2021/10/03

「美作血税一揆」の新解釈

「美作血税一揆」の新解釈


深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件・・・。筆者は、明治5年の「新古平民騒動」と明治6年の「美作国血税一揆」は、部落差別の歴史を解明するためには、非常に重要なできごとであると考えています。

古き時代が去って、新しい時代がやってくる・・・。それは、歴史の教科書の年表に表現されているように、古き時代から新しき時代へと、突然変化するわけではありません。鳴門の渦潮にたとえることができます。瀬戸内海を西から東へと流れてきた海流と紀伊水道を南から北へと流れてきた海流が激しくぶつかりあった大きな渦潮が発生します。筆者は、明治初年の「新古平民騒動」と「美作国血税一揆」は、古き時代の潮流と新しき時代の潮流が激突して発生したできごとであると考えています。「新古平民騒動」と「美作国血税一揆」を詳しく調べていけば、時代の変遷の謎を解明することができる・・・、といつの頃からか確信するようになっています。

川元祥一の先祖が生きていた時代は、筆者の曾祖父・吉田向学が生きていた時代です。川元の曾祖父は、「穢多」身分、筆者の曾祖父は、「百姓」身分。棲息場所も、岡山県と長野県と大きく異なります。しかし、曾祖父たちが、古き時代が過ぎ去り新しい時代を迎える際の、「古き時代の流れ」と「新しい時代の流れ」が激しくぶつかりあって生じた様々なできごとは、それぞれの歴史の中に深く影を落としているのではないでしょうか。

こと「部落史」について言えば、川元は、幸か不幸か、「美作国血税一揆」の直接の伝承の担い手として、こどもの頃からその話をずっと聞かされて育っているのです。単なる知識の継承だけでなく、川元家を貧困におとしめた「百姓」に対する無意識の反発感、「穢多」の末裔としての情念をも継承しているのです。

そんな川元が、「美作国血税一揆」をどのように受け止めているのか、「美作国血税一揆」発生のメカニズムをどのように把握しているのか。古き時代の流れと新しい時代の流れがぶつかりあってできる「渦潮」をどのように解明しているのか・・・、筆者の大いに関心を持つところです。

筆者は、川元の『部落差別を克服する思想』を何度も読み直してみて思うのですが、川元「部落学」は、古き時代の流れと新しき時代の流れを並記するのみで、新旧二つの流れが激突して発生する「渦潮」を解明できないでいるのではないか・・・。学歴も資格も持ち合わせていない「百姓」の末裔ごときに何が分かるか・・・、と激怒されるかもわかりませんが、筆者は、『部落学を克服する思想』を繰り返し読めば読むほど、そう思わざるを得ないのです。

新しき時代の流れについて、川元は、このように把握します。

「明治政府が打ち出すいろいろな新制度・政策は、農民たちにほとんど馴染みのないものだった。自分たちの内側から社会的矛盾を克服して、古いものが発展して新しくなるんだというのがあれば誰だって理解できるけれど、どこか遠くの国から飛んできたものをさあ今日からこうしなさい、と押しつけるから、自分たちにとっては天変地異みたいなものだったと思う。だから全部反対したと考えられる。その中に「賤民解放令反対」が入るわけだ。この要求は間違っている。しかしだからといって、この時の農民たちを全否定するのではなく、もう一度原点にもどり、農民たちの意識の何が大切で、何が間違っていたか、何が近代的で、何が前近代的たったか、いまからでも私たち一人ひとりが考える必要があると思う。美作国血税一揆ほどひどい賤民解放令反対一揆ではなかったにしても、しかし全国的に何らかの形で似たことが起こっている。「賤民解放令反対」といわなくても、新政府に反対した動きは関東地方にもあった。本当の意味で日本の近代を語るのはこのような農民の動きの解明から始めなくてはならないと思う」。

川元は、「美作国血税一揆」が「新政府反対一揆」であったことを認めた上で、一揆の原因として、「明治政府」が、「農民」たちとの啓蒙活動をとらず、いきなり、「農民」たちにはほとんど前知識のない諸外国の制度・政策を模倣して、明治政府の制度・政策として導入し、それを「農民」に強制したことをとりあげています。川元は、他の箇所でも、「欧米を模倣」することで、「日本の歴史、ことに民衆の歴史を無視したもので、両者の間に大きな溝があり無理があったことであるが、政府はそのことを考えていない。」と指摘しています。

