2021/10/01

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界 2

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その2)

『水平社の原像』の著者・朝治武氏は、「水平運動史研究は、私にとっては楽しい趣味のひとつにすぎない。」といわれますが、『水平社の原像』は、「趣味」の世界の労作ではなく、彼の「本務」である「大阪人権博物館の仕事」が大きく影響しています。

朝治武氏は、「その意味では、大阪人権博物館の仕事を離れて私の水平運動史研究は存在しない・・・」ともいいます。

朝治武氏は、「本書の直接の契機となっているのは、今にして思えば1992年2月からの全国水平社創立70周年を記念した大阪人権歴史資料館(現在の大阪人権博物館)の特別展「全国水平社-人の世に熱あれ、人間に光あれ-」であった・・・」といいます。

「前年の夏頃からはじめた準備で水平運動に関する先行研究と資料集の殆ど全てを読み通し、またその時点で知り得る限りの水平運動に関する資料を調査した。・・・そして、特別展を機に、私は本格的に水平運動史研究に入ることになった。」

そういう意味では、『水平社の原像』は、朝治武氏の「仕事」という緯糸と、「趣味」という横糸によって織りなされたものであるといえます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、『水平社の原像』が、「仕事」によって生みだされたものであろうと、「趣味」によって生みだされたものであろうと関係ありません。大切なのは、生みだされた作品(論文)の内容そのものなのですから・・・。

「部落史研究が純然たる仕事になると苦痛に感じてしまう・・・」という、朝治武氏は、彼の研究方法は、「理論的関心や研究史理解から課題設定をおこなうという通常の歴史研究のスタイルからは程遠」い・・・、といいます。

朝治武氏のいう「通常の歴史研究のスタイル」とにおける、研究主題の設定は、部落解放理論や部落史研究史を踏まえた研究主題の設定を意味しているのでしょうか・・・。

朝治武氏は、ご自分の研究法を、部落解放理論や部落史研究史の流れから逸脱したもの・・・、主流ではなく亜流である・・・、と認識されているようです。それは、彼の「本務」・「仕事」が、「博物館学芸員」であることに起因するもので、「博物館学芸員」としては、「現物資料を扱う」ことで、「水平運動史研究」の「資料を内容だけでなく形態や来歴など、関わる情報をあらゆる角度から読み込んでいく・・・」といいます。

朝治武氏のこのような文章を前にすると、無学歴・無資格の筆者は、「現在の歴史学は、もしかしたら分業化が進んでいるのではないか・・・」と思ってみたりします。

『部落学序説』の筆者が依拠している歴史学研究法は、今井登志喜著『歴史學研究法』(東京大学出版会・東大新書)ですが、朝治武氏のいう、「現物資料を扱う」、「形態や来歴」は、『歴史學研究法』の「史料批判」の中の「外的批判」に該当するものでしょう・・・? 「眞純性の批判」・「来歴批判」・「本原性の批判」と呼ばれているもののことでしょう・・・? それは、歴史学研究法に逸脱する研究法ではなく、歴史学研究法そのものです。しかも、最も基本的な・・・。

もし、朝治武氏が、ご自分の研究法を、部落解放理論や部落史研究史から逸脱したもの・・・であると認識されているとしたら、それは、現在、部落史研究に携わっている学者・研究者・教育者が、本来の歴史学研究法から逸脱している、ということを意味するようになるのではないでしょうか・・・? 朝治武氏の研究は、歴史学研究法の<逸脱の逸脱>・・・、つまり、朝治武氏は、自分こそ正統な歴史研究者であると主張されていることになります。

『博士になる方法教えます』の著者、医学博士の酒井和夫氏のいう「研究者の資質」としての5つの要件の最後で取り上げている「予断」(「ああだこうだと思っているのではなくて、自分のやっていることは意義のあることなのだ・・・」)であると思われます。

従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究に対して<批判的>(いい意味での学問的な批判・・・)な姿勢を明言されているのではないかと思われます。

朝治武氏がそのような表現をされるのは、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者からの無益な批判(非難?)を最初から避けるため・・・ではないかと思われます。

朝治武氏は、その「水平運動史研究」を、「私の理解」、「私なりの見解」、「私独自の問題意識」、「私の想い」、「私の・・・アプローチ」、「私の意識」、「私的な問題意識」、「私の独自のスタイル」・・・、と表現します。

『部落学序説』の筆者の経験からしますと、一般読者の方の中には、「著者がそういうのだから、それに間違いない・・・」として、批判攻撃されて来られる方も少なくないのですから、一般的には、過度な謙遜は、よろしくない・・・のかもしれません。

そういう意味では、朝治武氏の「水平運動史研究」が、部落解放理論や部落史研究史に携わる学者・研究者・教育者から正当な評価をうけているのか・・・、心配になります。

既存の、部落解放理論や部落史研究史の枠組みの中で、「水平運動史研究」の新説を出すことは、多くの批判(非難・中傷の場合も・・・)が生ずる可能性があります。

被差別部落出身の学者・研究者・教育者にして、そこまで<意識>しなければならないのか・・・、無学歴・無資格で「歴史学」に縁のない、『部落学序説』の筆者としては、ただただ驚かされます。

次回、朝治武氏が「水平運動史研究」を遂行する上で、その基本的な「概念」の定義をどのようにおこなっているかについて、考察してみましょう。

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