができるという意味である」。

林竹二は、田中正造のその生きかたを「生ける一貫性」といいます。「自己の全存在と行動とで、その思想に責任をもつ」ことであるといいます。

筆者の『部落学序説』も、田中正造の「その都度、何度でも、根底に帰って出直すことができる」ラジカルさを身に呈するものでありたいと思います。

『部落学序説』の新しい季節には、それにふさわしい新しい論文を書き続けたいと思います。

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