旧幕藩体制下の「武士」階級を中心とする「明治政府」の、「農・工・商」の「歴史や文化・技術」を、「日本近代国家」建設のため反古にして省みない姿勢が、「美作国血税一揆」をはじめとする「新政府反対一揆」を招来したと言えると主張されているように思われます。

『部落学序説』の筆者である私も、川元の主張を認めざるを得ません。「美作国血税一揆」の正しい解釈は、「美作国血税一揆」を「解放令反対一揆」に収斂させるのではなく、数多く発生した「新政府反対一揆」のひとつとして解釈する必要があります。「美作国血税一揆」を、歴史の文脈のなかから取り出して、「解放令反対一揆」として、「純粋培養」する仕方はこのましいとは言えません。

「新政府反対一揆」の原因は、明治政府が、「王政復古」の精神を否定して、日本の国家を、近代中央集権国家にするために、なりふりかまわず「近代化」を急いだことにあります。

川元の家は、近世幕藩体制下において、先祖代々、「屠畜場を経営」し「斃牛馬処理」を営んでいたそうですが、「屠畜」・「斃牛馬処理」という1点についても、歴史の流れは、古き時代から新しき時代へと突然と変化したのではなく、二つの流れが激しくぶつかりあって、問題(「騒動」・「一揆」)を発生させたと考えられます。

「皮革」(「屠畜」・「斃牛馬処理」)産業において、どのような時代の葛藤があったのか・・・。

川元「部落学」は、古き時代から新しき時代への流れを、両者の断絶・不連続の観点から考察しているように思われます。古き時代の「歴史や文化・技術」は、一切の継承策をとられず廃棄され、新しき時代の「歴史や文化・技術」が強制される・・・。

しかし、筆者は、川元「部落学」の文言から、「皮革」(「屠畜」・「斃牛馬処理」)における、古き時代と新しき時代は、決して、断絶・不連続ではなく、激しい葛藤があったと思うのです。近世幕藩体制下の「皮革」(「屠畜」・「斃牛馬処理」)に関する「歴史や文化・技術」、それと明治に入ってから積極的にすすめられた欧米諸国の「皮革」(「屠畜」・「斃牛馬処理」)に関する「歴史や文化・技術」の導入、その両者の悲劇的葛藤状態(古き時代の流れと新しき時代の流れがぶつかってしょうじる渦潮)を如実に示しているのが、川元が、その末裔として1人称で語る「美作国血税一揆」ではないかと思います。

筆者は、先祖代々「百姓」の末裔であるが故に、川元のような「穢多」の末裔がもっている「歴史や文化・技術」の継承はありません。日常生活の座からみると、近世幕藩体制下の「穢多」身分がになった「役務」と「家職」に関する1次的な史料は伝承を持ち合わせてはいません。

今は、知識階級・中産階級に身を置く川元は、「百姓」の末裔で、学歴も資格もなく、「穢多」に関する歴史も伝承も持ち合わせていないなら、「穢多」の末裔であるおれのいうことを黙って受け入れろ・・・、と言われるかもしれませんが、筆者は、川元の「美作国血税一揆」理解は、川元が、「穢多」の末裔として、その当事者性を引きずっているために、かえって、「美作国血税一揆」の本質を見誤っているのではないかと思います。

川元は、明治5年~6年に流行した「牛疫」については沈黙を守っています。2年間で、全国5万~6万頭の牛がこの病気で倒れたといいます。そのとき、倒れていくときのおびただしい牛の予防・診断・治療・処分等の対策は、どのようにとられたのでしょうか。

川元の先祖は、近世幕藩体制下、代々、「屠畜」・「斃牛馬処理」に携わってこられたようですが、長い歴史の間には、当然、「牛疫」に見舞われた経験は1度や2度ではないでしょう。日本全国を視野にいれると、毎年どこかで、小規模な「牛疫」被害が発生していると考えられます。西洋医学の導入された明治以降も、「牛疫」の被害は大きなものがありますから、それ以前となると、ほとんど科学的なデータは残されていませんが、無視できないものがあります。長州藩では寛永年間の「牛疫」で4万頭を超える牛が倒れています。

