2021/10/02

網野善彦説の限界(続)

網野善彦説の限界(続)


東日本人と西日本人・・・。

この言葉に最初に接したのは、網野善彦著『日本社会と天皇制』です。この小冊子が、私と私の妻に与えた影響は少なくないものがあります。

網野は、日本人を「東日本人と西日本人」に分けた上で、両者は「きわめて異質なところをもっている」と指摘するのです。「種と差」を明らかにすることは、アリストテレス以来の学問の常套手段ですから、網野が方法論的に日本人を「東日本人」と「西日本人」に分類して、その「差」(異質性)を明らかにすることは何の問題もありません。

網野は、その著『日本中性の民衆像』において、それまでの個別科学が明らかにした、「東日本」と「西日本」の自然的・地理的・歴史的・文化的差異を収集、整理して、網野独自の「東日本人」説・「西日本人」説を展開していきます。網野は、晩年に近づけば近づくほど、この「東日本人」説・「西日本人」説を後退させ、「東西の地域差」(『「日本」とは何か』)に収斂させていく傾向があるからです。

ともかく、網野善彦の「東日本人」説・「西日本人」説は、私と私の妻の間では、学問的な仮設の用語としてではなく、日常生活の言葉として入ってきました。網野は、「イギリス人とドイツ人・・・の差異と同じくらいか、いやそれ以上のちがいが東日本人と西日本人との間にはある」といいます。

私の先祖は、父方が四国讃岐の出身、母方が四国阿波の出身です。私の妻の先祖は、父方が、東北会津の出身、母方は、東京の中野区の出身。つまり、私は、「西日本人」の可能性があり、私の妻は、「東日本人」の可能性があります。

網野善彦は、日本人を「東日本人」と「西日本人」に分ける根拠として、「東日本人と西日本人の結婚の比率は10パーセント以下」であることをとりあげ、「東日本人」と「西日本人」の交流は少なく、その「社会の差異は、きわめて古くまでさかのぼり、社会の根底から違っていた・・・」といいます。

私と私の妻は、網野善彦の説に驚きの思いを持ったのですが、いつのまにか、「東日本人」・「西日本人」という言葉は、私たちの日常生活の中に定着してしまいました。夫婦の間で意見が対立したりすると、妻は、「これだから、西日本人は・・・」と露骨に私を批判してきます。旧会津藩出身でありながら長州藩に身を置く妻は、夫の私だけでなく、たくさんの「西日本人」に囲まれて生活しているのです。妻にとっては、「西日本人」という概念は、文字通り集合概念なのです。だから、「西日本人は・・・」という言葉に批判的な響きがともなうことがあるのですが、私にとって、「東日本人」は妻ひとりですから、妻とけんかをするときに、「東日本人は・・・」と言って応酬することはできません。

この20年近く、私と私の妻は、「東日本人」と「西日本人」という言葉を意識しながら、その日常生活の中で、この言葉の信憑性を確かめてきたといえます。網野善彦が、歴史学研究上の仮設として採用した概念を、生活の場で確かめてきたわけです。

結婚届けを出すとき、どちらの家の籍にも入らず、結婚してふたりが住んだ神奈川県相模原市を本籍にしたのです。網野善彦は、食べ物などにも、「東日本人」と「西日本人」の差異が見られるというのですが、新婚時代、何を食べるか・・・、ということで、私と妻との間でいろいろ折衝しなければなりませんでした。私は、「讃岐のうどん」を主張し、妻は「会津のそば」を主張します。結局、どちらがいいのか結論がでず、「名古屋のきしめん」を食べることにしました。4、5年、うどんやそばを食べないで、ただひたすら、きしめんを食べていました。

しかし、東日本人の国・山口にきて24、5年・・・。私は、うどんよりそばが好きになり、妻は、そばよりうどんが好きになりました。妥協の産物であったきしめんはほとんど食べなくなりました。食事の嗜好が入れ代わってしまったのです。うどん・そばに限りません。私は、山菜や高原野菜が好きになり、妻は、瀬戸内海の魚が好きになりました。食事だけでなく、衣食住すべてに渡って、「東日本人」と「西日本人」の要素が、融合するのではなく、入れ替わってしまったのです。

しかし、いつまでたっても、入れ替わることがないものがあります。私と妻の実家が所属している寺は、どちらも真言宗です。「真言百姓・・・」と言われますが、どちらも、先祖代々百姓の末裔です。福島の会津白虎隊と岡山の忠義桜。東と西で似ているところがあります。戦前、両者とも、戦意高揚に利用されたとかで、戦後GHQから、なんらかの「禁止」措置をとられているのです。しかし、たとえGHQの命令であったとしても、そこまでは受け入れることはできないと、会津白虎隊を顕彰し続け、忠義桜を歌い続けたのです。私も妻も、薩長によってつくられた近代中央集権国家の軍国主義に宣伝する愛国心ではなく、日本の東西の民衆に根ざしている素朴な愛国心の保持者なのです。

この20年近く、「東日本人」と「西日本人」を意識しながら、妻と一緒に生きてきて、あらためて思うのですが、その両者の差異というのは、本当に網野善彦が主張するような類のものなのだろうか・・・、という疑問です。

確かに、自然・地理・歴史・文化・民俗・風俗・産業・経済・・・、そのいずれをとっても、「東日本人」と「西日本人」の間には少なからず差異があるには違いありません。しかし、網野善彦が、「東日本人」と「西日本人」、「東日本」と「西日本」の社会的差異を示すメルクマールとして、「部落差別」の存在の有無をとりあげるのはいかがなものかと思うのです。

