2021/10/01

旧穢多の「汚穢ノ業」とは何か

「旧穢多」の「汚穢ノ業」とは何か

明治4年の「復権同盟結合規則」の「御届」の中で「恒職」とよばれているものは、いろいろなことばで表現されています。

「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」

「旧穢多」の「恒職」の説明として使用されているこれらの表現は、「けがれ」(「汚」と「穢」)に関するものであることは一読してすぐに認識できるのですが、ここでいう「けがれ」とは何を意味するのでしょうか。

最近の、部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』で、「なんでいつも「穢れ」の話になると、このようなどうでもいい貴族趣味のお遊びばなしをまことしやかに真面目に語る人ばかりなのだろう。私には、どう考えても気が知れない。」と記されていますが、「けがれ」が部落差別と深い結びつきがあると認められていながら、現在に至るも、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によってその内容はあまり解明されてはいないようです。

『部落学序説』の筆者は、その「けがれ」を二重定義の概念として認識し、「日常・非日常」の世界における「気枯れ」と、「常・非常」の世界における「穢れ」を別様に理解してきました。「気枯れ」を習俗的概念としますと、「穢れ」は法的概念として認識されます。本来、両者は、近世幕藩体制下において明確に区分されていたと思われるのですが、明治4年以降、この「気枯れ」と「穢れ」が混同されるようになります。

「復権同盟結合規則」が「けがれ」を表現するに際して、「汚」と「穢」を混同して、あるいは同義語として使用する背景には、明治4年以降の「気枯れ」と「穢れ」が混同されるようになる歴史的状況・政治的状況が反映しているのではないかと思われます。

「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、明治元年から明治4年まで「穢多」として、また、明治5年から明治14年まで「旧穢多」としてどのように、その歴史的・政治的状況を生き抜いてきたのか、その「蹤跡」を尋ねずして、「けがれ」にまつわる「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」という表現を理解することは不可能であると思われます。

『差別の視線』の著者・ひろたまさきは、明治14年の「復権同盟結合規則」にふれて次のように記しています。

「部落民の存在形態が変化した・・・。「穢多役」が解除され・・・、一般民衆の村落共同体との間にあった不可分の関係が解除され・・・「キヨメ役」は、警察官、看守、共同体による掃除作業、皮革業者等々にとって代わられるのである」。

さらに、「不可分の関係をもたなくなった部落民に対して、これまで以上に無責任に関係を「忌避」し、大ぴらでなく隠微におそれと嫌悪の「視線」をつきつけることになるとすれば、それらは近世とは違った差別の樣式というべきであろう。」といいます。

ひろたまさきは、明治40年以降一般化した「部落民」概念を使用しながら、「部落民」が差別されることになるメルクマール(指標)は、「キヨメ」から、「コレラをはじめとする急性伝染病の度重なる流行を介する中で・・・育てることになった」、「貧困」「不潔」「不徳」等の「イメージ」にシフトし、近世とは異なるあらたな近代的「差別の視線」が作り出されていったといいます。

ひろたまさきは、明治4年の太政官布告以前の「旧穢多」の「キヨメ役」にもとづく差別と、明治10年以降のコレラ騒動以降の「貧困」「不潔」「不徳」等の「イメージ」にもとづく差別は、別様のものであるといいます。「衛生警察的なその威圧的強権的行政は民衆に恐怖を広げることになった。」といいます。

ひろたまさきは、明治4年の太政官布告をさかいにして、「部落民」に対する差別に急激な変化があったとする自説に対する反論として次のような立場もあると想定します。

「明治初めの10年や20年の時間でやたらに変化するものではない、いや変化するものもあろうけれども変化しないものもあるにちがいないという考え方は、それこそごく自然に想像できることである。たしかに二百数十年間につちかってきたものが10年や20年で簡単に消え去るものではないし、明治の変革は旧支配層によってなされたので身分制の否定も不十分であったためなおさらに、差別意識や感覚あるいは行動樣式が残り続けたとすべきであろう」。