そのとき、川元家で培われてきた「屠畜」・「斃牛馬処理」に関する「歴史や文化・技術」が採用されたのか、それとも、「古き時代」に属する、それらの「歴史や文化・技術」は切り捨てられて、明治新政府によって、欧米諸国から新しく導入された、「屠畜」・「斃牛馬処理」に関する「新しき時代」の「歴史や文化・技術」が採用されたのか・・・。

農業技術研究機構畜産研究担当理事の寺門誠致は、「維新により近代化を図ろうとした明治政府は、富国強兵の旗印のもとで畜産業の振興にも力を入れることになりました。しかし、畜産振興の原動たる獣医学は長きにわたる切支丹禁制下、西洋獣医学は極端に排斥されており、草木木皮の投薬、瀉血療法等を主とする以外には、神仏の加持祈祷に依存するといったのが維新の実情でありました。西洋獣医学が公の学問として取り入れられるようになったのは、明治3年3月7日に公布された太政官布告「西洋医術採用を可とする」によります。」といいます。

寺門は、明治政府によって、「西洋医術採用」が決定された当時を「衛生思想はもとより獣医学がきわめて幼稚であった時代」であるといいます。「西洋獣医学」からみた、日本古来の、伝統的な「衛生思想」・「獣医学」の軽視の考え方をみてとることができます。

明治5年~6年の「牛疫」問題は、東洋医学と西洋医学という2大潮流の激突の場でもあったのです。「美作国血税一揆」においても、その影響を看過することは許されないと思います。

明治政府は、「西シベリア海岸に悪性家畜伝染病(牛疫)の流行あり」との情報をもとに、やがて、明治4(1871)年6月7日、「悪性伝染病予防に関する布告」(太政官布告第276号)をだします。その布告の中で推奨された「予防法」は、「リュンデルペスト予防法」です。この布告は、廃藩置県の前に全国に通達されます。

山口県においても、「フリガナをつけた木版画」が「大量に・・・配布」されます。現在では、「この予防法こそ我国の人畜を含めて最初の防疫対策が講ぜられた画期的なものである。」と評価されていますが、当時の家畜(牛)に関与した「旧穢多」・「旧百姓」は、その「予防法」をどのようにうけとめたのでしょうか。漢方に基づく獣医学が廃棄され、代わりに西洋医学に基づく獣医学が採用されていく中、その予防・診断・治療・検疫の違いは、少なからず、家畜(牛)に関与した「旧穢多」・「旧百姓」を驚かせたのではないでしょうか。

川元は、その先祖は、近世幕藩体制下において、代々、「屠畜場経営」と「斃牛馬処理」に携わっていたと主張していますが、長州藩においては、津山藩と違って、「死牛馬処理」は認められていても、「斃牛馬処理」は認められていなかったと思われます。「死牛馬」と「斃牛馬」の違いは、前者が死んだ牛馬を対象にするのに対して、後者は、「生きた牛」を対象にするからです。

長州藩においても、「穢多」が「斃牛馬」を処理対象にすることが問題になったことがありますが、それというのも、上質の皮革を入手するために、死んだ牛馬ではなく生きた牛馬を「斃牛馬」として処理していたことが発覚したからです。藩は、その「穢多」の首を刎ねてしまいました。「斃牛馬」という概念は、解釈によっては、合法・非合法に分かれたからです。「穢多」が、利潤追求のため「生牛」を屠殺しているという「百姓」の側からの批判により、「穢多」は、法の趣旨に違背しないよう、「斃牛馬」の取り扱いを自粛させられ、「死牛馬」のみを処理の対象にしていきます。

「穢多」が、近世幕藩体制下において、「斃牛馬」(生きている牛馬)を対象にしているか、「死牛馬」(既に死んでしまった牛馬)を対象にしているかによって、「穢多」の「家職」について大きく評価が異なってきます。

川元は、この「斃牛馬」処理と「死牛馬」処理の区別をほとんどしていないようです。むしろ、長州藩の「穢多」のように「死牛馬」中心の処理ではなく、津山藩においては、「斃牛馬」が処理の対象になっていたようです。長州藩は、下関戦争の賠償として、外国艦船に対する食料(牛肉)の供給を要求されますが、長州藩には生きた牛を屠殺するものはひとりもいないといって断っています。それは、「かけひき」ではなく、事実、長州藩は、近世幕藩体制下においては、「生きている牛」の屠殺は厳禁してきたようです。

