2021/10/01

「特殊部落」・「差別」の定義の方法

「特殊部落」・「差別」の定義の方法・・・

『部落学序説』の読者の方の中には、「差別がなんであるのか、定義できないものは差別について語るべきではない・・・」・「人権がなんであるのか、定義できないものは人権について語るべきではない・・・」と批判される方がおられます。

大学という高等教育の場で、大学教授という肩書をもった方から一度も講義を受けた経験のない筆者にとっては、「定義」という知的作業は極めて稚拙なものがあります。

『広辞苑』で「定義」ということばをひきますと、このように記されています。

【定義】(definition)概念の内容を限定すること。すなわち、或る概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。その概念の属する最も近い類を挙げ、それが体系中に占める位置を明らかにし、さらに種差を挙げてその概念と同位の概念から区別するのが普通のやり方。

『広辞苑』の説明を読みながら、筆者は、感心してしまいます。短いことばでこんなに明瞭に「定義」を定義できるとは・・・。言語学者というのは、「言語」だけでなく、その「言語」を使用するすべての背景についての正確な認識が必要なようです。

『広辞苑』の説明・・・、相当する英単語が使用されています。『岩波英和大辞典』をひもとくと、definition はラテン語に由来すると説明されていますので、田中秀央編『羅和辞典』(研究社)で確認しますと、このような説明がありました。

1 境をつける、区切る
2 確かに定める、確立する、明示する
3 制限する
4 限界を明示する、定義づける

『羅和辞典』と比べると『広辞苑』の説明は、「定義」の単なる字義の説明ではなく、論理学上の「定義」を定義しているように見えます。日本の社会では、「定義」という概念は、論理学を学んだ学者・研究者・教育者の間で通用することばで、それ以外の一般の民衆にとっては縁のないことばなのかもしれません。

「差別がなんであるのか、定義できないものは差別について語るべきではない・・・」という表現は、無学歴・無資格であって、学者・研究者・教育者ではない筆者に対する批判なのかもしれません。「差別がなんであるのか、定義できないもの」は、公的に学歴・資格が認められている学者・研究者・教育者の説を黙って受け入れるべきである、という・・・。

しかし、ラテン語の世界にあって、「定義」とは、必ずしも学者・研究者・教育者の独占物ではありません。人が生きていく上で、「定義」という所作は避けて通ることができない、極めて日常的な営みです。物事を識別するときに、「定義」という所作は、意識的・無意識的に関わらず、実践されていると思われます。

『旧約聖書』の中に、「創世記」という書がありますが、この中で、「男」が「女」を定義する話が出てきます。「女」だけではありません。この地上に存在するありとあらゆるものを「定義」していくのです。「創世記」は、「男」の定義によって、「すべて生き物に与える名は、その名になるのであった・・・」と記しています。定義は、人間が神によって創造された原始にさかのぼる、人間の本来の営みなのです。

しかし、「創世記」において、人間が「定義」することができないものがひとつあります。それは、「人間」自身です。人間は何であるのか、それは、人間自身の定義によって自由に改変されるものではなく、人間を創造した神によって定義され、人間はその定義を恣意的に改変することはできないのです。

『旧約聖書』のことばを信じている筆者は、当然、『旧約聖書』的意味合いで、「定義」という、人間にとって極めて基本的な所作を実践しようとします。

学者・研究者・教育者が「象牙の塔」の中で使用している「定義」という学問的所作についてはほとんど何も知りませんが、しかし、こころある学者・研究者・教育者は、「定義」という学問的所作を「象牙の塔」から引きずり出して、一般の民衆が「定義」を実践することができるように、必要な知識と情報を提供してくれます。

筆者が、昔、若かりし日、独学で学んだ「定義」の方法は、近藤洋逸・好並英司著『論理学概論』(岩波書店)です。他にも、2、3冊、論理学関係のテキストがありますが、やはり、『論理学概論』にとって代わるものはありません。

