2021/10/02

網野善彦説の限界

網野善彦説の限界


無学歴・無資格の筆者が、日本社会史の巨頭・網野善彦を論じて、「網野善彦の限界」という主題を掲げることに少なからず違和感を覚えられる読者の方も多いでしょう。

「網野善彦の限界」といっても、網野善彦の人間性について言及するわけではありません。講談社学術文庫『東と西の語る日本の歴史』の末尾の著者紹介をみると、「1928年、山梨県生まれ。東京大学文学部卒業。日本常民文化研究所員。・・・」とあります。

「日本史の文書主義=実証主義の弊害は実に恐ろしく、世界史的にも稀である。」と、故網野善彦の言葉を引用するのは、『エゾの歴史』(講談社学術文庫)の著者・海保嶺夫ですが、彼は、網野善彦の言葉を引用したあと、日本の歴史学会には、「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた・・・」(史料を隠滅すれば歴史を自由に操作できる)、と言います。

歴史の事実は、歴史の事実自らがおのれを開示するのであって、その文字として記録された「歴史」に、その事実の有無を規定されるわけではありません。歴史のある時点で、ある出来事が起こる・・・。それは、そのとき実際に起きていたのであって、それが、「歴史」を残す「権力」を持っている「権力者」によって史料として残されなかったという理由で、歴史上の事実そのものすら葬りさってしまうことは許されることではありません。

古島敏雄は、「新しい過去も変化が激しければ激しいだけに早く過去に葬りさられ、それを知る手掛もなくなりかけている・・・」といいます。近現代の日本の歴史は、文字通り、目まぐるしく展開していったのであって、時代の潮流を読み取ることはそれほど簡単ではなかったように思われます。

幕末から明治23年までの史料についても、明治政府の収集した史料に依拠する場合が多く、民衆の歴史を明らかにする史料は極めて限られたものであるといえます。しかし、戦後の歴史研究の中で、それまで、目にすることが難しかった史料が公開され、誰でも目にすることができるようになってきています。岩波の日本近代思想大系はその代表例で、筆者は、この日本近代思想大系がなければ、『部落学序説』を執筆することはほとんど不可能であったといえます。

筆者は、日本史の「暗黒時代」は、中世ではなくて、近代、とくに幕末から明治23年の時代をさすのではないかと思っています。その間の歴史は、筆者の経験では、小・中・高を通じてほとんどならったことはないように思います。いつも明治維新前後で終わったような気がします。学校歴史教育は、児童・生徒のこころの中に、「明治維新によって、近代天皇制国家が誕生し、四民平等の新しい時代がやってきた・・・」という幻想をもたせて終わっていったような気がします。

しかし、本当は、日本人の歴史理解にとって、幕末から明治23年までの歴史をどのように受け止めるかが最も重要であると気付き、幕末から明治23年までの歴史を独学はじめたのは、学校歴史教育を終えてかなり時が経ってからです。岩波の日本近代思想大系が配刊されるようになったとき、筆者は、非常に喜びました。幕末から明治23年にいたる歴史を、歴史家の文章を通して間接的に学ぶのではなく、無学歴・無資格の筆者にとっては、岩波の日本近代思想大系という膨大な史料集を机上に置いて、直接史料をひもときながら学ぶことができるようになったのですから、そのうれしさはひとしおでした。

小さな史料は、それほど大きな意味は持っていないのかも知れませんが、それらの史料を比較し、検証をしていく作業を続けますと、史料と史料の間に、ある歴史の出来事についての豊富な「情報」が隠されているのに気付かされました。その史料と「情報」を、歴史上のひとつの出来事に焦点をあてますと、直接歴史資料に掲載されていないことがらが見えてくるようになりました。特定の歴史観(皇国史観・唯物史観、文部省史観・教科書史観)を棄て、直接、資料と伝承に対峙する中で、筆者は、新しい歴史認識を抱くようになりました。

それは、筆者の精神・思考から、「歴史主義的思考の病害」を除去することでした。「歴史主義的思考の病害」とは、田中美知太郎の言葉を借りれば、「われわれが歴史的なものの見方に拘束されて、いつも発展段階式に考え、いわゆる後進性のコンプレックスをもったり、逆にその後進性を歴史の完成、あるいは歴史の未来をになうもののように考えたりする」ことを意味します。ヘーゲルの歴史哲学への批判ですが、田中の思惑と違って、筆者にとっては、唯物史観すら、「後進性意識の裏返し」以外の何ものでもありませんでした。唯物史観に内在する「後進性意識の裏返し」が、日本の歴史学に、「発展段階式」思考に「賤民史観」を付随させたのです。

田中はこのようにいいます。「われわれはわれわれ自身の救いを、実体化された歴史的発展の段階に託さなければならないのだろうか。歴史の未来を信じさえすれば、われわれは救われるのだろうか。しかし歴史と共によくなるというのは、年をとれば賢くなるというのと同じ位の、簡単すぎる考え方ではないのか。人生から学ぶことをしなければ、われわれは老いても、かえって愚かになるだけではないか。人生には迷いが多く、歴史は必ずしも上昇の途をたどるものではない・・・」。