川元の解釈、川元の先祖は、代々、「屠畜場経営」と「斃牛馬処理」に関わっていたといいますが、津山藩と違って、長州藩では、考えられないことです。長州藩は、幕末期、「兵士」の体力増強にために、欧米諸国にならい、長州藩の「兵士」に肉食をさせています。幕末期においては、「生きている牛」の「屠殺」ということが行われたと思われますが、それは、幕末固有のできごとであると考えられます。

幕末から明治初頭にかけて、生きている牛馬(「屠畜場経営」)と死んでいる牛馬(「斃牛馬処理」)の処理は同一場所で行われていたという記録もあります。現代の食肉産業では考えられないことが幕末から明治初頭にかけて行われていたのです。

筆者は、津山藩の「穢多」について知識をもちあわせていませんが、もしかしたら、長州藩も津山藩も「皮革」に関連する政策はほとんど同じで、川元が、幕末から明治初頭にかけての特異な一時期の生きている牛馬(「屠畜場経営」)と死んでいる牛馬(「斃牛馬処理」)の処理が同じ場所で行われていた状況を、近世幕藩体制下全期間に渡って普遍化した結果が、川元の論述になっているのではないかと推測されます。

「穢多」の末裔が「穢多」の歴史を正しく把握していない・・・と、筆者は指摘せざるを得ないのです。「穢多」の末裔から「穢多」の本当の歴史を奪ったもの、それは、筆者が繰り返し述べている「賤民史観」が起因するのです。「穢多」の末裔も、この「賤民史観」を通して、その歴史を見るかぎり、「穢多」の歴史の真実にたどりつくことはできないのです。

「美作国血税一揆」について残された史料・・・、それは、明治政府の官憲の手がはいったあとの資料です。

《明治6年美作一揆との影響》の著者・好並隆司は、このように記しています。

「美作一揆の資料の大部分は長光徳和氏に編集による『百姓一揆資料』第5巻にまとめられているが、その資料を一見して事件の真相にかかわる疑問点がいくつか発見される。一揆首謀者として処刑された筆保卯太郎の口供書という、いわば自白の調書は拷問5度と明記されているが、何故に拷問して自白させる必要があったのか。これがひとつの疑問である。勿論、拷問は被疑者がその罪状を否認している場合、官の見込みどおりに口供をとるためにおこなわれたことは今も昔も変わりないが、5度というのは本人が関わりない内容まで、でっちあげようとする官の意図があったことをうかがわせる」。

好並は、「美作国血税一揆」について残された資料に、当時の「官」の不正捜査、「美作国血税一揆」の原因、経過等について、事実に基づいて捜査・解明されたというより、その過程で、「官」の思惑が加わり、真相が闇から闇に葬り去られた可能性があることを指摘しているのです。

川元が、「穢多」の末裔として継承している「史料」・「伝承」は、「官」の思惑の範疇にはいるのか、それとも、「官」の思惑を超えた歴史の事実・真実を伝えているのか・・・。

インターネット上で公開されています、『獣医学・獣医術の歴史データーベース』には、興味深い史料が多数掲載されています。

山口県で配布された、「フリガナをつけた木版画」の『リンデルペスト予防法』(太政官布告第276号)を引用します。

預防法(マエオキホウ) リンベルペスト家畜伝染病

一、諸開港場厳に入船を改め、当分の内、生くる禽獣は勿論新しき皮革の輸入を禁じ、殊更彼方より来たれる物は、厳に改むべし。尤も病人あらば医官改めの上その病にあらざれば上陸を許すべし。樺太・北海道・対馬等はかの地方に接し常々往来交易あれば、特に注意すべし。従来御国の皮革は北海道より来るもの多ければ専ら注意すべし。

一、いずれの地方においても追って御沙汰ある迄は病死せし禽獣を売買致す事厳禁たり。もし売買せば、御咎めあるべし。もしまた右売買せしを聞き及ばは申し出ずべし。

一、右病死せし禽獣を食しまたはその皮を剥ぎもちゆること厳禁たり。

一、各地方において禽獣の死亡、平日に増すことあらば地方官へ申し出て地方官より大学東校へ報知すべし。

一、禽獣病死せしは焼き捨てるべし。ことさら臨終に痙攣を発して死せし禽獣は油断なく焼き捨てるべし。

一、禽獣の屍を水中に捨つること禁止たり。もし見掛けば、その所の役人へ報じ取り揚げ焼き捨てるべし。

一、禽獣の死亡、相増し候地方においては、ひとしお、預防に注意すべし。もし、病に感染せんと思わば速やかに良医に託すべし。妄りに薬を服する事なかれ。

一、すべてこの病を防ぐには、病の伝来するとせざるとにかかわらず、身体を清潔にし、なるだけ衣服を洗濯し垢つけざるようにすべく家居も掃除をよくし、ことさら厩(うまや)・牛部屋または鳥小屋
・豚小屋はなるだけ清浄にし、禽獣のおるところに衣類など置かざるよう心がけるべし。

