2021/10/02

「庄屋」の目から見た「武士」と「穢多」

 「庄屋」の目から見た「武士」と「穢多」

『田中正造全集第1巻』に収録されています『回想断片』から、21番目と23番目の断片をとりあげてみましょう。

「断片21」は、「明治7年と覚ゆ、正造南部盛岡県の獄を出でて郷に帰る。」ということばではじまります。

田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が尋ねてきます。六角家は、2000石の旗本です。

『武家の女性』(岩波文庫)の著者・山川菊栄によりますと、近世幕藩体制下においては、「武士」は、500石以上を「上士」、500石未満から100石以上までを「中士」、100石未満を「下士」と3段階に区別されていたようですが、そういう意味では、2000石の六角家は「上士」(最上級の身分)になります。

しかし、「旗本」というのは、「石高1万石以下で將軍に直接謁見を許される者」(竹内理三編『日本史小辞典』(角川小辞典))ですから、その石高は、最大から最小までは天と地ほどの差があることになります。「旗本」の60%は、「100石から500石の小知行主で、領地の支配は幕府代官にゆだね、年貢の収納していた。」といわれます。「旗本」が、「陣屋を置き、自分で支配」することを許されるのは、3000石以上ということになります。

2000石の六角家は、「年貢の収納」については、六角家の用人がそれを担当していたように思いますが、六角家が、その領地に「陣屋を置き、自分で支配」していたかどうかは定かではありません。「陣屋」を置いた場合は、「年貢の収納」だけでなく治安の維持も自前でおこなわなければならないでしょうから・・・。

他の幕府領内と同じように、治安の維持については、村ごとに「穢多の類」が配置されていたと思われますから、「村」単位の治安の維持というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」と「村役人」(庄屋・名主等)によってになわれていたと思います。このことについてはすでに論述済ですが、「穢多」はおもに司法警察、「村役人」はおもに行政警察的な仕事をしていたと思われますが、その区別明瞭ならざる時代のことですから、その職務内容は微妙に入り乱れていたと思われます。

近世幕藩体制下の「庄屋」・「名主」というのは、その「非常民」としての職務上、武士支配の中の「武士」とも「穢多」とも交流する場面が多々あったように思われます。明治前半期までは、「庄屋」ないし「庄屋」の末裔は、一般の「常民」でしかない「百姓」とは、異なった視点から「武士」ないし「穢多」を見ていたように思います。

「庄屋」・「名主」という立場は、近世幕藩体制下においては、「武士」対「百姓」という、支配・被支配の関係に置かれていただけでなく、「非常民」対「常民」という、支配・被支配の関係にも置かれていたと思われます。

つまり「庄屋」・「名主」は、「百姓」に属するという点では、「武士」の支配を受ける被支配の側にたたされたと思われますが、「非常民」としての「庄屋」・「名主」は、その他の「百姓」との関係においては、「百姓」を支配する側に身を置いていたと思われます。

「庄屋」・「名主」の職務は、武士支配の「武士」・「穢多」と違って、「支配」・「被支配」の両方の側にたって、遂行されなければならないものです。

『部落学序説』の筆者である私は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しては、「庄屋」・「名主」の研究が必須であると思っています。「庄屋」・「名主」が、「武士」(軍事を担当)をどう見ていたのか、また、「穢多」(警察を担当)をどう見ていたのか、そして、「武士」と「穢多」の関係をどのように見ていたのか、「武士」と「百姓」の関係・「穢多」と「百姓」の関係をどのように見ていたのか・・・、それを研究することによって、部落史の見直しをはかりつつ、研究の窒息状態に追いやられている、部落研究・部落問題研究・部落史研究を突破して、部落差別完全解消につなげるための新しい視点を入手することができるのではないかと思っています。

このことは、山口の地で知り合った、部落解放同盟新南陽市部の現・部落史研究会のメンバーの方々に、筆者が繰り返し指摘してきたことがらです。近世幕藩体制下の「穢多」が、当時の支配階級である「武士」(「士・農・工・商」の最上級に身分とされる)にどのように見られ、どのように記録にとどめられたかを研究するにとどまらないで、「穢多」と同じく、十手をあずかっていた「非常民」としての「庄屋」・「名主」によって、またその他の「百姓」によってどのように見られていたかを研究する必要がある・・・、と話してきました。

「講演」のお礼として『城下町警察日記』(紀州藩牢番頭家文書編纂会編)といただいたときにも、あつかましくも、紀州藩の「穢多」文書より「庄屋」文書がほしかった・・・と感想を話させていただいたのも、それまでのそういう経過があったからです。部落学の祖である川元祥一著『部落差別を克服する思想』の中にはこういう発想はありませんから・・・。

少しく脱線しましたが、『武家の女性』の著者・山川菊栄は、明治維新による「武士」階級の没落のすがたを、「武士」階級の女性の立場から、冷徹に観察しています。近世幕藩体制下においては、「武士」は「土と絶縁して城下町に住み、一定の俸祿によって生活」していて、「現代の俸給生活者と類似」していたといいます。