『部落学序説』の筆者にとって、「定義」とは何か・・・。

『部落学序説』の執筆を開始してまもないとき、このことについて言及していたのですが、今回、筆者の理解する「定義」を、『部落学序説』第5章第2説の主題を前提にしならが、近藤洋逸・好並英司著『論理学概論』に準拠して説明していきたいと思います。

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ひとはなぜ「定義」を求めるのでしょうか・・・。

近藤洋逸氏は、「定義を求める理由はさまざまである」といいます。「さまざま」な理由の中で、筆者にとって最も近い理由は、「他の名辞との区別を明瞭にし、その名辞の示す対象の的確な研究を可能にしたい・・・」という思いです。

「旧穢多」・「新平民」という概念との区別を明瞭にし、「特殊部落民」の示す対象の的確な研究を遂行する・・・、それが、筆者が「特殊部落」ないし「特殊部落民」という概念を定義しようとする理由です。

「定義」とは何か・・・。

近藤洋逸氏は、「簡単にいえば」といって、このように説明します。「定義とは・・・名辞(概念)の内包を明瞭にし、そのクラスを(外延)を確定する手続きである」。

近藤洋逸氏のことばに従いますと、「特殊部落」あるいは「特殊部落民」を定義するということは、「特殊部落」・「特殊部落民」概念(「被定義項」といいます)の「差別語」という属性(「定義項」といいます)を明らかにすることによって、「特殊部落」・「特殊部落民」が何であるかを明らかにする作業であるといえます。

近藤洋逸氏は、具体的な定義方法として、6種類の定義方法を、事例をあげながら詳細に説明してくれています。その6種類の定義方法を列挙すると以下のようになります。

(1)指示による定義(Ostensive definition)
(2)同意語による定義(Synonymous defenition)
(3)唯名的定義(Nominal definition)
(4)発生的定義(Genetic definition)
(5)実質的定義(Real definition)
(6)操作的定義(Operational definition)

近藤洋逸氏がとりあげている「定義」法にしたがって、部落研究・部落問題研究・部落史研究を遂行するときの基本的な概念の「定義」法について、それぞれ、具体的に説明することにしましょう。

ちなみに、『部落学序説』の筆者が、『部落学序説』の執筆に先立つ20数年前、部落解放同盟新南陽支部・部落史研究会の方々に、その支部のある被差別部落を調べてほしい・・・、と依頼されたとき、調査の前提となる知識・技術を明確にしましたが、「定義」法については、そのとき、近藤洋逸・好並英司著『論理学概論』(岩波書店)を使用することを告げています。

『部落学序説』の執筆開始後においても、「定義」については、この『論理学概論』に全面的に依拠しています。

『部落学序説』の執筆において採用している「定義」法は、上記の6つの「定義」法のうち、第5番目の「実質的定義」法です。なぜ、「指示による定義」・「同意語による定義」・「唯名的定義」・「発生的定義」・「操作的定義」ではなく、「実質的定義」法を採用するに至ったのか、具体的な事例をまじえながら、『論理学概論』にそって説明していきましょう。

●指示による定義

近藤洋逸氏によりますと、「指示による定義」は、「初歩的な定義」であり、「日常しばしば使用される」定義です。

「指示による定義」とは、「定義される名辞が適用される対象を指で示すとか、何かの行動で示し、これによって名辞の内包を理解させる方法」のことです。

たとえば、「被差別部落」という概念を明らかにするために、「被差別部落」へ連れて行って、「ここが被差別部落だ・・・」と「指で示す」こと、その「被差別部落」の隣保館において、「被差別部落」の住民と交流するという「行動で示す」ことで、「被差別部落」が何であるのか、その属性を示す方法のことです。

「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、「ここが部落だ・・・」・「この人が部落民だ・・・」と具体的に指摘することで、「部落」・「部落民」が何であるのか、その属性を示す方法です。