一、天気よき日には窓戸を開き風を入れをよくし、室内の乾燥するを要す。

一、生煮の物、熟さるる果物、塩漬けの物、腐臭に傾し物、硬強の物等平日たりとも宜しからず。なるだけこれを慎むべし。

一、酒はたえて禁めるにおよばざれども、暴飲すべからず。かつ、房事を節にすべし。

一、禽獣の肉を食わば、よく出所を尋ね、正しく食用のため殺せしものを食うべく、必ず病死せし肉を食うことなかるべし。

一、当分の内、新しき皮革を日用に供することなかれ。ことさら、新生皮、および外国船または北海道より輸入すること厳禁たり。

一、禽獣の屍を漬せし水を飲み、またはこの水にて顔・手足など洗えばこの病を受くる故に用水の源を正し、もしこれあらば早々取り除き川下へその趣知らすべきこと。

川元が、「明治政府が打ち出すいろいろな新制度・政策は、農民たちにほとんど馴染みのないものだった。自分たちの内側から社会的矛盾を克服して、古いものが発展して新しくなるんだというのがあれば誰だって理解できるけれど、どこか遠くの国から飛んできたものをさあ今日からこうしなさい、と押しつけるから、自分たちにとっては天変地異みたいなものだったと思う・・・。」という言葉を絵に描いたような、明治政府が欧米から導入した「新制度・政策」であり、牛馬に接して生きる「農民たちにほとんど馴染みのないもの」であったのです。ただ、「農民たち」に徒に不安と恐怖をあおるだけでなく・・・、それはやがて、太政官布告第276号の予想と対策に反して、「樺太・北海道・対馬等」からではなく、肉牛として輸入されていた「朝鮮牛」によって国内に「疫病」が持ち込まれるのですが、川元がいうように、農民たちにとっては「天変地異みたいなもの」でした。

明治4年6月に出されたこの布告は、明治5年の「新古平民騒動」のときはもちろん、明治6年の「美作国血税一揆」の頃には、日本全国の津々浦々に徹底して情報が伝わっていたのではないかと思います。幕末・明治維新の開国政策によって、諸外国から、日本人にとって好ましくないものまで伝わってくる・・・。「旧百姓」の中から、明治政府の「新制度・政策」に対する不満は反発が生じたであろうことは想像に難くありません。

明治政府がだした太政官布告を読めば、「牛」・「馬」・「鶏」・「豚」だけでなく、「人」にすら感染する恐れのある恐ろしい伝染病であると説明されているのです。日本の庶民感情からいいますと、これらのことを総称して「けがれ」といいます。しかも、その「けがれ」は、日本の庶民の日常生活の中からではなく、諸外国からやってくるのです。「けがれ(穢れ)」は、権力が「けがれ(穢れ)」とするから「けがれ(穢れ)」になるはず・・・。しかし、明治政府の権力をもってしても防ぐことができない「けがれ」が日本を襲おうとしている・・・。

その「けがれ(穢れ)」を取り除くにはどうすればいいか・・・。

布告は、感染して家畜は「焼き捨てる」ように命じています。「牛」・「馬」・「鶏」・「豚」だけならともかく、「人」に感染した場合はどうなるのか・・・。「人」も、「牛」・「馬」・「鶏」・「豚」と同じく焼き捨てられるのか・・・。

明治5年~6年、部落史の学者・研究者・教育者のいう「解放令反対一揆」を引き起こした「旧百姓」が直面していた「けがれ」のもっとも大きなものは、この太政官布告第276号が喚起した「けがれ」ではなかったのではないかと思うのです。それは、日本の古来の古き「けがれ(穢れ)」ではなく、日本の国の外から日本に持ち込まれることになる新しい「けがれ(穢れ)」なのです。

