2021/10/02

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤2

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤2

林竹二著『田中正造の生涯』は、田中正造研究の金字塔です。

なぜ、林竹二著『田中正造の生涯』について、そのような評価を下すことができるのかといいますと、著者の林竹二は、田中正造の生涯に渡る精神史を解明しているからです。

『部落学序説』の筆者は当然、「田中正造穢多を愛す」の著者・田中正造について言及するときにも、「常民・非常民」論という解釈原理に依拠せざるを得ないのですが、『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、「常民」・「非常民」ということばを一度も使用することなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担っていた名主・田中正造の、名主(非常民)であるがゆえの自負と責任感に満ちた精神的葛藤と、やがて、「非常民」であることを捨てて、谷中の元百姓と、「常民」として、共に生きる道を闘い取っていったその精神的過程を、克明に描ききっています。

林竹二の田中正造研究と、その他の学者・研究者・教育者による田中正造研究の違いを大きく隔てているものが、この1点にあるのではないかと思います。

林は、「田中正造は安政4(1857)年17歳で、父の割元昇任のあとをうけて小中村の名主となった・・・。」といいます。「身分の意識はうすかった・・・」けれども、「12年の間、小中村の「政治」に対して責任を負って生きていた・・・」といいます。

近世幕藩体制下の武士階級にありがちな、その身分を誇るような側面は、田中正造に見出すことはできないけれども、「村内百姓の公選」によって、「名主」としての「非常の権力」を授けられて、村方役人としての職務をまっとうしようとした田中正造の生きかたの中には、「非常民」としての鮮烈な意識と自覚があったのではないかと思います。

田中正造の「非常民」としての意識は、同じ「非常民」であるといっても、武士支配の末端の「非常民」である「穢多・非人」と違って、百姓支配の先端の「非常民」として、「百姓」に対して、「非常」時だけでなく、「常・非常」時を問わずかかわり続け、「村と人民の生活を守る」ために「権力の恣意と戦う意志を捨てなかった・・・」といわれます。

田中正造の生涯に幾多の試練と苦難をもたらしたものは、田中正造の「非常民」(庄屋・名主・村方役人)であることの自覚と責任感であったのではないかと思われます。

その「非常民」意識は、明治維新以降、ますます、田中正造の精神世界にあって増幅され、明治11年、田中正造は、「権力の恣意から人民の生活を守る制度的・法的な保障を確保するための戦いに・・・残る35年の生涯を賭けようと身構えた」といいます。この、林のことばは、田中正造が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、庄屋・名主・村方役人としての経験で培った政治感覚を、近代中央集権国家の政治の世界に持ち込み、それを貫徹しようとした・・・、と受け止めることができます。

田中正造は、明治23年第1回総選挙によって、衆議院議員に当選します。

林は、「数多くの・・・政治家中、田中正造だけが、人民を裏切らなかった」といいます。「その秘密の一つは、彼が政権への傾斜からまったく自由であった・・・事実のうちに求めることができる」といいます。「政権を握らないかぎり、何もできないという政治家」と違って、田中正造は、逆に、「政権」そのものから自由になって、政権に組み込まれずとも、その政治理念をまっとうしようとした希有な政治家であったと思われます。

足尾鉱山鉱毒問題と、渡良瀬川周辺で生活する人民(百姓・平民・常民)の被った公害とその被害の悲惨さを知った田中正造は、国会議員を辞職し、谷中村に入り、そこで戦う「共同体」(林のことば)に身を置くようになるのです。

林は、「人民を代表して議会で戦って、人民を守ることのできなかった田中正造は、直接人民の中に入って、人民と共に戦おうとしたのである。だが谷中に入ることと、谷中の人民の中に入る・・・、その一人となるということとは全く別のことであった。」といいます。

田中正造は、谷中村に入っても、谷中村の人民(百姓・平民・常民)と共に戦うことができませんでした。共に戦うためには、田中正造は、それまでの「非常民」としての、名主・国会議員としての意識を捨てて、谷中村の「常民」としての、人民(百姓)になりきらなければならなかったのです。

林は、「田中正造は、9年にわたる谷中の苦学に堪えて、谷中人民の一人になった。」といいます。

林のことばは、田中正造が、その死をもって、やっと、「谷中人民の一人になった。」ことを意味します。「非常民」から「常民」へ、その生きざまの転換は、想像を絶する精神的葛藤を田中正造にもたらしたのでしょう。田中正造は、自らの生きざまを「天国にゆく道ぶしん」といいます。

『部落学序説』の筆者である私は、「非常民」としての田中正造が、「常民」として、谷中村の「百姓」と同じ地平線・水平線に立って生きるためにたどった精神的葛藤と苦闘を、林竹二著『田中正造の生涯』は、充分に描ききっていると思うのです。林竹二著『田中正造の生涯』は、田中正造の真正な精神史・思想史であると思うのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、武士支配の「奉行・与力・同心・目明・穢多・非人」は、どのようにして、その「非常民」(司法・警察に携わることへの特権意識・選民意識)を払拭して、「常民」になることができたのでしょうか・・・。そのための精神的葛藤と苦闘はどのようなものだったのでしょうか・・・。

明治4年の「穢多非人ノ称廃止」の太政官布告によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の本体であった「穢多・非人」は、どのようにして、「非常民」意識(特権意識・選民意識)を捨てて、「常民」意識を獲得していったのでしょうか・・・。すくなくとも、筆者の手元にある資料の中には、田中正造と同じ精神的葛藤と苦闘を経験したことを記録に残した「旧穢多」の存在を確認することはできないのです。「旧穢多」の多くは、「旧百姓」の精神を共有することなく、今日にいたっているのではないか・・・。ときどき、そのように推測せざるを得なくなります。

「旧穢多」の「非常民」意識は、明治4年の太政官布告以降、どのような意識へと変節していったのでしょうか・・・。次回、節をあらため論じてみたいと思います。

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