戦後の部落解放運動史をひもといていますと、こういう「実物による定義」、「指示による定義」がまかり通った時代もあるようです。

「被差別部落」の悲惨さを伝えるために、「写真や絵を見せる方法」というのも、「変種」ではあるが、「指示による定義」に数えられます。

近藤洋逸氏によると、<「山口県の被差別部落とは、A、B、C・・・である」というように、被定義項のクラスの含む個体の名称を列挙する>方法も、この「指示による定義」の「変種」に数えられます。

この「指示による定義」は、「日常しばしば使用される」定義法なのです。

しかし、この定義法は、「限界」と「欠陥」があります。

「ここが部落だ」と指摘されても、指摘された「差別者」にとって、どのように「被差別部落」が「被差別部落」として認識されるかは、保証の限りではないからです。「先進地視察」といって、同和対策事業がすすんでいた地域、たとえば奈良県の「被差別部落」を視察する場合、一見高級住宅街のように見える同和地区指定されたその地域を見て、どのような「被差別部落」像が構築されるかは計り知ることはできません。同和対策事業によって改善された地域の状況を確認する人もいれば、その同和対策事業の中に「逆差別」的現象を確認することで終わる人もいるかも知れません。

「先進地視察」で目にした奈良県の「被差別部落」の姿を見て、いわゆる同和問題・同和対策事業の対象地域である「被差別部落」の「共通点」(共通の属性)を認識できるか、「被差別部落」の本質を把握することができるか・・・、といいますと、非常にこころもとないものがあります。

日本基督教団の「部落解放の父」といわれる東岡山治牧師が、「部落民とはおれのことだ」と自らを指さされても、そのことで、東岡山治牧師を通して、その背後にあると思われる「被差別部落民」の共通の属性にたどりつくことができるかどうかといいますと、非常にむずかしいものがあります。知り得たのは、「部落民」と自称するひとりの人間の姿であり、「部落」とよばれる地域の姿であるからです。決して、「部落」・部落民」の本質を把握するに至ることはほとんどあり得ないのです。

「指示による定義」・・・、この定義法は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しても「日常しばしば使用される」定義法ですが、定義法としては、本質的に内包されている「限界」と「欠陥」を考えるとき、「指示による定義」だけでは、「部落民」・「特殊部落民」・「被差別部落民」を定義することは不可能です。

●同意語による定義

この定義法は、近藤洋逸氏によると、「辞典が用いる方法」だそうです。『広辞苑』で、「特殊部落」をひきますと、「部落の差別的呼称」と記されています。近藤洋逸氏によると、「特殊部落は、部落の差別的呼称である。」、「部落とは、身分的・社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域のことである・」、「特殊部落とは、未解放部落のことである。」、「特殊部落とは、被差別部落のことである。」という、『広辞苑』に記載されていることは、すべて、この「同意語による定義」ということになります。

また、「特殊部落とは、特殊な部落のことである。」という定義も、この「同意語による定義」になります。

「特殊部落」という「難解な名辞」を「これと同じ内包の平易な名辞で置き換えたり、外国語の名辞を母国語の同じ内包の名辞に翻訳する方法」もこの「同意語による定義」に入ります。「インドのカースト制度は、日本の被差別部落にあたる。」という定義も、この部類かもしれません。

しかし、この「同意語による定義」も限界と欠点があります。

なぜなら、「特殊部落」の概念の外延と内包は、「旧穢多村」・「未解放部落」・「被差別部落」・「インドのカースト制度の<不可触賤民>」の外延と内包は大きく異なっていますので、それを無視して、「特殊部落」とそのほかの地域を同一視しますと、おのずと「特殊部落」の認識に誤差と誤解が生まれてきます。

●唯名的定義

筆者にとって、近藤洋逸氏の説明は、少々難解すぎます。

「唯名的定義」は、「新しい名辞の導入法」として採用されます。「導入される名辞としては新しい名辞を用いることもあり、また古い名辞に新しい内包を与える場合もある」といいます。