しかし、ひろたまさきは、その想定される反論を否定してこのように綴ります。「だが・・・古い差別意識はそのままの姿で明治に残り続けたのではなく、まさにインクの一滴によってその全体の色どりが変化するようなそうした変化が必ずあったのであり、それ程までに明治の変革は大きな変革であった・・・。誰も否定できない・・・。」と力説します。

近世幕藩体制下の古い差別を、明治天皇制下の新しい差別に染めてしまう「インクの一滴」とは何を意味しているのか・・・。ひろたまさきが導入する「たとえ」はよく理解することができるのですが、そのたとえが、具体的に歴史上何を意味しているのかは、さっぱり見えてきません。常識的に判断すれば、たった一滴のインクが、真水を一瞬にしてインクの色に染めてしまうような魔術的な施策などあろうはずもありません。

『部落学序説』の無学歴・無資格の筆者には、ひろたまさきによって示されるような、歴史学研究の枠組み、その枠組みの中に自らを閉じ込める研究者としての自制・・・のようなものは持ち合わせていません。歴史学の枠組みを越えて、学際的にすべての学問成果を貪欲に参照・引用します。

「復権同盟結合規則」の「「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」は、『部落学序説』の解釈原理のひとつである「常民・非常民論」のみで十分説明することができます。

「復権同盟結合規則」の「汚穢ノ業」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の「職務」内容との関連で、十分説明しきることが可能なのです。

部落解放同盟新南陽支部の方がそのブログ『ジゲ戦記』で、「どうでもいい貴族趣味のお遊びばなし」として批判される「穢れ」談義とは異なる「穢れ」の本質に肉薄することができます。それは、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座が、「貴族」(皇族・華族・士族)ではなく、その対極にある「平民」(百姓・町人)の視点・視角・視座であるために、「穢れ」をかえって直視することができるのです。

明治14年の「復権同盟結合規則」が出される1年前、司法省から『全国民事慣例類集』が出版されています。『民事慣例類集』は、当時の「慣例」を集めたものです。『民事慣例類集』によると、「慣例」とは、「政府ノ公認スル法ニ非スト云ヘドモ、人民相因襲シテ服従スル所ノ者」のことです。

その「慣例」として列挙された事例に、「警察ノ手先ヲ為ス」(山城国愛宕郡・葛野郡)、「専ラ警察探偵ノ事ヲ任ス」(摂津国八部郡)、「捕盗警察ヲ業トシ」(尾張国愛知郡)、「捕盗警察ヲ為シ」(三河国額田郡)、「無宿乞食ノ取締及ヒ警察ノ手先ヲ為ス」(上総国)、「警察ノ手先ヲ職トス」(近江国犬神郡)、「警察ノ手先ヲ為ス事アリ」(美濃国安八郡)、「官ノ警察手先ヲ為ス」(岩代国信夫郡)、「囚獄ノ夜番、警察ノ手先ヲ為シテ些少ノ給料ヲ受」(佐渡国雑太郡)、「警察ノ手先ヲ為シ・・・多少ノ給料ヲ受ク」(豊前国)等の記載がみられます。

「警察」概念は、明治以降に行政用語・政治用語として採用された概念です。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、明治4年の太政官布告以降、公的には、「外国交際上」の理由で、旧警察システム解体にともなってリストラされました。いわば、日本の歴史史上、前代未聞の近世警察のリストラが実施されるのですが、表向きは、「旧穢多」は、近代警察から排除されていったように見えますが、実際は、相当数の「穢多」が近代警察に再編成されて組み込まれていったのです。近代「警察」として再雇傭されなかった「旧穢多」の一部は、近代「警察ノ手下」として、「多少ノ給料」(警察機密費として支出)によって従来の業務に従事させられていったと思われます。

明治元年から明治4年までは、近世幕藩体制下の司法警察である「非常民」として「穢多」は、「旧来の・・・業」に従事していったと思われます。その職務の内容としては、殺人・強盗等の一般的な犯罪者、政治犯、百姓一揆の首謀者などに対する探索・捕亡・糾弾であっと思われます。しかし、廃藩置県によって近代中央集権国家の基礎を固めたあとは、それをより強固にするために、明治政府は、反体制・反政府の立場をとる政敵に徹底的に弾圧を加え、明治政府の支配システムから排除していこうとします。その結果、近世幕藩体制下の法的安定状態とはまったく異なる悲惨で残酷な状態が出現するのです。