筆者にとって、近世幕藩体制から近代中央集権国家への移行における様々な問題は、「発展段階」を一段のぼることではなくて、日本的な思考が欧米的な思考と急激に衝突するときの衝撃の余波・・・として認識されるようになったのです。ある古きものは新しい波に飲み込まれ、ある新しいものは古きものに駆逐されていく・・・。幕末から明治23年までの様々な出来事は、古きものと新しきものとの複雑な葛藤の中に生起しており、それを理解するためには、もつれた古き糸と新しき糸をていねいにほぐしていかなければならないと。もつれた糸を棄てて新しくつむぎ直すのではなくて、あくまでもつれた糸をほぐすことが大切であると、考えるようになったのです。

網野善彦が、「日本史の文書主義=実証主義の弊害は実に恐ろしく、世界史的にも稀である。」と指摘するときの、「日本史の文書主義=実証主義」の弊害(歴史資料の絶対化)から筆者がまぬがれているのは、歴史資料のもつれた糸を解きほぐしてきた経験によります。学歴・資格を持ち合わせていないものの自由な発想に由来します。

ところが、網野善彦のいろいろな文章を読んでいて、「歴史学者」というのは、妙なところで、いろいろなことに拘束・制限されているのだなあと思わされることがあります。

網野善彦は、その著『日本中世の民衆像』(岩波新書)の副題として、「平民と職人」という言葉を用いています。『日本中世の民衆像』は、「平民」と「職人」に関する研究の書なのです。

しかし、網野善彦がいう「平民」と「職人」という言葉は、今日一般的に使用されている「平民」・「職人」という言葉と同一概念ではありません。『日本中世の民衆像』に中で使用されている「平民」・「職人」という言葉、網野史学の学術用語として再定義された言葉なのです。

『部落学序説』の第4章ですでに説いたように、「平民」という言葉は、「人民」・「民衆」という一般用語ではなくて、明治政府が採用して、近代中央集権国家のイデオロギー的用語なのです。近世幕藩体制下の「士農工商」身分、「常民・非常民」身分が解体され、近代中央集権国家に相応しく、新しく創設された概念なのです。もちろん、網野善彦が指摘するとおり、「平民」は、日本の歴史のすべてにおいてその使用が確認される言葉かもしれませんが。明治の「平民」概念は、それ以前の一般用語としての「平民」とはまったく異質なものなのです。

網野は、「平民」という言葉は、「これまでの中世社会論のなかでは、あまり使われていない言葉」であることを指摘したあとで、このように続けます。

「ただ、この平民身分の時代をこえた特徴をとらえた「常民」という言葉が、主として民俗学のほうで使われております。これは非常に積極的な意味をもち、平民身分の時代をこえて変わらない側面に光を充てようとするときに、意識的に使われてきた言葉であり、それとして十分な意味があると思っていますが、しかし、これはもともと歴史学に対する批判的な視角からつくられてきた言葉であるといってもよかろうと思います。その意味で、歴史学のなかでただちにこの語を使うことは、多少ためらわれますのと、「常民」という言葉は当時の史料に出てこないという点から、この言葉を使う意味の大事さを重々承知しつつも、中世の史料にもみえ、歴史学で使われてきた「平民」という言葉を使うことにした次第であります」。

網野は、「常民」概念が、歴史学用語ではなく歴史学に批判的な民俗学用語であること、また、中世の史料の中に「常民」概念が出てこないことを理由に、網野史学への「常民」概念の導入を断念し、あらたに、網野史学の学術用語・造語として、「平民」概念を導入するのです。

網野善彦は、なぜ、ここまで、「常民」概念を、民俗学の研究成果を、その網野史学に取り組むことにためらいをもったのでしょうか。歴史学者としての自負心のためでしょうか・・・。「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた・・・」昔の歴史学を批判していると思われる網野善彦が、中世の史料の中に「常民」概念が出てこないことを理由に、網野史学への「常民」概念の導入を断念するというのは、どういうことなのでしょうか・・・。

筆者は、網野善彦の文章を読んでいて、「歴史学者というのは、実に、不便なものだなあ・・・」と思います。網野善彦ですら、「専門分野」の枠組みを乗り越えることができないのですから・・・。学際的研究というのは、日本の歴史学を前提にする限り、ほとんど不可能なことかもしれません。

『部落学序説』の筆者は、近世幕藩体制下の「人民」を「常・民」と「非常・民」に分けて考察してきましたが、もし、網野善彦が、歴史学者としての出自にこだわらなくて、民俗学の用語「常民」を採用していたら、当然、その対極にある「非常民」概念も採用していたことでしょう。そして、『部落学序説』の筆者と、ほぼ同じことを主張することになったでしょう。

