2021/10/01

旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。

 「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」

「復権同盟結合規則」の緒言の冒頭のことばです。このことばは、西南戦争という、明治新政府に対する武力を用いた最後の抵抗のあとの時代が反映されたことばです。

「維新後の政府の最初の大きな仕事は、政府に対する抵抗や反乱の動きを排除することであった。」(正村公宏著『世界史の中の日本近現代史』)と言われます。明治政府によって排除された抵抗勢力は、「幕藩制時代の支配層」・「旧武士層」・「農民などの一般国民」であったと言われます。

明治6年政変後の大久保利通と旧長州藩閥による独裁体制に対する抵抗・反乱は、「江藤新平らの佐賀の乱」(明治7年)、熊本の「新風連の乱」(明治9年)、福岡の「秋月の乱」(同年)、山口の「萩の乱」(同年)を誘発し、最後の抵抗・反乱になったのは、鹿児島の「西郷隆盛らの西南戦争」(明治10年)です。九州における10ヶ月に及ぶ内乱は、明治政府の基盤がもはや武力による抵抗・反乱では抗いようがないことを如実に示すものでした。西南戦争後は、明治政府に対する抵抗は、「武力」から「言論」にシフトして行きます。その抵抗は、「体制内」の抵抗という制限の中で行われるようになっていきます。それは、やがて、自由民権運動として展開されるようになります。

原田伴彦は、その著『被差別部落の歴史』の中で、このように記しています。「明治十年前後からいわゆる自由民権運動がさかんになりました。・・・解放令が実質的に有名無実になっていたのに失望した部落の人びと、また経済的にもっとも不平等な地位に圧迫されていた部落の人びとが、この運動に期待をよせたのは当然なことでした。東京、大阪、兵庫、奈良、福岡などの部落では、この運動に参加するものもあらわれました。明治十四年に、福岡では松園の人びとが中心になって、県内はもとより、大分や熊本の両県の部落にはたらきかけて、復権同盟をつくろうとしました。・・・「復権同盟結合規則」には「旧えたなる我らも皇国の人民・・・」にはじまり・・・」。原田伴彦は、明治14年の九州北部の復権同盟結成の動きを自由民権運動の文脈でとらえようとしているのでしょう。

しかし、部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を 中巻』の「復権同盟」に関する評価はかなり異なります。全国的にみると、「自由民権運動という時代的な潮流に影響」された事例は多々みられるが、「復権同盟」については、「無関係ではないにしても・・・その運動への連帯については一切口をつぐんでおり、そこから離れた地点に自らを位置づけているかにみえる。」といいます。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、原田伴彦説より、『部落解放史』説の方に妥当性があるように思われます。

「復権同盟結合規則」は、「御届」・「緒言」・「復権同盟結合規則」の3部構成からなりたっています(岩波近代思想大系『差別の諸相』)。最初の「御届」は、自由民権運動抑圧のために制定されたと思われる明治13年布告の「集会条例」に違背しているかどうかの問い合わせを当時の福岡県令・渡辺国武にしています。「右復権同盟規則書ノ通リ創設之儀届出候条、御差支モ無御座候ハヾ、何分共御聞通リニ相成度、此段副申仕候也」。

それに対して、福岡県は、「明治十三年太政官第拾弐号公布集会条例ニ抵触セザル以上ハ届出ニ及バズ、依テ却下ス。」という「付箋」をつけて返送しています。

福岡県は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」から出された「復権同盟」は、自由民権運動の取締りと弾圧を趣旨とする「集会条例」に抵触するものではない・・・と判断していたと思われます。なぜなのでしょうか・・・?

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からみますと、それは、「復権同盟」の組織・運営方針・活動内容が「集会条例」に違背するものでなかっただけでなく、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」そのものが、明治政府によって排除された抵抗勢力としての「幕藩制時代の支配層」・「旧武士層」・「農民などの一般国民」とは別様の存在として認識されていたためではないかと思われます。

当時の福岡県は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、反体制的な批判、抵抗や反乱に関与するとはあたまから信じていなかったのではないかと思われます。なにしろ、明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告が出されるまでは、「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としてその職務遂行にあたってきたし、布告以降も、なんらかの形で、近代中央集権国家の近代「警察」の職務に関与し続けていたからです。福岡県の管理者の立場からすると、「旧穢多」は、支配される側の存在ではなく、支配する側の存在として認識していたのではないかと思われます。

「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」ということばは、そのことを暗示しているように思われます。「御届」においては、「かたじけなくも、王政復古・開明進歩のときに遭遇し、はじめて四民平等の権利を復するの自由を与えられたり・・・。」という表現がみられますが、「復権同盟結合規則」は、明治政府の施策を是認しつつ、「いかんせん、旧染卑屈の陋習にわかに脱却するあたわず・・・」として、明治4年の太政官布告にもかかわらず「旧穢多」に対する社会的位置づけが旧態依然としているのは、「旧穢多」みずからの責任であるかのごとく論述しています。「実に慙愧感慨の至り」であるといいます。

明治4年から明治14年まで、10年の歳月が流れているにもかかわらず、なぜ、「旧染卑屈の陋習にわかに脱却するあたわず・・・」と語らざるを得なかったのでしょうか・・・?

「復権同盟結合規則」の「御届」においては、その原因は、「恒職」にあるといいます。「恒職」ということばは『広辞苑』の見出しにはみられません。「恒」は、「常に変わらないこと」を意味するそうですから、「恒職」というのは、「時代を越えて変わらざる職務」という意味あいで使用されているのでしょうか・・・。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「恒職」が、「旧来の汚業」・「世の最も穢はしとする所の業」として、「他の人民の我らを蔑視・凌辱すること昔時に異なるなき・・・」と強烈に「旧穢多」に意識せしめたのは、明治元年から明治4年の「旧来の汚業」と、明治4年の太政官布告以降明治14年までの「穢多の醜称」を脱したあとの「職」との間の同質性に由来したのではないかと思われます。

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