2021/10/01

復権同盟結合規則に関する一考察

復権同盟結合規則に関する一考察

小川順藏・古賀菊次・古賀斉基地・吉富新蔵・毛利源兵衛・島津覚念・梅津和三郎・松田太平次・村井元半七・本田茂次郎・沢田甚之十・川越新次郎・津本茂八郎・津本亦次郎・巌平次・巌金次・樋口関蔵・小川為次郎・小川森次郎・古賀京太郎・松田松次・吉田和吉・金沢安兵衛の23名の「旧穢多」の名前は、明治14年の「復権同盟結合規則」の発起人として記されています。

彼らは、今日の被差別部落のひとびとと違って、「旧穢多」の在所を示す「地名」と、「旧穢多」の家を示す「人名」に対して「禁忌」の思いを抱いてはいなかったようです。

彼らが情報交換するときの「名刺」は、「名刺雛形」にそって作成され、そこには、「何県 何国 何郡 何町村 何番地 平民」(1行目)、「何ノ何某」(2行目)が記載されることが了解されていました。発起人総代の一人、 小川順藏は、みずからを名乗るに、「名刺雛形」を先取りして、その在所を示す地名を、「福岡県 筑後国 御井郡 西久留米村 千四百九拾七番地 平民」(1行目)、「小川順藏」(2行目)と記しています。

「小川順藏」は、「旧穢多」としてのおのれの「地名・人名」を記すに、ほとんど何のためらいももっていなかったように思われます。

「小川順藏」だけでなく、「復権同盟結合規則」に発起人としてその名前を連ねた「旧穢多」は、その地名・人名を明らかにすることに、今日の被差別部落のひとびとがもっているような「地名・人名」に関する忌避感をもっていなかったと思われます。被差別部落の人々が、その「地名・人名」を恥ずかしく思い、それを隠すようになっていくのは、もっと後の時代であると思われます。

この「復権同盟結合規則」の23名の発起人たちは、「部落上層あるいは部落指導者層」に属する人々であったといわれます(岩波・日本近代思想大系『差別の諸相』)。

この「復権同盟結合規則」は、当時の福岡県令に対して出されたもので、明治13年に布告された「集会条例」(太政官布告第12号)に対して、上記23名の「旧穢多」を発起人として結成される「旧穢多」の結社が合法的であるかいなかの打診をしたものです。結果は、「集会条例ニ抵触セザル以上ハ届出ニ及バズ、依テ却下ス」として返却されます。

このことから見ても、「復権同盟」には、明治政府と福岡県に対する反体制的な組織・活動ではなかったと推測されます。むしろ、明治政府・福岡県にとって、「旧穢多」とその結社は、極めて親和性が高かったのではないかと思われます。

明治4年の「穢多非人ノ称廃止」に関する太政官布告が出されてから、この「復権同盟結合規則」が明治14年に県に提出されるまで10年の歳月が流れています。

「十年一昔」といわれますが、「十年たてば、もう昔である。十年を一区切りと見て、その間には大きな変化のあるものだということ。」(広辞苑)を意味します。つまり、「復権同盟結合規則」が出された明治14年からみると、明治4年の太政官布告はすでに過去のできごとになってしまっている・・・ということを意味します。

明治初期は、日本の近代中央集権国家建設のための近代化・欧米化が強引にすすめられた時代ですから、明治4年から明治14年の時代の変革は、無視できないものがあります。「旧穢多」23名も、それぞれの歴史と状況の中で、その10年間、さまざまな経験をしてきたのではないかと思われます。

「復権同盟結合規則」を歴史的に評価するときには、「旧穢多」23名の経験・体験した、この10年の足跡を検証する必要があります。「旧穢多」23名の置かれた歴史と状況が刻々と変わっているのに、その10年間を無視して、何の変化もなかったかのごとくに前提することは間違いであると思われます。

「復権同盟結合規則」の「緒言」において、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と記されていますが、『部落学序説』の筆者としては、このことばにいささか問題を感じてしまいます。「どういう理由があってか、穢多が穢多であるのかその起源は不明である」・・・といいます。

「旧穢多」23名は、「3県」(福岡県・熊本県・大分県)「11部落」(西久留米村・東久留米村・友田村・高瀬村・松園村・豊富村・巣林村・高良村・春武村・国武村・野中村)に散在しています。近世幕藩体制下において、それぞれ異なる歴史と状況を生き抜いてきた「旧穢多」です。当然、彼らは固有の、語るべき歴史と状況をもっていたと思われます。それなのに、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が口を揃えて、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と宣言するのは、なぜなのでしょう? なかなか理解しがたいものがあります。

「復権同盟結合規則」において、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と記されている背景には、明治4年から明治14年の間、「旧穢多」が直面した歴史的経験・体験が存在しているように思われます。

「復権同盟結合規則」には、「世ニ人外視セラレテ而テ別ニ異界ヲナシ、世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業ニノミ従事スルヲ以テ我曹ノ当務トセシ事、年已ニ久矣。」と記されていますが、この言葉は、明治4年から明治14年の間、「旧穢多」が経験した経験や体験が反映されたことばではないかと思われます。

従来の「復権同盟」に関する研究は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠して解釈されてきました。その結果、「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」ということばは正当な解釈を施されることなく、「農民層の部落への差別感情」が強調されてきました。従来の「復権同盟」に関する研究は、「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」が避けることができなかった歴史のできごとと、そのできごとにおける「旧穢多」の役割・位置づけを不問に付してきたように思います。「3県」・「11部落」・「23名」の「旧穢多」も、そのことについて、直接言及することを避けたのではないかと思います。

「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」とは何だったのか・・・。

これまでの『部落学序説』の論述を踏まえて、その内容を推測することにしましょう。

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