筆者が、そのような大胆な推測をするのは、網野善彦の『日本中世の民衆像-平民と職人-』の論述に依拠します。

網野善彦は、「百姓」は、「農民」だけでなく、「海の民、山の民、商工の民」を含んでいたといいます。しかし、現代人の発想では、「百姓」=「農民」という発想があるから、「百姓」という言葉は「百姓身分の多様さ」を表現しきれないとして「百姓」概念を放棄、網野史学の作業用語として「平民」を採用したといっているのです。

『部落学序説』は、「百姓」という言葉をそのままに、その概念の外延と内包を明らかにするという、極めてオーソドックスな方法で、「百姓」概念を再定義してきました。網野善彦は、あえて、近代中央集権国家のイデオロギー用語のひとつである「平民」概念を、中世の「百姓」身分を表現するのに使用する必要はなかったのではないかと思うのです。歴史学者として、使用する概念の定義を明らかにする際、古い概念をそのままに、新しい概念を導入してこと足れりとするのは、好ましいことではないのではないでしょうか。

民俗学の「常民」を放棄し、「平民」概念を流用したことで、網野史学の「平民」概念は、近代中央集権国家、明治天皇制国家の「平民」概念の属性、「非常・民化された旧百姓」という属性を抱え込むことになります。網野は、網野が理解する「平民身分」の特徴として、「年貢・公事をきちんと負担しているかぎり、移動の自由、武装の自由等々・・・平民身分の自由は保証されるといってよい」といいます。同じ中世といっても、その末期になると、「兵農分離」政策によって、「刀狩り」が実施され、「武装の自由」は剥奪されてしまいます。網野がいうように、中世「百姓」の属性として、「武装の自由」を認めていいのかどうか・・・、筆者は大いに疑問に思います。網野がいう、中世「平民」概念は、筆者のいう「常・民」概念とそれほど大きな違いはありません。

「平民」でなければ、何になるのでしょうか。網野は、「民衆」-「平民」=「職人」という式を打ち出します。「平民」ならざる「民衆」を「職人」として把握するようになります。網野史学における「職人」概念とは何なのか・・・。網野の言葉によると、「専門的な職能」を通して、お上に仕える人々のことです。その権力に対する服従の代償として、「職人」は、「特権を保証される」ことになります。

網野善彦は、「百姓」=「農民」という、現代人の先入観を排除すべく「平民」概念を導入したにもかかわらず、自ら、その定義を破棄し、「職人」の外延として、「漁民、狩猟民、手工業者、商人、芸能人、呪術師のような非農業民、農業以外の生業でもっぱら生活している人々」をとりあげます。さらに、「博打、武者、巫女・・・田堵」をも含めてしまいます。さらに、「窃盗の常習者」、「白粉焼、銅細工、紺屋」を含めます。

網野は、安易に、「平民」概念の対極にある言葉として「職人」概念をもってくるのですが、「平民」・「職人」概念のあいまいさから、その外延のあいまいさに陥ってしまっています。今日的な「職人」概念の外延と属性を無自覚的に呼び起こすことになっています。

網野は、「職人」として、さらに、「荘官、惣追捕使、図師」を含めます。さらに、「医師、陰陽師、番匠、刀磨、鋳物師、巫、海女、賈人、経師」を数えます。さらに、さらに、「山伏、僧侶、桂女、大原女、辻君(街娼)」まで含めてしまいます。

網野義彦は、「平民」の対極にある「職人」概念の外延として、「農民」以外のありとあらゆる階層の人々をいたずらに列挙しているように思われます。こうなると、網野の「職人」概念の定義は、定義という名に値しなくなります。史料から、アトランダムに引用、列挙しているに過ぎません。それらの外延に対して、網野が最初に指摘した「職人」の「専門的な職能」と「特権を保証」という属性は「周延」(distribution)が徹底されていることになるのでしょうか・・・。

筆者は、網野の「平民」・「職人」の両概念は、定義に失敗していると断言せざるを得ません。網野は、彼の理想とするところに違って、「平民」を農民とし、農民以外のひとびとを「職人」に数えているに過ぎないのです。民俗学の概念、「常民」・「非常民」概念を遠ざけつつ、その外延と内包を安易に流用しているに過ぎないのです。

網野義彦は、「歴史学者」としての、変なプライドにこだわらず、最初から、民俗学の「常民」・「非常民」概念を採用していれば、『部落学序説』の筆者が提唱する「常・民」・「非常・民」概念に到達することができていたでしょう。筆者の、「常・民」・「非常・民」理解は、筆者の単なる思いつきではなく、先立つ歴史学者・民俗学者の研究成果からの援用でしかないからです。

網野善彦の「平民-職人」理論だけでなく、「東日本人・西日本人」説、「琉球とアイヌには被差別部落は存在しない」説、その概念定義のあまさは、容易に崩すことができる類のものです。網野の理論は、ある種の通俗的な説を通俗的に証明しようとしているに過ぎないのです。日本の歴史学の通説から離脱したいと願いながら、その日本の歴史学に足をすくわれている網野の姿がそこにあります。次回、「東日本人・西日本人」説、「琉球とアイヌには被差別部落は存在しない」説を検証します。

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