山川菊栄は、幕末期の「武士」の家は、「みんな貧乏」で、「ガランとして寒々しい感じ」がしたといいます。「明治を迎え、今までの地位と禄とをにわかに失った」、「下級武士」は、生活に苦しむどころか、「自己の勤労や技能によって生活し得る」限り、「身分制度からの解放」は、元「武士」を、封建的貧困から解放したといいます。「あのガランとして古ぼけた侍屋敷は、朽ち亡びゆく封建制度を象徴していた」といいます。「自己の勤労や技能」を持ち合わせていない「上士」・「中士」層の「武士」の中に、「没落」していくものが多かったといいます。中でも、「旗本」の「没落」ほど、あわれむべきものはなかったそうです。山川菊栄は、「旗本の娘の中に、芸娼妓や妾奉公に出た者が多かったこと」を指摘し、「面白い対照をしている」として、「水戸藩士の娘で、そういう境界に落ちた者は、知られているかぎりでは、ただひとりしかいなかった・・・おそらくこれは諸藩を通じて共通の現象であろうと思います。」といいます。

「旗本八万騎」・・・、彼らがどのように明治という新しい世界を生きていったのか・・・。どのように没落していいたのか・・・。そのような歴史研究はあるのでしょうか・・・。

水戸藩においては、「下級武士」だけでなく、「同心・目明し・穢多・非人」も、もちまえの「勤労や技能」を駆使して生き抜いていったのではないかと思います。

山川菊栄がいう「没落」してく「武士」・「旗本」の現実の姿が、田中正造の「断片21」に記されているのです。

田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が尋ねてきます。それは、生活「困窮の為め・・・旧領民の救いを乞」うものでした。六角雄太郎は、かつて、田中正造が「賢君」として認めた人物です。「然るに今生活に窮したりとて旧領地に来るとは・・・」と驚きはてて「骨なしの所作なり」と心の中で思うのです。

田中正三は、旧領主・六角雄太郎にむかって、自分の襟をただして、このように質問します。

「公は、その後、何等の学文を為せしや」。
元領主、答えて、「学文を為さず」といいます。

田中正造は、「然らば芸は何を為せしや。礼楽射御書数、その内何をもって熟達せられしや」と問いかけます。
元領主、答えて、「そのうち1科も学ばず」といいます。

「芸」というのは、今日的には「教養」のことで、「六芸」(「礼楽射御書数」)のことです。「学文」が「学問」を意味する一方、「芸」は、新しい時代が要求する知識と技術を身につけ国家のために労する気力を養うことを意味します。田中正造は、明治政府からの禄を食んでいる間、旧領主が、将来のために何の備えをしたのか・・・、問いかけているのです。

田中正造は更に問いかけます。「武術撃剣柔術いかに?」
元領主は「学ばず」と答えます。

ここにいたって、田中正造は「憤怒」して、「当世高家本領安堵の上は、専ら士道を研究せらるる余地もありながら、いたづらに座して何等の学文をも為さず、又、国家興亡のことに関せずとは何等の事ぞ。」と元領主に詰め寄るのです。

誰によってそそのかされたかは知らぬが、「恥知らぬ者共の君を勧めて此醜態を為さしむものなむ・・・」といって、田中正造の心中を吐露し、「よくもおめおめ来たり乞食を我が面前に述べたり、一文半と雖も公に呈するものなし」と、元領主に「痛く恥辱を与」えたといいます。

よこで、両者の話を聞いていた田中正造の父は、たまりかねて、元領主・六角雄太郎をつれだし、村民有志に働きかけて、「多少の金円物品を集めて・・・献納」したといいます。

13年後、田中正造は、東京に出向いたとき、元領主・六角雄太郎の音信をたずねます。六角雄太郎は、「君に較然悟る処あり爾来節倹を守り身を修め、終に多少の余財を貯えて地所長屋をも所有して今は相当無事に今日を送」ると答えたといいます。

13年後のことはともかく、明治7年の田中正造「憤怒」のできごとは、近世幕藩体制下の「武士」に対する田中正造の深い失望の思いを伝えています。

それにひきかえ、同じ「非常民」とはいえ、「旧穢多」の生き方のなんとさわやかなことか・・・。「身分制度からの解放」によって、「武士」同様、「穢多」も、旧身分から解放された・・・。しかも、「武士」のように、明治政府の禄を食むこともない。田中正造の住んでいる村の「穢多」たちは、生きるために、農家の「雇人」までしている。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」のしるしである十手・捕亡道具をとりあげられ、「平民」と同様に働いて生きなければならない・・・。