川元は、「美作国血税一揆」にかかわる「けがれ(穢れ)」を、日本の古来の古き「けがれ(穢れ)」の範疇で考察しようとします。

川元は、『続日本紀』の「722年の元正天皇の詔」を引用して、「屠畜をしたら天変地異が起こる。だから屠畜をしてはいけない・・・」と民衆が信じさせられていたと指摘します。川元は、「けがれ(穢れ)」の原因を、ことさら日本の歴史の、昔のかなたに追いやろうとしています。

しかし「美作国血税一揆」の際に、「旧百姓」が恐怖に思っていた「けがれ(穢れ)」は、庶民の日常生活からくる「けがれ(穢れ)」ではなく、明治政府の権力闘争にかかわる「けがれ(穢れ)」であり、明治政府の開国政策によってもたらされる、「外国」からやってくる、あらたな「けがれ(穢れ)」であったわけです。

「美作国血税一揆」は、「明治新政府の文明開化を理解しなかったため」の、「旧百姓」による「愚行」などではありはしないのです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、「旧百姓」を「愚民論」にたって、「愚民」として描くのを常とします。筆者は、逆に、「美作国血税一揆」は、「旧百姓」が、「愚民」などではなかったからこと起こした「新政府反対一揆」であったと考えます。

当時の牛の生産市場であった「美作」地方においては、明治4年6月の太政官布告第276号がもたらした衝撃はすくなくないものがあります。「美作国血税一揆」の当時、「美作」地方においても、恐れていた「牛疫」が流行し、牛の生産に従事していた「旧百姓」はもちろん、牛を使って農地を耕作していた一般の「旧百姓」にとっても、この「牛疫」を相当の関心事項であったことは想像に難くありません。しかし、従来の「美作国血税一揆」の学者・研究者・教育者、そして運動家は、このことについてはなぜか触れることはないのです。

代々、「皮革」をあつかってきた「穢多村」に押し寄せた「旧百姓」は、新政府に対する不信感を、近世幕藩体制下、長きに渡って、司法・警察である「非常民」として、その職務を担ってきた「旧穢多」にも波及させるのです。

明治4年6月の太政官布告第276号は、他の布告と違って、長文で、しかも、農民に周知徹底させるべく、漢字にはふりがながつけられています。その布告では、生きている牛の処理(屠畜)や死んだ牛の処理(斃牛馬処理)の不始末・不手際によって感染が拡大すると記されています。

川元がいう、「屠畜場経営」・「斃牛馬処理」に限っていいますと、「美作国血税一揆」に参加した「旧百姓」は、「穢多村」に押し入り、そこが、その地方における「牛疫」の感染源ではないか、査定をしたのだろうと推測されます。

太政官布告第276号は、「すべてこの病を防ぐには、病の伝来するとせざるとにかかわらず、身体を清潔にし、なるだけ衣服を洗濯し垢つけざるようにすべく家居も掃除をよくし、ことさら厩(うまや)・牛部屋または鳥小屋・豚小屋はなるだけ清浄にし、禽獣のおるところに衣類など置かざるよう心がけるべし。」と通達しています。「穢多」がこの布告を守っていれば、「牛疫」の感染を防げたはず・・・。しかし、「牛疫」によって、「旧百姓」の所有する牛が狂い死にをする・・・。誰が、布告の条項を守らなかったのか。最も、「生牛」・「死牛」に関わっている「屠畜場経営」・「斃牛馬処理」の担い手である「穢多村」に違いない・・・。「美作国血税一揆」を起こした「旧百姓」は、明治新政府の出した太政官布告第276号をたてにとって、抗議を展開した可能性もあるのです。

川元の先祖の家と、その村の「穢多頭」の家とは、川元が歴史のかなたから紡ぎだす古代の「けがれ(穢れ)」ではなく、当時の「旧百姓」が直面した、明治新政府・明治天皇制の権力の及ばない、新しい外来に「けがれ(穢れ)」に直面した、訴えどころの定かではない、「旧百姓」の「新政府反対一揆」の犠牲にされたのです。

好並は、「戦後の研究者が一揆と部落襲撃の矛盾を処理できないでいる」と指摘しますが、『部落学序説』に筆者の目からみると、「新政府反対一揆」と「穢多村襲撃」の矛盾など最初からありもしないのです。「穢多村襲撃」(「美作国血税一揆」)は、太政官布告第276号をめぐる「新政府反対一揆」の一要素でしかないのです。

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