それらの事態に、当時の正規の近代警察官(当時、近世警察官は近代警察官を「ネス」と揶揄していた・・・)だけでは対処することができず、近世幕藩体制下の司法・警察である「旧穢多」(当時、近代警察官は近世警察官を「エタ」と揶揄していた・・・)が「警察ノ手下」として動員されることになります。

これは、「民衆」の目からみると、非常に複雑で分かりにくいことがらです。近代警察官(「ネス」)も近世警察官(「エタ」)も一様に避けて通る傾向が生まれます。しかし、それは、「民衆」による近代警察官(「ネス」)も近世警察官(「エタ」)に対する差別的な排除・・・というようなものではありません。

今日の一般市民も、「何も悪いことをしていない・・・」のに、警察官に呼び止められ職務質問されると、どきっとして、不安と警戒感のようなものを抱いてしまします。明治以降、特に戦争中に、近代警察が一般国民に対して与えた不安と警戒感は、戦後の「民衆」の潜在意識の中に強く刷り込まれているのでしょう。

『部落学序説』の筆者は、近代警察官(「ネス」)に対する感情と、近世警察官(「エタ」)に対する感情は極めて類似したもの、あえていえば類似を越えて同質のものであると考えています。

明治に入ってからも続けられた会津戦争・函館戦争・西南戦争・・・、近代中央集権国家を磐石なものにするために、反体制・反権力の側に対する厳しい弾圧・抑圧を展開していきます。その結果、多くの人々が戦場で、戦争が終結したあとは戦争犯罪人として牢獄で、そしてそれ以上に、「犬死に」と表現される「戦病死」で死んでいきました。明治元年から明治10年の西南戦争も期間は、江戸後半期の近世幕藩体制下では想定することができなかった「大量殺戮」の状況に直面するのです。戦死者、戦死者の死亡原因の確認と死骸の処理、脱走・逃亡兵の追捕、行き倒れや不審死の検死と埋葬・・・、「近代警察」は、処理しなければならない大量の事案をかかえ込むことになります。「近代警察」の本来の職務遂行に深くかかわっていったのが、明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告によって解体された、近世幕藩体制下の司法・警察であった「旧穢多」であったと思われます。

明治4年の太政官布告以後は、戦死者・戦病死者が増加する傾向にあります。

「復権同盟結合規則」が作成された九州においては、「佐賀の乱」・「新風連の乱」・「秋月の乱」が発生しますし、明治10年に至っては、鹿児島で「西南戦争」が勃発します。地方で発生する小さな「乱」ではなく、「戦争」的規模の明治政府に対する反政府活動が展開されます。

「西南戦争」の死者は、「政府側」が、「死者が6279、負傷者9523という大変な人数」にのぼったと言われます(小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』中公新書)。「西郷」側の「死者・負傷者」は「2万」にのぼったと言われます。

九州の「旧穢多」は、この非常時に際して、「西南戦争」の後方支援と治安維持のために、「警察ノ手下」として動員されたと考えられます。九州の「旧穢多」は、明治政府の要請・命令に従って、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」という精神の基づいて粛々と目前の職務に従事していったのではないかと思います。

刀で切り裂かれ、槍と弓で刺し抜かれ、鉄砲で砕かれ、大砲で肉片を引きちぎられた戦死者の検死と埋葬・・・、脱走兵や逃亡兵の探索と捕縛、処刑などの戦時職務にも従事させられてと思われます。その職務内容こそ、明治14年の「復権同盟結合規則」のいう「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」にあたると思われます。

九州の「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、プロの警察官としての意識のもとで、そのような、「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」に従事していったと思われます。

明治18年の「警務要書」には、近代警察の職務内容として、「安寧警察」・「宗教警察」・「衛生警察」・「風俗警察」・「営業警察」・「河港警察」・「道路警察」・「建築警察」・「田野警察」・「漁猟警察」を列挙していますが、「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」は、その中でも、「安寧警察」・「宗教警察」・「衛生警察」・「風俗警察」・「道路警察」に関する職務に深い関連があると思われます。

