2021/10/01

「一般民衆の「視線」を気にしはじめた」旧穢多

「一般民衆の「視線」を気にしはじめた」旧穢多

「史料」が何を語っているのか、その真意を明らかにするのは難しい・・・。

今回、明治14年11月に出された「復権同盟結合規則」を読み直していて、その解釈の難しさに直面しました。

最初は、テキストを字義的に解釈しました。そのあと、「復権同盟結合規則」の注解者・ひろたまさきの解説《日本近代社会の差別構造》にそって、「復権同盟結合規則」の歴史的意義を明らかにしようとしました。無学歴・無資格の筆者ですが、「先行研究」について、網羅的に調べ上げる時間的・経済的ゆとりも、学識・能力もないにしても、せめて、手持ちの資料ぐらいは目を通そうとします。

岩波日本近代思想大系『差別の諸相』の末尾の解説《日本近代社会の差別構造》は、ひろたまさき著『差別の視線 近代日本の意識構造』(吉川弘文館)に同じ文書名で再録されていますので、その気になれば誰でも目にすることができる文章です。

その中で、ひろたまさきは、このように記しています。

「部落民衆はまず一般民衆の「視線」を気にしはじめたのである。たとえば明治14(1881)年、自由民権運動の高揚を背景に結成された「復権同盟」は、福岡・熊本・大分といまだかってない広汎な部落民衆の団結をめざすものであったが、その趣意書は「他ノ人民我曹ヲ蔑視凌辱スル事昔時ニ異ルナキハ、夫レ何ニ由リテ然ルカ。是他ナシ、名ハ既ニ穢多ノ汚界ヲ脱シタリト雖モ、其実未ダ之ヲ去ル事能ハズ、依然トシテ汚穢ノ業ニ而已従事シ自ラ卑屈ニ安ンズレバナリ」と、その「視線」は自己に向けている。つまり一般民衆が部落民衆につきつける「視線」を自己のものにしているのである」。

差別というものが、差別する側が差別するだけでは成立せず、差別される側がそれを受け入れた場合にのみ、差別は差別として存在するようになることを考慮しますと、明治14年11月に出された「復権同盟結合規則」の中に、「一般民衆が部落民衆につきつける「視線」を自己のものにしている」という事実が確認できるということは、明治14年11月には、近代的部落差別がすでに成立していたということになります。

「一般民衆」が「部落民衆」に「差別の視線」を向け、「部落民衆」はその内面において、その「差別の視線」を受容し、その「差別の視線」でおのれを見るようになっている・・・。

ひろたまさきの解釈をそのまま受け入れていいのかどうか、筆者は大いに迷うのですが、その理由は、明治14年11月時点で、「復権同盟結合規則」の発起人・「旧穢多」23名を「部落民衆」として認識することは、時代錯誤的認識を内包する可能性が高いからです。近代的「部落」概念は、法律用語として、明治20年頃に使用されはじめますので、明治14年時点では「部落民衆」という概念は成立しえないからです。「旧穢多」・「新平民」に代わって「特殊部落民」という差別的概念が使用されはじめるのは、明治40年3月のことですから(部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を 中巻』)、明治40年頃の「部落民衆」という概念を、、明治14年の「旧穢多」・「新平民」に向けて使用することに問題を感ずるからです。

『部落学序説』の筆者としては、明治14年11月時点の「旧穢多」に対して、「部落民衆」という表現を使用することは、問題をアナクロニズム的に複雑化させ、歴史の真実から遠ざからせる可能性があると思われます。

「復権同盟結合規則」の「依然として汚穢の業にのみ従事し・・・」ということばは、明治14年11月時点での意味内容と、明治40年3月時点での意味内容とでは、おおきな違いが生じている可能性もあります。歴史学の専門家としては、当然、想定される違いを解明する必要がありますが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、差別的な解釈で、時代と状況を越えて一色に染めあげる傾向があります。「旧穢多」にまつわる「汚穢の業」は、近世・近代・現代においても同じ意味内容をもっている・・・、と。近世の「穢多」の「汚穢の業」は近代の「旧穢多」の「汚穢の業」と同じものであると推定というか、断定して、歴史解釈を遂行します。

無学歴・無資格の「しろうと学」の筆者の目からみると、「穢多非人ノ称廃止」に関する太政官布告」が出された明治4年、「復権同盟結合規則」が出された明治14年、「部落」概念が政治用語・行政用語として登場してきた明治20年、「特殊部落」という差別的概念が政治用語・行政用語として登場してきた明治40年・・・、明治維新以降、近代化にともなうめまぐるしい変革は、「旧穢多」概念の内包・属性についても大きな変革を余儀なくしていったのではないかと思われます。

その変革にそって、「旧穢多」の精神史が刻まれていった・・・。

「復権同盟結合規則」の中に、どのような「旧穢多」の精神史が刻み込まれていったのか、「復権同盟結合規則」の中に、どのような精神史の変革が含まれていったのか・・・、いろいろ「迷想」している間に、筆者は、『部落学序説』の解釈原理である、「常民・非常民論」・「新けがれ論」に基づいて、ひろたまさきとは異なる解釈を獲得するにいたったのです。

以前、『部落学序説』の「【第4章】・【第A節】・【第5項】 続・「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤」の中で、このように記しました。「明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の本体であった「穢多・非人」は、どのようにして、「非常民」意識(特権意識・選民意識)を捨てて、「常民」意識を獲得していったのでしょうか・・・。すくなくとも、筆者の手元にある資料の中には、田中正造と同じ精神的葛藤と苦闘を経験したことを記録に残した「旧穢多」の存在を確認することはできないのです」。

しかし、「旧穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」から、近代中央集権国家の「常民」(平民)であることを強烈に意識して闘争しようとしていた・・・、それを示す文書は、この節で取り上げようとしている「復権同盟結合規則」であると認識するようになりました。

「復権同盟結合規則」は、ひろたまさきが指摘するような、「一般民衆が部落民衆につきつける「視線」を自己のものにしている」ことを示す文書ではなく、まったく逆に、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、自分たちに向けられた、差別的な「視線」を跳ね返そうとした文章ではないのか・・・。「復権同盟結合規則」は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が、自分たちに向けられた「差別」・「排除」・「疎外」を受容したことを示す文書ではなく、まったく反対に、それらを跳ね返そうとした、抵抗の書・闘いの書ではないのか・・・、そう、認識せざるを得なくなりました。

『部落学序説』の筆者である私は、「復権同盟結合規則」という霊峰を覆っていた暗雲がとりのぞかれ、そのすばらしい姿が展望できるようになった・・・、そんな感じがしています。

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