明治30年代後半、明治政府は、行政用語として「特殊部落」という用語を採用しますが、当時、「新しい名辞」として導入された「特殊部落」は、「特殊部落は旧穢多村である。」として定義されたようです。

「古い名辞に新しい内包を与える場合」として、戦後、井上清によって導入された「被差別部落」概念は、「古い名辞」である「特殊部落」を、「被差別」という「新しい内包」で再定義するものでした。

この「唯名的定義」、「他の定義と異なり真偽の区別はない。」そうです。

「真偽の区別」がないところから、この「唯名的定義」は、「形式的定義」ともいわれるそうですが、この「唯名的定義」・・・、学者・研究者・教育者の間では、半ば常識化していて、最近では、あまりとりあげられることはなさそうです。学者・研究者・教育者の間で常識化している「唯名的定義」も、無学歴・無資格の筆者には、自明ではありません。

最近の憲法論や人権論における定義には、この「唯名的定義」が一般的に流通しているようです。「国家」とは何か、「人権」とは何か・・・、その問いに対する答えとしての定義には、この「唯名的定義」が用いられているとか・・・。

『広辞苑』をひもとくと、「唯名的定義」について、このような説明があります。

(nominal definition)概念を定義する場合、それを単に別の言葉に言い換えるにすぎない仕方をいう。概念の内包が十分に明らかにされていないから、定義の仕方としては不十分なものである。「音感」を「音に対する感覚」と定義する類。

「唯名的定義」は、「特殊部落」を「特殊な部落」、「被差別部落」を「差別されている部落」、「部落」を「特殊部落・未解放部落・被差別部落の短縮形」と定義する場合に該当します。「唯名的定義」では、「部落」「概念の内包が十分に明らかにされていない・・・」ことから、この「唯名的定義」も、最初から、限界と欠陥を持っているようです。

●発生的定義

この定義法は、近藤洋逸氏によると、「名辞の示す対象の発生や成立の条件をあげる方法」だそうです。この定義法は、「生物学、社会科学、歴史学などでよく使用される」もので、「特殊部落」を定義する場合、「それが形成された条件や状況をあげることによって・・・」定義されます。

「特殊部落は、明治政府によって特殊部落として認定されることによって特殊部落とされた。」、「特殊部落は、社会的・経済的・文化的低位によって差別されるようになった。」・・・、というような定義は、この「発生的定義」に該当します。

近藤洋逸氏は、この「発生的定」は、「生物学、社会科学、歴史学」の世界においては、「的確に定義」できるといいます。「特殊部落」成立の原因と結果、それを明らかにしようとする学的いとなみは、この「発生定義」と不可分であるといえるかもしれません。

しかし、この「発生的定義」法も、限界と欠点があるようです。

近藤洋逸氏は、「この定義の使用には注意が必要である。」といいます。そして、こう続けます。「事物の発生や成立の条件や事情は必ずしもその事物の本質であるとは限らないからである」。

「特殊部落」とは何か。歴史学的に、その「成立の条件や事情」を明らかにしても、それは、ただ「成立の条件や事情」を明らかにしているのみであって、「特殊部落」の「本質」を明らかにしていることにはならない・・・、というのです。

『広辞苑』には、「発生的定義」の説明があります。

「定義において、本質的属性の分析の困難な場合、その発生・成立の条件をあげて定義するもの」。

「特殊部落」とは何か。「部落」とは何か。その「発生的定義」は、最初から、「特殊部落」の「本質的属性の分析の困難」さが前提され、「本質的属性の分析」を回避して、付随的な、「特殊部落」の「発生・成立の条件」をあげてそれに代えようとするものです。

『部落学序説』の筆者が、「部落学」を提唱するのは、部落史研究の本質的限界を想定してきたためです。部落差別完全解消のためには、部落差別の「発生・成立の条件」の追究で終わらず、部落差別の「本質的属性の分析」を遂行が不可欠であると思われたからです。「部落」・「部落民」・「部落差別」の本質を明らかにするためには、「発生的定義」だけに依拠することはできないと思われたからです。