九州の「旧穢多」が従事した「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」の中には、「衛生警察」・「道路警察」が含まれています。それは、「安寧警察」(公安警察)以上に、「旧穢多」に対する一般国民の視線に深刻な影響を与えました。

明治政府は、西南戦争という内戦によって多数の国民を喪失しますが、明治政府は、西南戦争終結後、あらたな「戦争」に直面したといわれます。「明治10年9月に開港場の横浜と長崎から」、「コレラが大流行」して、「さらには西南戦争の帰還兵が九州からもち帰ったものを全国にばらまいて拡大した・・・」(ひろたまさき)と言われます。当時、「コレラの原因がわかっていないので、その予防法も決めてがなく・・・清潔・消毒・隔離の公衆衛生的は方法と日常の養生法によるしかなかった。」といいます。

九州でのコレラ感染の悲惨を報じた新聞によりますと、このように記されています。「蓋シ当時西南ノ紛擾初メテ定マリ、数万ノ兵士役夫等ガ未ダ全ク凱旋解散セザルニ際シ、軍陣ノ間俄然トシテ一大敵ヲ生ジ、我ガ猛士軽卒ト雖ドモ、一タビ之ニ逢ヘバ数時間ヲ出デズシテ必ズ斃ル。鹿児島ノ如ク八代・熊本・大分の如キハ、死者ノ路頭ニ枕籍スルヲ見ルニ至リシト云フ」。

コレラは、西南戦争の終結をまたず、政府軍・西郷軍の陣営を襲い、多くの兵士のいのちを奪っていったのです。当時、コレラの感染者のうち、60%のひとがそのいのちを失ったといいます。

西南戦争終結後、それぞれの故郷の帰途についた兵士は、コレラの感染・発病によって倒れ、故郷をはるかに仰ぎ望みながら、無念の思いをもって、冷たい路上に屍をさらすことになったのです。帰還兵は、重なり合うようにして、倒れていったといわれます。八代・熊本・大分の惨状は言語に絶するものがあったのでしょうが、コレラがもたらした悲惨は、九州全域、「復権同盟結合規則」の発起人、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」の在所にも及んだと思われます。

陸路帰還したものは、その旅の途上、街道の路傍に倒れ、海路帰還したものは、寄港地で、そのいのちを失っていったと思われます。

明治政府と県行政は、コレラの蔓延を防ぐため、「道途ニ関ヲ設ケテ」コレラ罹患者を隔離していったといいます。その第一線にたたされたのが、「警察ノ手下」としての、近世幕藩体制下の司法・警察という「非常民」であった「旧穢多」ではなかったかと思われます。

西南戦争の陣営の中で発生したコレラは、陸路・海路を経て、全国に拡散されていきます。とりわけ、コレラは、西日本において猛威をふるったと思われます。安保則夫は、《眼差し/言葉/権力 近代部落問題の可視化・対象化》という論文の中で、「1877(明治10)年以後の明治年間を通じて、コレラによる病死者は37万3千余人を数え、もっともひどい被害を出した1886(明治19)年の大流行時には、その1年間だけで実に10万8千人の人々が亡くなっています。この間、日清・日露戦争による戦死者は10万2千人ですから、コレラの脅威がいかに大きかったかがあきらか・・・」といいます。

道路を警備し、コレラによる行き倒れを保護・観察し、また死者を検死、手厚く埋葬する「非常時」の職務に、「警察ノ手下」として従事させられた「旧穢多」は、明治政府と県令の命令に忠実に従えば従うほど、「非常時」の職務、「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」・「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」・「穢多ノ汚界」・「汚穢ノ業」・「旧来ノ汚業」に関与していったと思われます。明治政府の政敵に対する徹底的は虐殺と排除によって、「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」は、さらに重層化され、「旧穢多」の上に重くのしかかっていったのではないかと思われます。