異郷の地の元「武士」や元「穢多」によって、不法な拷問を受けてきた田中正造にとって、故郷の「穢多」は、かつては、近世幕藩体制下においては、同じ「非常民」として、六角家の領地の治安維持に身をささげてきた身、彼らは、田中正造に不法な拷問をもってすることはなかった・・・。武士支配の末端にあって、「非常民」として従事してきた「穢多」に対して、田中正造は深い共感をもったのかもしれません。

「田中正造穢多を愛す」ということばは、「田中正造、「武士」よりも「穢多」を愛す」ということばではなかったかと思います。

元領主を「痛罵」して空手で帰した田中正造が、旧「穢多」に対して、麦打ちの仕事を提供し、休憩時にはつめたい水をさしだし、一日の労をねぎらって、風呂に入れ、酒を馳走し、床につかしめ、次の日は給金を渡す・・・。

『部落学序説』の筆者からみると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、「庄屋」・「名主」と「穢多」は同じ「支配」の側に身を置いていたがゆえの、親近感と相互理解が存在していたのではないかと思います。廃藩置県によって、「庄屋」・「名主」も「穢多」も同様に、「非常民」としての役務から解雇された・・・。これからは、「非常民」としての名を汚さぬよう、「庄屋」・「名主」も「穢多」も新しい時代を生きなければならない・・・、そんな田中正造の内なる声が聞こえてくるように思われます。

「衆」は、支配者側にたって、「百姓」を虐げてきた過去の歴史にこだわって、旧「穢多」と距離をもとうとするけれども、明治になって、区別する時代は過ぎ去った・・・。「断片23」の「田中正造穢多を愛す・・・」ということばではじまる田中正造の真情の吐露は、田中正造の「名主」としての、「非常民」としての、「支配」と「被支配」の両方の領域に同時に身を置いて生きるものとしての宣言ではなかったかと思われます。

「非常民」として、「法」に忠実に、「法」に生きようとする田中正造は、鉱毒問題で谷中村の農民の世界に入っていくとき、この「非常民」性が激しく問われることになります。田中正造の生き方(ことばとふるまい)の中から、「非常民」に固有の「支配」の側に身を置いて発想する体質を払拭しないかぎり、谷中村の農民の世界に、その権力との闘いの世界に入っていくことはできませんでした。

林竹二著『田中正造の生涯』の「谷中の苦学と開眼」の中に、その葛藤がしるされています。

「正造は、谷中の人民の中に、自分とは類を異にする存在・・・別の「人類」を見たのである。強制破壊の前夜、正造はこの「人民」と生死を共にすることを誓ったのである。正造に彼らのために死ぬ覚悟があったことは、疑う余地はない。だがこの誓いを守るのに、決定的な困難があった。それは正造が、いままでの正造であるかぎり、彼らのために死ぬことはできても、彼らとその生を共にすることはできないという一事である。正造は谷中に入ったが、人民の中に入っていなかったのである。彼は自分の中に、まさしく「人類以外に立って、人のために何かをしようとしている」愚人を認めざるを得なかったのである。・・・正造は改めて、谷中の人民の中にはいって、その一人となるか、あるいは谷中の戦いから手を引くかの二者択一の前に立たされたのである」。

林はさらに続けます。

「一つの事を学ぶということは、その事において自分が新たに作られることだ・・・学ぶということは・・・自己を新たにすること、すなわち、旧情旧我を誠実に自己の内に滅ぼしつくす事業であった。その事がなしとげられないあいだ正造においては「理解」は成立しなかったのである。・・・学問が人を自由ならしめるのは、学問が借りをつぐなうことにおける仮借のない誠実さに裏付けられているときだけである。学問が田中正造の人生を救う力であったのは、それが充分にこの裏付けを有していたからである。田中正造の苦学の中心課題は、旧情旧我の牢獄を出ることである」。

『部落学序説』の筆者の目からみると、田中正造の「苦学」は、「庄屋」・「名主」としての「非常民」であることを棄てて、一「百姓」としての「常民」の視点・視角・視座を身につけるための戦いであったと思わされます。

ここで筆者は考えざるをえません。

「非常民」のもう一方の極、旧「穢多」は、どのように「苦学」・「学問」して、「非常民」から「常民」への道、「旧情旧我の牢獄」を脱出しようとしたのでしょうか・・・。旧「穢多」にとって、「旧情旧我」は、決して、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」的自己理解のことではありません。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の自己理解のことです。マイナスを克服するのではなく、プラスを克服するに、どのように克服していったのか・・・ということです。マイナスを棄てることもむずかしいのですが、プラスを棄てることはもっとむずかしいことです。

「非常民」から「常民」への精神的戦いを放棄して、「旧情旧我」に座していては、「部落差別」は永遠になくならないのではないでしょうか。「部落差別」を温存してまで「同和対策事業」を追究する、国家と国民に対する「乞食」(こつじき)を主張するだけでは、「部落差別」は永遠に解決することはできないでしょう。

「部落差別」を完全解消に導くため、「棄てる」ために、「被差別部落」のほんとうの歴史を「得る」努力をしなければならないのではないでしょうか・・・。

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