2021/10/01

「旧穢多」の精神史的考察は可能か

「旧穢多」の精神史的考察は可能か

『部落学序説』の執筆は、1ヶ月以上中断されたままになっていました。

その間、『被差別部落の地名とタブー』を書いていましたが、その道草を打ち切って、もう一度『部落学序説』の執筆に戻ることにしました。

『部落学序説』の第4章は、この章でもって終わりにしたいと思っていますが、第4章において、「太政官布告批判」という主題のもと、明治4年の太政官布告第448号・第449号について、多角的に批判・検証をしてきました。あらためて結論をいいますと、この太政官布告は、決して、穢多解放令・部落解放令・賤民解放令・・・等ではなく、近世幕藩体制から近代中央集権国家体制への移行期にみられる、旧身分制度の解体の一場面でしかないということです。

明治4年の太政官布告以降、「穢多」は「旧穢多」として認識されるようになりますが、「旧穢多」は、近代中央集権国家体制へ、多種多様なかたちで再編成されていきます。

明治初年から明治4年の太政官布告公布の間、「旧穢多」の中には、近代中央集権国家の近代的身分制度の「士族」・「平民」に組み込まれた人々も少なくありません。

明治4年の太政官布告以降の「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の身分を廃止され、「常民」として生きることを余儀なくされますが、「非常民」から「常民」への変化(現代的表現では、「警察官」をリストラされ「市民」になるという変化)は、近世幕藩体制下の「新百姓」になぞらえて、「新平民」という概念を生み出します。

この「旧穢多」・「新平民」は、明治30年代後半まで一般的に使用されることになります。明治30年代後半以降、官製用語として登場してきた「特殊部落民」という概念は、「旧穢多」・「新平民」という概念を駆逐して、「旧穢多」・「新平民」をも含む、新たな概念(外延と内包の拡大)として、一般的に使用されるようになります。

明治4年の太政官布告以降、「旧穢多」・「新平民」がどのように、近代中央集権国家の中に再編されていったのか・・・、史料・文献で確認できるものだけでも、実に多種多様なものがあります。

(1)「平民」にされたあとで、あらためて、近代中央集権国家の司法・警察システムの中に組み込まれていったひとびと(正規雇傭)
(2)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての専門的知識・技術のゆえに、近代中央集権国家の司法・警察システムの中に「警察の手下」として組み込まれたひとびと(臨時雇傭)
(3)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「探索」に関する知識・技術の民間転用として「探偵・調査」の仕事に転職していったひとびと。
(4)「平民」にされたあとで、司法・警察以外の教育職・一般職の公務員になっていったひとびと。
(5)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の、役務の報酬として認められていた「特権」的家職(皮革・竹細工等)を継承していったひとびと。
(6)「平民」にされたあとで、近代中央集権国家の近代的産業の新たな担い手となっていったひとびと。
(7)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下において「穢多」に許されなかった「平民」の一般的職業に従事していったひとびと。
(8)「平民」にされたあとで、近世幕藩体制下において「穢多」に許されなかった(禁忌のひとつであった)「屠殺」の職業に従事していったひとびと。

近代中央集権国家の司法・警察システムの中に再雇傭されなかった「旧穢多」の多くは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の職務から遠ざかっていくことになります。「非常民」の職務を継承していったひとびとは、警察官・探偵(公務員)、探偵・調査員(民間)に関与していったと思われますが、その他の多くの「旧穢多」は、「非常民」としての職務から離れて、多種多様な職業に転じていったと思われます。

筆者は、その際、「旧穢多」は、どのように、「非常民」意識を棄て、「常民」意識を獲得していったのか・・・、大いに関心をもちます。

前節でとりあげた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた、村方役人の名主であった田中正造は、足尾銅山鉱毒事件に政治家としてかかわっていく過程の中で、「非常民」意識を棄てて、「常民」意識を獲得するために、「苦学」をせざるを得なくなります。その精神的葛藤のすさまじさに驚かされざるを得ないのですが、その精神的葛藤を、田中正造の精神史として描ききったのが、林竹二著『田中正造の生涯』(講談社現代新書)でした。田中正造の精神史を描いた著作としては、林竹二著『田中正造の生涯』は不朽の名作にふさわしいものではないかと思われます。

筆者は、近世幕藩体制下の「村」レベルの司法・警察である「非常民」のもうひとつの極、「穢多」は、明治4年の太政官布告以降、どのように、「非常民」から「常民」への精神的葛藤を経験することになったのか、林竹二著『田中正造の生涯』と同等の論文・著作を探し続けてきたのですが、今日に至るまで、筆者に期待に応えてくれる論文・著作に遭遇することはありませんでした。

それにもかかわらず、今回、筆者は、あえて「旧穢多」の精神史的考察を敢行しようとしていますが、筆者に可能なことなのかどうか・・・、こころもとないものがあります。無学歴・無資格、しかも、被差別部落出身者ではない「差別(真)」の筆者が、「旧穢多」の精神史を描くことなど、あまりにも無謀ではないか・・・、というためらいの思いを持たざるを得ないからです。

「精神史」を『広辞苑』でひきますと、このような説明がなされています。

【精神史】(Geistesgeschichte)歴史的事実の背後に歴史を動かす力として精神的な力が働いていると考え、この見地から歴史をとらえ、芸術・学問・宗教などの文化形象を精神の歴史として考察するもの。とくにドイツ的な考え方。

『広辞苑』の精神史に関する定義に沿って、この節を論述することはとうてい不可能ですが、近代的部落差別が成立するためには、日本の近代国家建設の過程で近代的部落差別をシステムの中に組み込んでいった側の精神史(「差別の精神史」・「被差別の精神史」)だけでなく、その差別制度・差別政策・差別思想を受容していって、自らを、国家公認の被差別民・「特殊部落民」たらしめていった、被差別の側の精神史の考察は不可欠であると思われます。

「差別」は、差別する側だけでは成立しません。差別される側が、その差別を受容して、差別する側の差別的な視線で、被差別者が自分自身を認識するようになったとき、はじめて、「差別」は、制度的・社会的に存在するようになります。

明治4年の太政官布告以降、「旧穢多」の精神世界で何が起こっていったのか・・・。「旧穢多」は、「非常民」から「常民」への道程を、どのような精神的変革を伴いつつ歩んでいったのか・・・。「旧穢多」の精神史を解明することは、近代的部落差別の淵源を解明するためにも必要欠くべからざる研究テーマです。

しかし、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、「旧穢多」の精神史を解明することにはあまり熱心ではありませんでした。学者・研究者・教育者だけでなく、被差別部落の当事者自身も・・・。部落解放運動の担い手の側からの、「部落差別はいわれなき差別・・・」、「部落差別は差別されたものにしかその痛みは分からない・・・」という言葉と思想に阻まれて、その障壁の中に立ち入ることは難しいものがあったと思われます。

被差別民の歴史の実像に基づく研究は退けられ、部落解放運動の基本方針や闘争理論によって私的思想統制と検閲によって捨象された「イデオロギー」(『部落学序説』の筆者が「賤民史観」と呼んでいるもの)的理解のみが要求されました。多くの学者・研究者・教育者は、この差別的な「イデオロギー」を受け入れ、「学問」の本質、真実を探求するという学者・研究者・教育者としてのいとなみを放棄してしまいました。

「旧穢多」の精神史を解明する研究は、ついぞ、なされてこなかったように思われます。「旧穢多」の精神史は、「差別の精神史」・「被差別の精神史」で代替することができない、極めて重要な問題提起をはらんでいるように思われます。(続く)

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