その職務に従事した「旧穢多」によって、彼らの在所に、コレラが持ち込まれるようになります。日本の全国の「旧穢多村」に、コレラが発生するのです。

このコレラ、明治政府に対する西郷隆盛のたたりであるとして、「西郷病」という名前がつけられます。明治政府は、明治政府に対する国民の批判が増大するのをおそれて、コレラは「西郷病」でなく、「貧乏病」であると宣伝をはじめます。コレラが、「旧穢多村」を中心に発生するのは、「旧穢多村」の、「貧困」「不潔」「不徳」等が原因している・・・というのです。

西南戦争から時がたてばたつほど、コレラの「西郷病」説は否定され、科学的(医学的・防疫学的)装いをもって、「貧乏病」であるという認識のみがクローズアップされていきます。

「四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エザル所ノ事」に従事することがなかった「旧穢多村」の多くは、コレラに感染することがなかったにもかかわらず、新聞紙上では、「あたかも(すべての)部落がコレラ発生の温床であるかのように」報じられ、「被差別部落では発生していないにもかかわらず、被差別部落に対しては絶えず、最も患者発生の危険性を抱えた地域として警戒の目が注がれ」るようになります(黒川みどり著『地域史の中の部落問題』)。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「旧穢多」の良心と責任感に基づく所作は軽視されて顧みられることなく、「旧穢多」に対する「誤解・流言」がつきまとうようになっていきます。

『部落学序説』の筆者の目からみると、つまり、部落解放同盟新南陽支部の方がいわれる「貴族趣味的穢れ論」とは違って、近世幕藩体制下の「常民」である「旧百姓」の立場からみた「旧穢多」は、明治政府の政治的失策・瑕疵の責任を押しつけられて、野に放たれたスケープゴートのように目に映ります。

「復権同盟結合規則」に関する考察を通してみえる状況を、「部落学」の先達のことばを借用して表現すれば、「部落問題は・・・日本の官僚たちの喉に刺さった魚の骨」であるといいきることができます(川元祥一著『部落差別を克服する思想』)。

明治18年の「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が発起人となった「復権同盟結合規則」は、明治4年に「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告が出されたにもかかわらず、それ以降も「警察ノ手先」・「国家権力の手先」として生きることを余儀なくされた時代、明治4年から明治14年までの10年間を回想して、「旧穢多」が置かれた政治的・歴史的状況を、「名ハ既ニ穢多ノ汚界を脱シタリト雖ドモ、其実未ダ之ヲ去ル事能ハズ、依然トシテ汚穢ノ業ニ而已従事シ卑屈ニ」安んじることであると表現したのではないかと思われます。

九州北部の、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」たちは、「明治皇恩隆渥ノ余、遂ニ我曹ヲシテ国民平等ノ籍ニ編入シ、国民当然ノ権利ヲ得ルノ自由ヲ与エラレタリ。」ということを根拠に、「非常民」である(「旧来ノ汚業」)ことに決別、「常民」であることに、今一度復帰し、「常民」としての生涯をまっとうすることを決意して、明治14年、「復権同盟結合規則」を宣言したのではないかと思われます。

「復権同盟結合規則」は、「四民同等ノ権利ヲ復スルの自由」を当然の権利として認識し、「非常民」から「常民」への生き方を変更することを宣言したものです。明治に入って、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」が経験したことがなかったような事態(残虐非道極まりない権力による弾圧と排除に、権力側に立って関与させられるという悲惨)に直面した「旧穢多」たちが、それを可能ならしめた「旧染卑屈ノ陋習」をかなぐり棄てて、「常民」として、「平民」として新しい時代の地平を切り拓こうとした「宣言」ではないかと思われます。

部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を 中巻』の、「復権同盟は、全国で初めて部落民の解放を掲げて出現した結社ではあった。3県11部落にまたがる発起人は、おそらく皮革業のルートや姻戚関係を通じて結集したものであろう。」という見解は、あまりにも安直すぎるのではないでしょうか。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に埋没し、「皮革業のルート」や「姻戚関係」のみを「復権同盟結合規則」の背景として認識するとき、「復権同盟結合規則」の中に織り込まれた、「非常民」から「常民」への強烈な自覚と宣言、「旧穢多」の精神史、その葛藤を読むに失敗することになるのではないでしょうか・・・。

『部落解放史』は、「復権同盟のその後の活動を知る手がかりは何も残されていない。」といいます。

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