「被差別部落」は、「東日本」には少なく、ほとんどは「西日本」にある・・・、という主張は、近代中央集権国家建設の過程でつくられた「特殊部落」の末裔としての「被差別部落」のことを指摘しているに過ぎないなら、確かに、網野善彦がいうように、「東日本に少なく、西日本に多い」と断定することも許されるかもしれません。

しかし、明治の「特殊部落」という概念と実態を、明治を超えて、近世・中世・古代に及ぼすことは、歴史家として、あってはならないことだと思います。部落差別完全解消の道筋をつくるために必要なのは、今日の価値判断を下に歴史の事実を都合のよいように再解釈していくことではなくて、そのような解釈を極力しりぞけて、歴史の事実をより明らかにしていかなければならないということです。

日本の教科書検定のときには、文科省(国)の意向にどれだけ忠実に従うか・・・、によって合否が決められる可能性が高いと言われます。つまり、国家の方針にあうものが、歴史の事実とされ、それに反するものは、学校の教育現場から、教師や生徒・学生から遠ざけられて行くということです。教科書の分野だけに留まらず、大学の研究にもそのような枠組みが、それとなく実施されているとしたら、歴史学は、歴史の真実を追究してやまない学問であると信じている民衆を大きく裏切ることになります。

「虚構の日本史」によってつくり出される愛国心は、「虚構の愛国心」でしかありません。本当の愛国心は、自分の手で守るときに生まれてくるもの、自然や社会の中でいきていくときの人間関係によって作りだされていくものであると考えられます。

少しく脱線してしまいましたが、「東日本人」である妻と、「西日本人」である夫の私と、共通している要素、「百姓」・「真言宗」をとりあげましたが、網野善彦がいう、「東日本」と「西日本」の差異の代表的なものである「被差別部落」のあるなしは、私も妻も、「関係がない」問題です。「常・民」である私と妻は、いかなる意味でも「非常・民」である「穢多」と「穢多の末裔」の歴史・文化・民俗・産業等についてはまったくの門外漢なのです。妻は、「東日本人」であるから・・・。私は、「西日本人」にもかかわらず・・・。

しかし、私が説いている「非常・民」は、近世幕藩体制下の「東日本」と「西日本」の枠組みを超えて、すべての近世幕藩体制下の幕府支配の及ぶところに存在していたと考えられます。近世幕藩体制下の司法警察として、「安寧警察」・「宗教警察」・「衛生警察」・「風俗警察」・「営業警察」・「港湾警察」・「道路警察」・「建築警察」・「田野警察」・「漁猟警察」・・・の機能を多角的に担っていた「穢多」なる存在は、近世幕藩体制下では、「安寧警察」(公安警察)と「宗教警察」の突出したものに外ならないのですが、この司法・警察制度は、北は松前藩(北海道)から南は琉球藩(沖縄)まで存在していたのです。「穢多」概念の外延と内包は、地方によって大きくことなるとはいえ、同等の存在を全国津々浦々確認することができるのです。

『部落学序説』に筆者である私は、網野がそうするように、「被差別部落」を「西日本」にのみ固有のものとすることは大きな誤りであると思っています。「東日本」・「西日本」に渡って、北海道・沖縄を含む全国に存在していた「穢多」が、「特殊部落民」として、「西日本」に限定さるようになっていったきっかけは、「近代における屠場の変遷」の著者・中里亜夫の指摘する、明治5年から明治6年にかけて全国で流行して、5万頭から6万頭の牛が死んでしまった「牛疫」問題に端を発すると思っています。このことについては、網野善彦はとりあげることがありません。その予防と感染後の処置をめぐるさまざまは葛藤が、明治4年の太政官布告、「穢多非人ノ称廃止」に関する布告に見られる明治政府の意図とは別に、むしろその意図を否定するような形で、「旧穢多」に対して、「牛疫」にともなう「死牛馬処理」との関わりを強制さるようになっていった・・・と考えています。

中里は、「近代における差別は、このような事件から新たに増幅された可能性が高い・・・」と記しています。

通称「解放令反対一揆」は、21件が数えられるのみですが、『地域史のなかの部落問題』の著者・黒川みどりは、「それが現三重県域で起こった形跡は見当たらない。しかしながら、田村の場合にみたような対立は、表面化しないまでも各地に存在していたに違いない。」といいますが、「各地」とは、「東日本」・「西日本」全域を含む各地ではなくて、明治12年(1879)の「郡区別牛馬分布図」に「東日本」と「西日本」を分ける「牛馬の分布境界線」の「牛」が飼育されている「西日本」の各地のことです。「東日本」は、牛の存在は希薄であり、北海道と沖縄にはほとんどいません。「牛疫」で死んだ牛の火葬と、生きている牛の屠殺・・・、「旧百姓」にとって、恐るべきことがその身に起こった「西日本」の「各地」だったのです。

岐阜は、牛の産地の北限に位置していました。黒川みどりがとりあげた例は、「牛馬の分布境界線」上の実に希有な例であったのです。今後、「解放例反対一揆」の22番目、23番目・・・が、仮に発掘されると想定して考えられるのは、それは、「牛馬分布境界線」より西の地域、つまり、「西日本」、沖縄をのぞく「西日本」ということになります。「東日本」からでてくる可能性はほとんどないといっても差し支えないと思います。

網野善彦は、「被差別部落」存在の有無を、「東日本」・「西日本」を区別するメルクマールとして考えているようですが、それは、「東日本」と「西日本」を区分するためのものではなく、「牛馬分布境界線」の単なる指標でしかありません。

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