上記の「指示による定義」・「同意語による定義」・「唯名的定義」・「発生的定義」法は、それぞれに、定義法としての限界と欠点を持っているわけです。

20数年前、山口の小さな教会に赴任してきた筆者は、当時、部落解放同盟から差別文書について糾弾を受けた日本基督教団は、部落差別問題特別委員会を設置、教区・教会に対して反差別の啓蒙活動を展開していました。そして、筆者が所属することになった西中国教区においても部落差別問題特別委員会が設置されたのですが、「その委員の引受手がない・・・」、ということで、西中国教区に赴任してまもない筆者に、西中国教区はその委員のひとりに任命したわけです。

初代の委員長であった宗像基牧師は、委員会で、所属する各分区で、具体的に部落差別問題と取り組むように指示していました。4期8年に渡って委員をしましたが、すべからく優柔不断な筆者も、長年、部落差別問題とかかわっていると、被差別部落の人々や、その運動団体と接点ができ、交流が生まれてきます。

西日本部落解放夏期講座・山口県同和問題を考える宗教者連帯会議・人権展・山口県同和教育研究協議会の集会に動員され参加している間に最初に交流が生じたのが、部落解放同盟新南陽支部の方々でした。支部結成当時から、いわゆる、「同和利権」とは無関係で、正統派の部落解放運動を展開していた支部です。

その被差別部落の隣保館で開催されていた「学習会」に参加させてもらっていたある日、部落解放同盟新南陽支部の方々から、「この被差別部落のことを調べてほしい・・・」と依頼され、最初は断ったのですが、「たっての願い・・・」ということなので、部落解放同盟新南陽支部のある、旧徳山藩領地の被差別部落とその歴史を調べることにしたのですが、そのとき、どのように調査するのか、筆者のもっている知識と技術を明らかにしました。

無学歴・無資格の筆者のもっている知識・技術は大したものではないのですが、歴史学的研究方法、地方史研究方法、社会学的研究方法、民俗学的研究方法、名辞・命題・推理・体系化の方法について、最初から明らかにして取り組みをはじめたのです。

最初は、「指示による定義」・「同意語による定義」・「唯名的定義」・「発生的定義」法による、「部落」・「部落民」・「部落差別」の定義を受容しそれに依拠してものごとを発想していましたが、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対して聞き取り調査をしたことから、それらの定義法に基づく、一般説・通説・俗説を支えている研究を疑問視するようになりました。

そして、それまで、筆者が受容していた、学者・研究者・教育者によって、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して採用されていた、「指示による定義」・「同意語による定義」・「唯名的定義」・「発生的定義」をすべて破棄して、あらためて、定義しなおすことから、『部落学序説』の構築をはじめたのです。

そこで筆者が採用した定義法は、近藤洋逸氏が、5番目と6番目にとりあげている「実質的定義」と「操作的定義」法でした。「操作的定義」法は、意図的に「仮説」をたてるときに、暫定的に使用していたもので、中心は、「実質的定義」法です。

『部落学序説』の執筆計画をたてる前、その資料(史料や伝承、論文)を収集し、精読していた時期に、すでに、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して使用されている基本的な概念に対して、よりよい定義を模索していたのです。

そして、その諸定義が安定していったとき、つまり、諸概念の外延と内包の全体を見通すことができるようになったとき、『部落学序説』の執筆をはじめたのです。

ですから、『部落学序説』で使用している概念については、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々と20数年に渡って繰り返し繰り返し相互批判と検証を積み重ねてきたのです。

「実質的定義」法は、『部落学序説』執筆開始以来、これに基づいて定義してきましたので、その定義法については既存の文章を読んでいただければいいのですが、再度、筆者の理解する「実質的定義法」(real definition)について説明しておきます。

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